二章:黙する湖水と、秘する声

2-01


  *


 二人は陽射しの中、段々畑の間を通る道を抜け、勾配のさほど厳しくはない山道を頂上に向かいゆっくりと歩く。


「──本当に珍しく、良いお天気です」


 眩しそうに目を細め、白い日傘を差したシズクが微笑む。少し息を乱すシズクに合わせ、カナメはゆったりとした歩調で隣を歩いた。シズクは淡い水色の着物、カナメはいつもの黒い三つ揃えだ。風は穏やかで陽も暖かく、小春日和を絵に描いたが如き天候である。


 東の山と同様に踏み固められた道は歩き易く、幸いにも水溜まりやぬかるみなどは無さそうだった。草履と革靴が固い土を踏む足音が、川のせせらぎと鳥の囀りに重なる。


 カナメが道の左側、柵の取り付けられた端から下方に目を遣ると、斜面となった先には頂上の湖から流れ出た川が見えた。川幅はそこまで広くはないが昨夜の雨の影響だろうか、思ったよりも流れは速くなかなかの水量を有しているようだ。シズクがカナメの目線に気付いたのか、カナメの顔を見上げるようにして小首を傾げていた。


「農業にはあの川の水を使っているんですか? 確か田の方に水路が引かれていたようですが」


「ええ、田んぼや畑は川の水を使っております。生活には井戸から汲むか普通に水道を使っておりますけれど」


 成る程とカナメが頷くと、あ、とシズクが小さく声を上げた。


「そろそろ頂上です。見えて来ました、ほら、あちらです」


 しなやかな白い指が指し示した先──登り坂の終点、そこには不自然なまでに開けた空間が広がっていた。


  *


 西の山は、頂上にだけ木が茂って居なかった。草さえ疎らで、ごつごつとした岩と砂利、それから僅かばかりの茶色い土が地面を覆っている。


 そのような何処か寂しい風景の中に、ぽつんと紅い鳥居が立っていた。三メートル強のそれは使われている木材も太く、意外と頑丈そうだ。昔の住民達が建てたのだろうか、どこか手作りの雰囲気が漂う鳥居に近付き、その前で立ち止まるとカナメは一礼する。


「この鳥居の在る場所が、この山の頂上だそうですよ。ここから見下ろすと、集落が一望出来るんです」


 隣に立ったシズクの言葉に誘われて、カナメはぐるりと視線を巡らせた。成る程、確かに遠く景色が見渡せる。ひとしきり眺めてから、カナメは後ろへと振り向き今度は湖へと目を遣った。


「これが、水神の封じられた湖ですか」


 山の上に開けた広場、その半分程を水が満たしていた。このような低い山に不釣り合いな程の大きな湖だ。夜半に雨が降ったというのに水は濁ってはおらず、驚く程に透き通り蒼白く輝いている。晴れた空の蒼を映した湖面は鏡の如く滑らかで、神秘的な雰囲気を漂わせていた。


「そうです。アガナ様のご先祖様と私の家系の者が力を合わせ、人がこの山に住み着いた事にお怒りになったミズチ様に、何とか鎮まって頂いたのです。以来、毎年決まった日にお祀りを、そして二十年毎に大きな儀式を執り行ってまいりました」


「ミズチ様と言うのですね、封じられた水神は。集落の名前もそこから付けたのでしょうか? 音が同じだ」


「そのようですね。ミズチ様のお名前にこの湖から連想した漢字を充てて『瑞池』と定めたと、そう聞いております」


 シズクが坂となっている湖岸に歩みを進める。しゃがみ込んだ足許には、小さな碑のような岩が立てられていた。シズクは懐から包みを出すとそれを開き、取り出した物を柿の葉に乗せてそっと湖面に浮かべる。白い身体に紅い目と緑の耳──それは昨日カナメの茶請けとしても供された雪兔の落雁であった。


「供え物、ですか?」


「ええ。正式なお祀りの時以外でも、こうして時々……」


 カナメはしゃがんだままのシズクの後ろに立ち湖を眺めた。紅葉した柿の葉に乗った雪兔はゆらゆらと湖面を漂い、導かれるように湖の中央へと流されて──そして。


 突然、ぱちゃん、と葉もろとも水中へと沈んだ。


 カナメはその一部始終を目の当たりにし、驚きに雪兔の沈んだ辺りの湖面をただ凝視する。しかしシズクは慣れているのか何も言わず、軽く息をつくとそろり立ち上がった。


「どうされます、カナエ様? ぐるり見て回られます?」


「そう……ですね。此処には鳥居と湖以外には何も無いのですか?」


「ああ、確か……お祀りの時に使う道具などを入れておく小屋があるくらいでしょうか、他には何もありませんね」


「そうですか。だったら取り敢えず湖を一周してみます」


 そう言ってカナメが歩き始めると、興味津々といった様子でシズクが後ろを付いて着た。カナメは苦笑し、出来るだけ歩き易い場所を選び歩みを進める。


 湖岸を歩きながら、カナメは金色を帯びた瞳を細め湖面を凝視する。澄んだ水は蒼穹を映し、陽光を反射して細かく煌めく。それに混じりゆらりと立ち昇るのは青みを帯びた靄と光の粒子だ。濃い冷気を感じられるそれは、恐らくミズチと呼ばれる水神のものに違い無い。


 力は強いが、悪いものには感じられない。その名の示す通り、蛇か或いは蛇から龍に進化したもの──天候、主に雨を司る古い自然神なのであろう。姿こそ見えないがその存在を強く感じ、カナメは眼に込めていた力を緩めて軽く息を吐いた。


 時間を掛けてぐるり広い湖の縁を一周し、再び元の場所へと近付いた、そんな時だった。


「──っ、カナエ様、あれ……」


 背後からシズクの息を飲む音と震える声が聞こえる。湖に向けていた注意を解き立ち止まると、カナメはゆっくりと顔を前に向けた。数メートル先、碑のある岸の傍に、何かが視えた。


 そこには、──陽光に揺らめく、一つの影が立っていた。


 女性と思しきその朧な影には、首から上が、存在していなかった。


  *

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