1-03


  *


 悲鳴じみた訴えに交じり、荒い息遣いが鼓膜を震わせる。漏れる淡い光りの中、蠢く影絵が障子に映し出される。


 ごくり、と唾を飲み込む音が存外に大きく思え、カナメは無意識に自分の口を手で覆った。拍動が強く跳ねる。落ち着かせるようにゆっくりと、カナメは口許を押さえた手の中で長く息を吐いた。


『っく、あにさま、やめて下さいまし、ああっ、あにさま……。無体な、こんな仕打ち、うく、ああ……』


『おや、今日はいつもよりも抵抗が強いな。どうしてだ?』


『そ、んな……ことは、っうああ、嫌、もう、やめて下さい、あにさま……』


『いいや、いつもならもうとうに諦めてされるがままになっている頃合いだろう? 何か心境の変化でもあったんじゃないのか、シズク?』


『ちが……違います、何も、ありませ……っああ、やめ、もう堪忍、して、下さいまし──』


 嗚咽とも喘鳴とも取れるヒイッと喉の鳴る音に混じり、赦しを乞う絶え絶えの声が聞こえる。対する男の声は愉悦を含み、荒げた息と共に追い詰めるが如く吐き出されて行く。


 暗がりに身を潜め、カナメは気配を殺し部屋の様子を窺った。揺れ動く影の動きは激しく、しかし雨の音の所為で明瞭な会話以外の物音は拾う事が出来ない。だが、中で何が為されているのか──疑う余地は無かった。


 心の中でシズクのたおやかな微笑が思い起こされるが──自分は所詮、ただの客人だ、カナメは強く奥歯を噛む。どのような不道徳で背徳的な行為が部屋の中で繰り広げられていたとしても、カナメはただの部外者なのだ、止める権利などは一切有していない。


 何も聞かなかった事にして部屋に戻ろう、もう一度眠って忘れてしまおう、そうカナメが自身に言い聞かせて立ち去ろうとした、その瞬間──その言葉は不意打ちのように鼓膜を打った。


『さては、新しく来たという客人。どうやら聞くに、若い男、しかも端正な顔立ちをしているようじゃないか。皆の噂になっていたぞ。もしかしてそれが原因か?』


 ひたり、とカナメの足が止まった。これは、自分の事を言われているのか──もう聞くまいと決めた筈なのに、カナメは身体を動かせない。耳が、自然と会話に吸い寄せられて行く。


『──っ、ち、違い、ます……! あの方は、カナエ様は、そのような……』


『まさか、──惚れたか?』


 シズクの息を飲む音が、はっきりと聞こえた。


 カナメも思わず眼を見開き、慌てて口許を押さえる。男の嘲るような、笑いが重なる。


『ははっ、こいつは傑作だ! ──シズク、お前が人に惚れる日が来るとはな、くく、はははは!』


『──ひ、あ……違う、違い、ます……そんな、そのような、ああ、……違います、カナエ様は、うぅう、そんなのでは……くうっ、あああ』


 途切れ途切れの声は痛々しく、嗚咽が胸を締め付ける。早鐘のように心臓が鳴り、吐息が震えた。冷静さを取り戻そうと、カナメは必死で空いた手を握り締める。


 そんなカナメの努力を嘲笑うかのように、男の声が響いた。


『シズク、おこがましいな。身の程を知るといい』


 もうシズクの声は聞こえない。啜り泣くような苦しげな息遣いだけが障子を伝う。


『お前は、ただの道具なんだ。人間未満の、体よく使われるだけの、道具。瑞池という集落に、最初から組み込まれた、巫女という役割の、道具なんだ』


 嗚咽が明確な泣き声に変わる。笑いがそれに覆い被さる。


『お前は人間じゃない、ただの人形。そんな存在の癖に、そんな身体の癖に、──どう愛なんて、語れるというんだ』


『──あ、あ、あああぁああぁあっっ』


 慟哭が、冷めた闇を震わせた。


 それ以上はもう無理であった。限界であった。聞く事を拒絶し、カナメはその場を立ち去った。噛み締めた奥歯が軋み、ギリ、と小さな音を立てる。


 どのようにして宛がわれた部屋に戻ったのかカナメには分からない。倒れ込むように床に入り、頭から布団を被った。きつく目を閉じ、また奥歯を噛む。


 シズクの慟哭が耳から離れない。


 雨は一層激しさを増していた。混乱する思考が泥濘に囚われる。感情は千々に乱れ、胸の奥が絞られてせり上がる物が喉を焦がした。


 カナメはただ、無性に、自分が腹立たしかった。


  *


 夢を、見た。


 見ながらこれは夢なのだとカナメは理解していた。それ程に、何度も、数え切れない程に見た夢だった。


 ──恋人のシズキが死ぬ夢だ。


 凄惨な光景を前にカナメは動けず、その一部始終を眼を逸らす事無く鑑賞させられるのだ。その拷問じみた時間は、いつだってカナメの瘡蓋を剥がし、膿んだ傷口を抉って新しい血を噴き出させる。


 穢される身体、悲鳴、嘲笑、引き出される臓物、絶叫、焼かれる手足、歓声、突き立てられる杭、祈り、切断される四肢、焦げる匂い、切り分けられる肉、枯れた涙、逆流する汚濁、抉られた瞳、詰め込まれる糞泥、絶望、破壊される尊厳、笑顔、上がる炎、断末摩の叫び──。


 幾つもの場面が鮮明に映し出され、普段なら黙って耐えるカナメであったが、今日の心持ちは些か違っていた。


 恐らくは、シズクの存在の所為、或いは盗み聞きしてしまった兄妹の秘め事の影響でシズキの夢を見たのだろうと、そう頭の何処かで冷静に分析していたのだ。


 改めて見ると、シズキはやはり、シズクに何処か似ていた。


 色彩は元より、顔立ちや華奢な体躯、そして何よりも何処か中性的な雰囲気がその原因だろうか。


 惨殺されるシズキの姿に、あの兄の物らしき嘲笑が重なる。慟哭が、耳を灼く。


 炎が、燃え上がる。


 バチバチと激しく爆ぜる音が、──いつしか雨粒が立てる音に擦り変わる。混濁した意識が浮上する。


 白い手が、伸ばされる。カナメは夢の最後の余韻の中、しっかりとその手を握った。


 今度こそ、離さぬように──。


  *

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