1-05


  *


「ああ、それは安田さんでございますね」


「……安田、さん?」


 朝食の席でカナメが未明に起きたイモリと狸の騒動を語ると、ああ、とシズクは笑顔で頷いた。


「瑞池に居付いている狸さんです。以前、怪我をしていたのを安田さんという産婆のお婆さんが見かねて手当したのが切っ掛けで飼われる事になったのですが、そのお婆さんがご病気で亡くなられてしまって……。それ以降も山へは帰らずに集落に住み続けているのですよ」


「では、集落の皆で世話をしているという感じなんでしょうか」


「そうですね。頭の良い狸さんで、残飯や余り物なんかをあげると、御礼をするみたいにぺこっと頭を下げるのですよ。それが何とも愛嬌があって、皆に可愛がられているのです」


 そう言えば部屋を出る時に頭を下げていたな、とカナメも頷いた。


「安田さんという名前はそのお婆さんが?」


「いえ、元々は名前を付けてはいなかったと記憶しています、怪我が治れば山へ帰すつもりだったからでしょう。でもお婆さんの死後も安田家の周囲に住んでいるので、皆が自然と『安田さん』と呼び始めて……」


「へえ、面白いですね」


「家に入って来た虫やハメなどの毒蛇、そのいうイモリなども退治してくれたりと、結構有り難い存在なのですよ。今ではすっかり集落の一員です」


 ハメとは蝮のこの地方での呼び名である。確かにそれは有り難いですね、とカナメは口許を綻ばせた。


 今朝の献立は卵焼きにおひたし、浅漬け、それに味噌汁と白米であった。客間の座卓で舌鼓を打ちながら、茶を淹れてくれるシズクにカナメは問うた。


「昨日聞いた話では、お手伝いは九時からだったと記憶していますが……朝食はいつもシズクさんが?」


「はい、不器用なもので、簡単なものばかりで申し訳無いのですが」


「いえいえ、全然そんな事はありませんよ。それにとても美味しいです」


 カナメが言いながら卵焼きを口に運ぶ。出汁の効いた玉子は海苔を巻き込んでいて、渦巻きになった断面がとても美しい。次いで啜った味噌汁からはいりこの香りがふわり昇るが、臭みが一切無いところを見るに、頭やワタを取るなどの丁寧な処理をしてあるのだろう。弟子時代にアガナから料理のいろはを叩き込まれたカナメは、その細やかさにそっと感嘆の息を漏らす。


「お手伝いと言えば……確かお二人は交代で来られている筈ですが、昨日はお二人ともいらしてたんですか?」


 カナメの質問に、シズクは頬を染めて少し俯いた。


「その、カナエ様がいらっしゃるとの事で、清水さんにも急遽来て頂いたのです。沢田さんと二人だけですと、お夕飯の用意や掃除に手が足りなくて……」


「ああ、それは……何だか申し訳無いです」


「いえ、こちらの勝手な都合ですので、カナエ様はお気になさらないで下さい。その、母の世話もありますし、この家も無駄に広いですので、どうしても普段は行き届かない部分がありまして……」


 その時、障子戸の向こうに影が差した。「失礼します」と声が掛けられ、すうと障子が開かれる。


 そこに座っていたのは、見知らぬ青年であった。話に聞くシズクの双子の兄だろうか、精悍な顔つきに小ぎれいな身なりをしている。


「お食事中すみません。一目挨拶を、と思ったもので。──シズクの兄、シズミヤ・シグレです」


 そして軽く頭を下げた。シズクとはあまり似ず、髪も瞳も真っ黒だった。双子と言っても一卵性ではなく二卵性なのだろう。


 カナメも箸を置き、座布団を下りて軽く礼を返す。


「これはご丁寧に。お世話になっております、カナエ・カナメです」


「行き届かない所もあるかと思いますが、どうぞごゆっくり。僕は日中は大学に通っており不在ですが、妹や手伝いの者に何でも遠慮無く仰って下さい」


「ありがとうございます。ご配慮、痛み入ります」


 二人して頭を上げる。視線がかち合った瞬間、ぴり、と空気が強張った。鋭く探るような漆黒の視線を、挑むように琥珀の瞳が受け留める。何事かを察してか、シズクが軽く狼狽を込めた眼で二人を交互に見遣った。


 しばしの沈黙。


 ──先に目を逸らしたのはシグレであった。逃げるように再び頭を下げると、どうぞごゆっくり、失礼します、と言い残して障子を閉めた。


 足音が遠ざかるのを確認してから、ふう、とカナメは密かに溜息を漏らした。茶を啜ってから、気を取り直してまた食事に戻る。シズクは何か問いたげであったが、結局は何も言わずに困ったような微笑を浮かべたのみだった。


  *


 身支度を整え、カナメは座ったまま大きく伸びをする。開け放した縁側からは遠く鶏の声が聞こえた。今日は昨日と比べると随分と暖かい。これならコートは無しでも大丈夫だろう、と時計を見遣る。時刻は九時の十五分程手前を示していた。


 今日は予定通り西の山の湖へと向かう事にしたのだ。雨は夜半の内に止み、風も無い穏やかな気候である。仕事とは言え過ごし易いに越した事は無い。


 煙草を一本取り出し、両端の葉を整えてから咥え火を点けた。ジリ、と燃える音と共に紫煙がふわりと流れる。それを見るとはなしに目で追うと、廊下を歩いて来たシズクと目が合った。


「お待たせしていて申し訳ありません。もうすぐ清水さんが来ますので、そうしたら直ぐに出掛けましょう」


「急がなくとも大丈夫ですよ、案内などの無理を言っているのはこちらですし。ご母堂をお一人には出来ないのでしょう? 事情は理解しておりますから」


「そう言って頂けると助かります。──それにしても、雨が上がって良かったです。降っていると流石にあの道は少し危ないですので」


 朝日を浴びて、空を見上げるシズクの髪がさらりと煌めく。綻ぶような笑顔が眩しく思えて、カナメは少し目を細めた。


 空は雲一つ無い晴天だった。


 いつも集落を覆っている霧雨すら止み、燦々と冬の太陽が柔らかに輝いていた。澄んだ空は淡く蒼く、昨日とはまるで景色が違って見える。


「……もしかしてカナエ様、晴れ男だったりします?」


 不思議そうに問うシズクに、カナメは噴き出した。はは、と笑って煙草を揉み消す。


「自覚はありませんが、そうかも知れませんよ」


「でしたらずっと瑞池に居て頂くと助かるのですけれど」


「ははは、そうすると今度は晴ればかりで困るかも知れないですよ」


「もう、笑わないで下さいまし! 私、ちょっと本気なのですよ」


 言葉とは裏腹にシズクの口許も綻んでいる。カナメは煙草入れを上着のポケットに仕舞い、立ち上がり伸びをした。そして一度目を瞑り、気合いを入れ直す。


 ──さて、何が出て来る事やら。


 カナメは心の中で呟き、帽子を手に取った。深く被り、そしてもう一度身なりを確認する。よし、と頷いてから部屋を出た。差し込む朝日が、カナメの瞳を金色に閃かせる。


 遠く遠く、高い空で一声、鴉の鳴き声が響いた。


  *

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