一章:降りしきる雨と、忍ぶ夜
1-01
*
「まあ、東の山からの道をいらしたのですね。お疲れになったでしょう? ──ささ、どうぞ、粗茶でございますが……」
「これはどうもご丁寧に。頂きます」
「お口に合えば良いのですが」
勧められるままカナメは湯呑みの蓋を取り、美しい伊万里を口許へと運んだ。定型的な謙遜とは真逆の、良い茶葉であろう事が芳醇な香りから窺える。口内に含むとまろやかで深い味わいと程良い温度に人心地が付き、ほう、と知れず息をついた。
──静宮屋敷に招き入れられたカナメは、客間へと通されていた。
書と花の飾られた玄関を上がり、縁側をしばらく歩いた先にある和室が、カナメに宛がわれた部屋であった。純和風の広い平屋は掃除が行き届いており、磨き上げられた木材が深く美しい艶を帯びている。築年数は古そうだが頑丈な造りなのだろう、板の間や廊下を歩いても軋みが気になる事は無かった。
大きめの座卓が置かれた居間のような部屋と、それに隣接する襖で区切られた寝室──その二部屋を自由にお使い下さい、とシズクは頭を下げ退去する。石油ストーブで暖められた部屋にカナメは表情を緩め、荷物を隅に片付けた所で再びシズクに声を掛けられた。
向かい合って座る座卓の上には湯呑みと茶請けの菓子が並ぶ。金彩を施された湯呑みには南天が描かれている。それを茶托に戻し落雁の載った子皿を見ると、これまた揃いの柄であった。南天は吉祥柄であると同時に冬の季語でもある。繊細な心遣いに、カナメはシズクへと好ましさを抱いた。
「これ、雪兎ですね、可愛らしい」
白くころんとした一口大の身体に緑と赤で耳と目が描かれ、その菓子はまさに雪兎の姿をしていた。小皿から落雁を抓みカナメが呟くと、シズクは少し恥ずかしそうに頬を染める。
「その、私の手作りなのです……不器用なもので、形が不揃いでお恥ずかしい。お味も自信が無くて、あの、気に入って頂けると良いのですが」
「落雁を手作り? そんなの、作られるだけでも凄いですよ。どれ──」
二匹の内の片方を口に運ぶ。その愛らしい姿に噛み切るのは忍びなく、カナメは一口でそれを頬張った。思ったよりも柔らかくふわりと崩れ、ほろほろと控え目な甘さが染み渡ってゆく。普段は落雁などあまり口にする機会は無いが、記憶にあるものよりもこれは随分と粉っぽさが少なく滑らかで、丁寧に作ったのであろう事が窺える。
「い、如何でしたでしょうか……? その、美味しくなければご無理には──」
「いえ、とても美味しいですよ。それに可愛らしい、もう一匹も食べてしまうのは勿体ない程です」
「──っ、あ、……ありがとう、ございます……」
頬を緩めてカナメが褒めると、シズクは一瞬黒目勝ちの瞳を真ん丸に見開き、追って頬どころか耳まで朱に染めて俯いた。しどろもどろに礼を言うその姿に何処かいじらしさを覚え、カナメはまた自身の拍動が跳ねるのを感じる。
──それにしても、やはり似ている。
カナメは失礼にならぬよう、そっとシズクの顔を盗み見た。灰色めいた髪と瞳は元より、小作りで整った博多人形を思わせる顔立ちも、透明感のある肌の白さも、そっくりとまでは行かないまでもやはり亡くなった恋人のシヅキに重なるものがあった。
もしかしたら知らないだけで、親族であったりするのだろうか……? しかし、シヅキには親類など居なかった筈だ──そこまで考え、カナメは奥歯を噛んだ。今自分が此処へ来ている理由は仕事なのだ。こんな浮ついた気持ちでどうする、と自分を戒める。
緩んでいた気持ちを引き締めてカナメが再び視線を向けると、シズクもまた気持ちが落ち着いたのか、顔を上げたところであった。些かの気まずさと気恥ずかしさを覚え、カナメは軽く咳払いをし姿勢を正す。
「ええと、アガナから何処まで聞いておられますか。その、──集落の異変を調査する、という事柄について」
するとシズクもつられるように背筋を伸ばし、膝の上で細くしなやかな指を重ねた。灰色掛かった瞳が、真摯な表情で真っ直ぐにカナメを捉える。
「経緯は……、道子さんの事については大体存じております。滞在は一週間から二週間程、その間は当家をご自由にお使い下さい。それから調査は住人に秘密裏に行う、と」
シズクの返答に、ええ、とカナメは頷きを返す。
「ご協力、心より感謝致します。……その、お嫌ではないですか?」
「嫌、とは……何がですか?」
小首を傾げたシズクに、茶を一口啜ってからカナメは伏し目勝ちに言葉を続ける。
「だってそうでしょう、集落の秘密を余所者がこそこそ嗅ぎ回るのですから、不快に思われても仕方ありません。ですが、シズクさんはむしろ協力的なのが、その、不思議で」
ああ、そういう……とシズクは何度も瞳を瞬かせると、ふわりとした微笑を薄く、淡く色付いた唇に浮かべた。
「当家も集落も、アガナ様の寺院には多大な恩義がございます。そのアガナ様が気に掛かると仰るのであれば、反対する理由は私には無いのです。尚も隠し立てをするようならば、それは恩を仇で返すようなもの」
でしょう? と軽く首を傾げる仕草に反し、シズクの視線は存外に強く、その意思の込められた瞳からカナメは眼を逸らせずにいる。無言で続きを促すと、シズクは軽く頷き、そして再び言葉を紡いだ。
「私はね、カナエ様。──何も知らないのです。次代の巫女として定められてはいるものの、私が物心付く頃には曾祖母も祖母も亡くなり、母も脳と心を病み、何も巫女としての知識を受け継ぐ事が出来なかったのです。だから私は何が起こっているのか分からないし、とても……」
そこで一旦言葉を切ると、シズクは震えるように溜息をついた。
「……怖いのです。この瑞池に何が起きているのか分からない事が、何も出来ない自分が。そして皆の平穏が、壊れてしまう事が……」
「……シズクさん……」
シズクはしばし、何かに耐えるように睫毛を伏せ、唇を引き結んでいた。その姿は痛々しく、カナメはどう言葉を掛けていいのか分からない。
やがてシズクはおもむろに座布団から降り、白くしなやかな指を畳みに突くと、──ゆっくりと、深く頭を下げ、平伏した。
「──お願いです、カナエ様。この集落を、瑞池を救って下さいませ。何卒、何卒……お願い、申し上げます」
その小さな背が、華奢な肩が、透けるように白いうなぢが酷く震え、儚く壊れてしまいそうにカナメには感じられた。シズクの懇願に、願いに出来る限り応えてやろうと、カナメは深く心に誓ったのだった。
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