1-04


  *


 全身にびっしょりと汗を掻き、カナメは目覚めた。


 ゆるゆると開いた視界は闇のままで、額の汗を乱暴に拭うと枕許をまさぐり、手探りでランプを灯す。葡萄の蔓の意匠を凝らされた電気式の明かりがふわり淡く光を広げた。長く寝入っていたように思え、懐中時計を開き時刻を確認するが、体感に反してまだ四時になったばかりのようだった。


 大きく息をつき、ゆっくりと立ち上がり伸びをする。直ぐには寝直す気になれず、取り敢えず一服でもしようと静かに歩み、そろり襖を開けて客間へと入った。


 部屋の電灯を灯すのは何となくはばかられて座卓に置かれたランプのスイッチを入れる。もう雨音は聞こえないが、寒さにふるり身が震える。しかし一々ストーブを点けるのも気が引けてそのまま座布団に胡座を掻いた。硝子の水差しから揃いのグラスに冷えた水を注ぎ一気に呷ると、重かった頭が幾分か晴れる。


 卓の上に置いたままだった煙草入れから一本取り出し火を点けて、紫煙を肺に満たし細く長く吐き出した。ランプの光に照らされた煙が淡く浮かび上がる。昇って行く揺らめきを見るとも無く眺めていたが、ふと、何かを感じた。


 部屋の隅、闇に沈んだままの場所から、──気配を覚えた。


「……何だ」


 目を細め、気を探る。ぬるり、蠢く影がある。吸いかけの煙草を一旦灰皿に置き、カナメは神経を尖らせる。


 嫌な気配だが敵意がある訳では無さそうだ。結界を張ったりしている訳では無いので、たまたま何かが紛れ込む事自体は充分に有り得る話だった。害が無いのならば放っておけば、いずれ出て行くだろう──カナメがそう思い始めた時。


 ぬるりとまた影が動き、その姿を、ランプの淡い光りが捉えた。黒くとろみを帯びたような表皮、長くくねる尻尾、そして腹側から側面に広がる血の如き紅の斑点──。


 ──イモリだ。


 ぞわり、とうなじの毛が逆立つ。息を飲み、カナメはイモリを凝視した。


 師匠であるアガナの忠告を思い出す──イモリには気を付けろ、と確かにアガナは言ったのだ。


 寺に駆け込んだ際にイモリを見た道子の怯え様や、『尾けられていた』『見られていた』との言葉、そして払った時にアガナが感じた奇妙な気。それらがアガナの勘に訴えたと言うのだ、イモリには気を付けろ、と。


 カナメは師匠の忠告を無視するような跳ね返りでは無い。むしろ弟子時代、真面目過ぎて面白みが無い、などとアガナによく言われたものだ。更に言うならば、無鉄砲というよりは慎重を期す方でもあった。


 故に、──動けずにいた。


 明確な殺意をもって向かって来る者ならば躊躇無く迎え撃つだろうし、降伏の意を示し逃亡する者ならば見逃し背を見送る事もあるだろう。しかし、何が目的かも分からず、ただそこに佇む者に、どう対応して良いのかカナメは考えあぐねていたのだ。


 眼を離さぬまま、取り敢えずとうに火の消えた灰皿の煙草を揉み潰し、次の一本を手に取った。煙草の煙は霊的な者に効果があると言われているが、蛇や虫などを追い払うにも役に立つ。イモリに効果があるかは分からないが、試してみて損は無いだろう。


 火を点けると、ジジ、と朱い灼熱が先端に灯った。紫煙が流れ始める。意識して、カナメは煙をイモリの居る闇の溜まりの方へと吐き出した。


 闇が蠢き、イモリが身じろぎをする。てらてらとぬめる身体がランプの光を反射する。物理的にか霊的にかは判別が付かないが、どうやら効果はあったようだ。イモリは身をくねらせながら隅から這い出して障子を伝う。部屋の外へと逃れようとしているらしかった。


 カナメが煙草を吸い終わる頃には、イモリは障子戸の合わせ目まで到達していた。妙な気を帯びているとは言え、出来るだけ殺生は避けたい。さて、どうせなら少し隙間でも開けてやった方が良いのだろうか──そんな事をぼんやりと考えていた、その目の前で突然、事は起こった。


 ──すい、と障子が動き、戸の隙間から伸びてきた手が、ばしりとイモリを叩き落としたのだ。


「……え?」


 いや、手というのは間違いだ。正確には動物の前脚のようだった。カナメが呆然と障子戸を眺めていると、その前脚の持ち主がひょい、と顔を見せる。


「た、狸?」


 そう、それは狸であった。ふかふかとした毛皮は色艶が良く、物怖じしない様子から、恐らく人間に飼われていたのであろうと推察出来る。しかしシズクが何も言及していない事を思うと、静宮邸で飼われているのではない筈だ。


 狸は動かなくなったイモリをひょいと咥えると、まるで会釈のように頭を下げ、そして部屋から姿を引っ込めた。ぴしゃり、と障子戸が閉じられる。まさか狸が閉めて行ったのだろうか、器用な奴だな、などとカナメは漫然と薄闇を眺める。


 しばし何が起こったのか理解出来ずに硬直していたカナメだったが、気を取り直し再度水を飲み、煙草を一本吸い、そして卓上の明かりをぱちりと切った。何かを振り払うように頭を振り、溜息を吐く。


「寝よう。こんな時には寝直すに限る……」


 そしてカナメは再び布団に潜り込んだ。今度の眠りは深く深く、夢すら見ずにカナメは熟睡したのであった。


  *

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