第5話 『夏のとある行事』
「それでは今日の『民俗学A』の講義を始めます」
チャイムが鳴った後、銀嶺はパンと柏手を打ってからマイクのスイッチを入れた。
一度柏手を打つ事で季節的にも人が集まる室内では熱や湿気が籠もりだすようになった講義室の中が静かになり冷たく澄んだ空気に変わり学生の意識にもスイッチが入る。
そして銀嶺の相も変わらずの人を魅了する良い声による民俗学についての講義は始まった。
「えー、まず今回も最初にレジュメを配るので端から端に向かって一枚自分の分を取ってから隣に渡して行ってくれ」
そう言ってレジュメの紙を各列の端に多めに配り始めた。
その後で出席確認用の小さな紙を配り始めた。
「各列の向こう端の人は余ったら一番後ろの列の人から前に紙を回して一番前の端の人の方へ集めておいて。先生が少し話したら回収しに行くのでそれまで持っててくれ」
そう言って銀嶺は教壇に戻って行った。
「では、今回は前回の予告通り『夏のとある行事』について講義を行っていくぞ」
そう言って黒板の右寄りの中央付近に銀嶺は大きめな字で縦に「七夕」と書いた。
「まぁ、これは一般的に
白いチョークで黒板を示した。
「この七夕の行事は所謂五節句の一つだ。七夕の音での読み方を知っている学生は手を挙げてくれ」
そう言って銀嶺は学生に挙手を促した。因みに今回のレジュメにはルビや読みの補足などはついていない。
すると三分の一程の学生が手を挙げた。
銀嶺は学生の方を見遣り少し逡巡した後教壇からマイクを持って動き出した。
「では……3列目の右端の
そう言って銀嶺は3列目の右端まで移動し該当の学生に手を伸ばしマイクを差し出した。
三番目の学生からも手が伸びてマイクは受け取られ銀嶺は手を引っ込める。
「えー、『しちせき』、七夕の節句です」
そう言ってから解答した学生はマイクを切り隣の学生へマイクを渡した。そしてそのマイクは端に居た学生に渡り、そこから端に居た銀嶺の元にマイクが届けられた。
「正解だ。五節句について知っていれば簡単な問題だったかな?何はともあれ解答をありがとう」
そう言って前回同様に余ったレジュメと出席確認の用紙を回収してから教壇へ戻った。
「『七夕』は本来しちせきと読み中国の牽牛星と織女星と天の川にまつわる星の伝説のことだ。そして伝説に由来する『
そう言って銀嶺は黒板の七夕の文字の下に棚機の文字を書き加える。平仮名も追加した。
「因みに他の節句は人日、
そう言って七夕の右側に右端から人日、上巳、端午と書き加え、左側に重陽と書き加えた。ついでにルビも振る。
「それぞれ一月七日、三月三日、五月五日、九月九日に行う催事だ」
銀嶺はそれ以外にも七夕の日時も書き加える。
「五節句について真面目に解説すると講義が容易く時間超過起こすのでこれらの節句は今回の講義ではこれ以上は触れないでおく、質問自体は講義後なら受け付けるぞ」
銀嶺はそう言って七夕の話に戻した。
「七夕の詳しい説明に戻るが、星祭りとも言う。太陽暦の今では梅雨で星空を拝めない事が多々あるが本来の陰暦だと今の暦にすると八月なので天の川を拝む事が出来るぞ。大まかには短冊に願い事を書いて他の飾りと一緒に笹に着けたり、後は素麺を食べたりする風習が有名な所か」
七月七日の下に八月七日を括弧書きで書き加え、素麺を食べると書いた。
「七夕伝説は中国の天帝が関わる古い伝説だな。西洋の星座の夏の大三角形を構成する星のうち鷲座のアルタイルとこと座のベガがそれぞれ牽牛星と織女星などと呼ばれるのは知っていると思うが。七夕伝説の詳しい話はレジュメに書いておいたから興味がある人は読んでくれ。因みに七夕の日に降る雨の事を『催涙雨』と読んだりもするぞ」
そう言って銀嶺は夏の大三角形を黒板に描き、アルタイルとベガに牽牛星(彦星)と織女星(織姫星)と書き足した。
降ったら催涙雨と雑に書き足す。
