0-03


  *


 カナメは雑木林の中、踏み固められた山道を登り続けていた。


 瑞池の集落へ至る経路は二つある。一つはカナメが今歩いている、集落から見て東に位置する低い山を越える道。もう一方は一度県境を越え、隣県から北の山の峠を経由する大回りの車道だ。


 東側の経路は徒歩でしか辿れず、大人の足ならば麓から小一時間程だという。しかし北の高い山を抜ける車道は速度を出せぬ厳しい山道で、こちらも一時間程の行程だ。悩んだ末、ならばと軽い気持ちでカナメは徒歩のルートを選んだ。


 その事を今、カナメは少しだけ後悔していた。左手に提げた旅行トランクがやけに重く感じられ、自然とステッキを握る右手に力が籠もる。風で煽られた帽子が飛ばされそうになり、一度立ち止まり深く被り直した。


 初冬と呼ばれる季節に入った今、山を吹く風は身を切る程に冷たい。しかし歩き続けている所為でシャツの中は薄く汗ばんでいた。額に滲む汗は冷気に直ぐ冷えて肌を凍てつかせる。落差で風邪を引きそうだ。大きく吐いた溜息が白み、そして霧散する。


 道が歩き易いのがせめてもの救いだろうか。何処へなりとも常にスーツと革靴で出向くカナメにとっては有り難い事だった。よく人が通る所為だろう、踏み固められた土は固く、また足を取られるような木の根や岩も見当たらない。


 一旦立ち止まりトランクを足許に下ろすと、懐を探り隠しから取り出した懐中時計を確認する。登り始めてから既に五十分程が経過していた。後もう少しの筈だ、とカナメは自身を叱咤し再び足を動かし始めた。


 そして、数分が経過した頃──突然、視界が開けた。


 雑木林を抜けた先。眼下に、集落が広がっていた。


 三方を山に、南側を川に囲まれ、瑞池の集落は存在していた。阿讃山脈に連なる北方の高い山の斜面には一面の柿畑が広がっている。それよりも低い西の山は途中から段々の畑となり、また南に流れる川は頂上にあるという湖から続いているのだろう事が見て取れた。


 盆地となっている集落の中心部には家々がひしめき、ぐるりを取り囲むように刈り入れの終わった田が配されている。ちらちらと羽ばたく白い鳥は白鷺だろうか。目線を下げれば、西の山と同様にこちら側の斜面にも段々畑が連なっていた。


 大きく息を吸い込むと湿った空気が肺に満たされる。何気無く見上げると、灰色の雲があたかも天井の如く空を覆っていた。細かい雨粒が汗ばんだ肌を冷たく濡らす。


 ──霧雨が、集落を包んでいた。


  *


「おや、お客人。瑞池は初めてかいね? よういらしたな」


 カナメが段々畑の間を縫うように設けられた道を下ってゆくと、畑の隅で何やら作業をしていた老婆が声を掛けて来た。大きな帽子を被り手拭いで頬っ被りをしている。割烹着のような作業着の上に手甲を重ね、その顔や指は想像よりも日に焼けておらず白かった。


「そうです、初めまして。雨の中精が出ますね。少しお伺いしたいのですが、──静宮さんのお宅はどちらになりますか」


 帽子を脱いで一礼すると、ありゃ、これはご丁寧に、と老婆は目を細め笑った。


「静宮屋敷なら、ほれ、あの中央の道を真っ直ぐ行った先。真ん中にある、門と塀のある一番大きい家、あれが静宮屋敷やけん」


「ああ、……あちらの方なんですね。分かりました、わざわざありがとうございます」


 カナメが再び頭を下げると、にこにこと老婆は笑い、また作業へと戻った。帽子を被り直したカナメは荷物を手に取り、教えられた道順を歩き出す。


 集落を見渡しながらカナメは歩く。──少しだけ妙な気に触れた気がするが、それ以外は特段変わったものは感じ取れない。道すがら、田畑で作業をしたり擦れ違ったりする住民に声を掛けられるが、皆の表情は一様に穏やかであった。


 にこやかに挨拶を返しながら、カナメは内心訝しむ。


 カナメは何度も仕事でこのような集落を訪れた事があった。しかしそのどれもが閉鎖的で、住民は外からの来訪者には警戒心を露わにする事が殆どだった。表面上は穏やかに対応する振りをしてこちらを皆で監視する、というのもよくある対応だ。


 だが瑞池は違う。皆が笑顔で、警戒心や敵意は一切感じられない。監視の視線も皆無だ。──来訪者に慣れ過ぎている。カナメにはその違和感が、酷く不穏な事のように思われた。


 住宅の密集する区画に入り大きな道を進んでゆくと、やがて目的の静宮邸と思しき建物が見えてきた。成る程、低めの塀に囲まれた平屋の古風な家屋は確かに『屋敷』と呼ぶに相応しい。


 カナメが近付くと、門の前に佇んでいた人影がこちらを向いた。


 それは小柄な女性に見えた。上品な藤色の着物を纏った華奢な姿が、降り続く霧雨に煙っている。傘も差さずに待っていたのであろうその人は、目の前で立ち止まったカナメに深々と腰を折った。


「お待ちしておりました、カナエ様ですね。ようこそいらっしゃいました」


「静宮さんですね。お世話になります、カナエ・カナメです」


 トランクを地面に置いて帽子を脱ぎ、カナメも礼を返す。顔を上げたその人はカナメを見上げ淡く微笑んだ。


「アガナ様からお話は伺っております。──初めまして、当主代理のシズミヤ・シズクと申します」


 ──瞬間、カナメの拍動が強く、跳ねた。


 年の頃は十七、八といったところだろうか。抜けるように白い肌、淡く桜色に染まる唇、小さく整った上品な顔立ち。霧雨にしっとりと濡れる髪は緩く三つ編みに纏められ、左の肩に流されている。長い睫毛が影を落とした黒目勝ちの瞳が、真っ直ぐにカナメを見詰める。


 その髪と瞳の色は、灰色を帯びていた。


 それは──三年前に亡くなったカナメの恋人と、全く同じ色彩だった。


  *

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