1-02


  *


 それから幾らかの遣り取りを経て話が終わる頃には、雨は本降りとなっていた。


 障子を閉めた縁側の向こうからは、さらさらと雨粒の立てる音が響いて来る。──今降っているのは普通の雨だな、とカナメは瑞池に着いた頃の霧雨の事を思い出す。


「雨がよく降る、と聞いていますが……いつも降る雨というのはこれではなく、あの霧のような雨の事ですね?」


 カナメが茶器を片付けていたシズクに問うと、ええ、と頷きが返って来た。


「山ですので確かに普通の雨も降る事は多いのですが、近年いつも降っている雨はあの霧雨の方です。髪も服も大して濡れませんので傘を差す程でもなくて、皆あの雨の時には普通に出歩いたり農作業をしておりますね」


 そうですか、とカナメが呟くと、茶器類を載せた盆を持ったシズクが静かに立ち上がる。


「この雨ですし、もう時刻も夕方です。今日はゆっくりお休みになって下さいませ。お夕飯が出来ましたらお声掛けしますので、何も無い所ですが、ごゆっくりお寛ぎになって下さい」


「ありがとう。お言葉に甘えます」


 そう会釈をすると、シズクは盆を置いて丁寧に座礼をし、そして障子を閉じて去って行った。静かな足音が雨に紛れ遠ざかるのを聞くともなしに聞いてから、カナメは長く溜息をつく。


 柱に掛かる彫刻を施された時計は、五時の少し手前を指し示していた。座卓の上には大きめの灰皿と卓上ライターの載った子盆が置かれている。カナメはそれを盆ごと引き寄せ、上着のポケットから真鍮の煙草入れを取り出した。一本引き抜いてトントンと葉を整えてから咥え、卓上のライターで火を点ける。


 ゆっくりと吸い込んでから溜息のように紫煙を吐く。先端に朱く灯る火種に目を細め、そしてカナメは灰皿に視線を移した。これも伊万里だろうか、渋い色味の地に紅白の山茶花の絵付けが美しい。ライターも揃いの柄だ。


 この屋敷は隅々まで行き届き過ぎている──山中のひなびた集落に在るとは思えない程に。


 カナメは鈍銀にも似た瞳を薄く閉じ、ただ黙って紫煙をくゆらせるのだった。


  *


「──もし、カナエ様。今、宜しいでしょうか」


 しばし休憩した後、トランクを開け荷物の生理を追えた頃に、障子の向こうからシズクの声が掛かった。どうぞ、と返答すると、すうと静かに障子戸が開きシズクが顔を覗かせる。


「この後お夕飯にさせて頂こうと思っておりますが、その前に彼女らのご挨拶を、と思いまして……」


 その言葉にカナメが障子の向こうを見遣ると、女性が二人、座って頭を下げていた。一人はまだ若く少しふくよかな体型で、もう片方は中年のがっしりとした女性である。二人共、地味な着物に白い割烹着を重ね、髪を団子のように纏めていた。


「いつもお手伝いをして貰っている方達です。滞在中に顔を合わせる事もあるかと思いまして……こちらが沢田さん、こちらが清水さんです」


「初めまして、沢田と申します」


 紹介を受け、ふくよかな方の女性が沢田と名乗った。年の頃はシズクと同じくらいだろうか、くりくりとした丸い目とふっくらとした頬が愛らしい。


「清水でございます。屋敷の中で何かございましたら、何なりとお申し付け下さいね」


 中年の女性、清水も再び頭を下げた。四十前後といったところだろうか。しかしその表情は溌剌としており、体型も相まってか何処か安心感のようなものを抱かせる。


「お二人は集落の出身で、通いで来て貰っています。基本的に沢田さんが月水金、清水さんが火木土曜と交代での当番で、普段は朝九時からお夕飯の準備までをお願いしています」


 シズクの言葉に成る程とカナメは頷き、そして沢田と清水に軽い会釈を返した。


「カナエ・カナメと申します。しばらくの間、静宮家に滞在する事になりました。短い間ですが、どうぞ宜しくお願いします」


 こちらこそ、ご丁寧に、と二人は恐縮しながらもまた深く頭を垂れた。──雰囲気を見る限り、沢田と清水はシズクと良好な関係を築いているようだ。少なくとも敵意があるようには感じ取れない。ならば今後、二人に話を聞く機会もあるだろう。好印象を与えておくに越した事は無い、とカナメは柔らかな言葉と物腰で二人に接した。


 やがて和やかな空気のままに二人は退去し、そしてシズクが運んで来てくれた料理を口にする。煮付けや天麩羅、酢の物に魚の干物、和え物、そして香の物と汁に白飯。質素だが手間を掛けているのが伝わる、丁寧な心遣いが感じられるものばかりだ。


「その、……みすぼらしいお料理ばかりで、申し訳無く──」


「そんな事はありません、とても美味しいですよ。新鮮な地のもの、旬の野菜……とても贅沢なものじゃないですか。特に米の甘さには驚きました。新米ですか?」


「そう言って頂けると助かります……ええ、今年穫れたばかりのものを使っております。よく言われるのですが、お米に限らず他と比べて、この土地で穫れた物は皆甘いらしいのです」


 そう語りながら酒を勧めるシズクに、では少しだけ、とカナメは頭を下げた。錫の猪口に注がれた温燗を呷ると、じわりとぬくみが胃の腑から身体に広がった。


 酌をしてくれるシズクはとてもしっとりとした艶めかし差を帯びて映り、また鼓動が速まるのをカナメは感じる。きっと疲れと酒の所為だ──そう己に言い聞かせながら、カナメは尚も杯を干したのだった。


  *


 お背中をお流しします、というシズクの申し出を断り、カナメは手早く風呂を済ませる。軽く酔ってしまった今の状況では、長襦袢だけとなったシズクも長風呂も、どちらも心臓に悪いことこの上無い。


 荷物に詰めてきた寝間着用の浴衣を纏い、紫煙をくゆらせながら少し醒めてきた頭で情報を整理する。


 この静宮邸に住んでいるのはシズクと双子の兄シグレ、そして二人の母のシュウコの三人だ。シズクとシグレは共に十八で、シグレは家から大学に通学しているのだと言う。また母のシュウコは当代の巫女とされているが、脳と心の病気に懸かり、現在は主に手伝いの二人とシグレが面倒を看ているそうだ。


 通いの手伝いは二人、沢田と清水だ。沢田は務め始めてからまだ日が浅いが、清水はもう二十年以上も静宮家に雇われ続けているらしい。双子の兄妹の乳母のような事までしていたと聞く。何か話を聞くならば、最初は清水を選ぶのが適切だろう。


 集落の戸数は六十程。その殆どの家が農業に携わっている。しかしこの瑞池は、とても計画的に作られた集落だ。移住して開拓する際、皆で知恵を出し合って今のような形に仕上げたらしいとアミダから聞いている。凄まじい団結力だ。──それは一歩間違えば脅威となり得る。注意すべきだろう。


 しかし雨が降り止まねばどうにもならない。まず最初に西の山にある湖に赴く予定だったが、舗装されていない慣れぬ山道を雨の中歩くのは自殺行為だろう。止みますように、と祈るしか無い。


 不意にふあ、と欠伸が漏れる。


 此処に来る前には仕事で気を張る任務に従事していた。カルトと称される新宗教への潜入調査だ。結論としてはシロであったが、神経が疲れる事には変わり無い。任務を終え帰投した翌日にはアミダの元へ赴き、その日の内に山を越えて現地入りしたのだ。少々気が抜けたところでお目こぼし頂きたい、とカナメは早々に布団へと潜り込む。


 雨の音が眠りを誘う。カナメの意識は深く深く、闇の中へと沈んで行った──。


  *


 ふと、目が覚めた。時計を確認すると、まださほど時間は経ってはいない。尿意を覚え、厠へ向かうべくしんと冷えた廊下へと歩みを進めた。


 用を足し終え、カナメは寒さにふるり身を震わせながら廊下を歩く。まだ雨の音は続いている。


──その時、雨音に混じって何か、声が聞こえた。


 耳を澄ませ、ふらり引き寄せられるように足が向いた。漏れ聞こえるのは、あれは──シズクの声か。薄らと障子越しに明かりが漏れている。男の声もする。この家には三人しか住んではいない筈だ。シグレと言ったか、兄のものだろうか。


 声には、悲痛な響きがあった。押し殺しながらも抑えきれぬ、痛みを孕んだ声──。


『やめて、やめて下さいまし、あにさま……っ、堪忍、堪忍です、……う、ああ……』


  *

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