「先程話した様に、今も続く七夕行事には七夕伝説に由来する織女星に裁縫、機織、芸能の上達を祈願する『
そう言った後黒板に「乞巧奠」と書いた後、漢文みたいな書き下しを書いたり「奠」という字にお供えの意味もあると書き足した。
「夜に明かりをつけず星月の明かりだけで針に糸を通せると針仕事が上達するという言い伝えも『乞巧奠』から来ているな。これら東洋においての星に願う祭事としての形だな」
銀嶺は星祭りと書いた。
「童謡、たなばたさまの唄には五色の短冊というフレーズがある。この五色は中国の『陰陽五行説』という風水や私達には十干十二支の十干にも関わる思想に由来する。そして森羅万象を表し分類する『木火土金水』を象徴する色である『青、赤、黄、白、黒』が元となっているが、青が緑に黒は紫に置き変わっている事が多い。青が緑になるのは日本においての色の概念もあるだろうが、当時の日本人には黒が不人気で紫に替わったらしい。紫は高貴な色として知られているし厄除けにも用いられる色なのもあるだろう、単純に黒いと願い事が墨では書けないとか読みにくいとか実務的な理由もありそうだが。今じゃカラフルな様々な短冊が飾られてたりもするが、そこは塗料染料の発達もあるだろう」
さり気なく銀嶺本人の主観も入る。
黒板に陰陽五行説と書いた後、木火土金水を五芒星の形で書く。陰陽で太極図も雑に書き加えた。
「因みに節句自体も季節の節目として厄払いをする行事としての面を持ち、七夕において祭りの役目を終えた笹は流されたり燃やされて処分したりする事が多い。因みに東北のねぶたやねぷたなども七夕や同じ時期に行う別の行事からの派生した物だと言われているな」
銀嶺は暑気払い、厄払いと黒板に書いた。
「厄払いとしては禊として行われた『棚機津女』だが、大まかな内容としては神事に選ばれた穢れを知らぬ乙女が水辺の機織小屋に七月六日の夕方から七日まで籠って神の来訪を待つという行事で、夜に乙女の元に来訪した神様が七日の朝に乙女の元を去る時にその日の朝に人々が水辺で清めると落ちた穢れを神様が持ち去って下さるという物だったらしい。因みにこの『棚機津女』の行事やそれにまつわる説話にもバリエーションが色々あるので何が正しいとか間違ってるとは僕には言えない。他にも女性の髪を洗ったり水浴び、牛を洗ったりする行事も七夕で行うという地方も存在する。墓掃除や井戸の掃除とかもしたそうだ。時期的に暑気払いもあるだろう」
銀嶺はそう言いながら七夕は元々水辺や井戸など水場に関する物が多いと黒板に書いた。
「地方によって様々な形になった行事の一つだな。さて、この時点で中国の説話と行事が日本に元々あった行事と習合して七夕の基本が出来た訳だが、民俗学としても文化史としても更に面白いのはここからだ」
そう言って銀嶺は放っておけない美貌を更に凶悪で絶大に素敵で不敵な笑みを浮かべた。
「さて、
銀嶺がそう言うと学生達は誰も手を挙げなかった。半分くらいの学生は銀嶺に見惚れてたり圧倒されたりで正直頭に内容が入らなかったのだろう、そしてもう半分は答えを知らないか興味がそこまでない者のようだ。
「まぁ、わからなくても仕方ないと僕は思ってるよ」
一向に誰も手を挙げなかったので銀嶺はそう言ってから話を進めた。
「答えは『
黒板に「盂蘭盆会」と銀嶺は書いた。
「盂蘭盆会は仏教の行事だが、迎え火を焚いてご先祖様の霊をお迎えし、最後には無事に戻れるように送り火を焚く地獄の釜もお休みな行事として知られているな。地方出身の人が地元に帰ってお墓参りをしてお墓の掃除をしたりするイメージもあるだろう。『
銀嶺は中国神話と日本の行事と仏教行事の合体と黒板に書いた。
「因みに神道で『盂蘭盆会』に相当するのは『御霊会』で苦しまないように鎮魂したり氏神の元に死んだ人が逝き見守って下さる事を願う祭だ。神道の根幹に祖霊信仰があることがわかるな。時期は大晦日と冬のものだったり、神社によって時期は春・夏・秋・冬まちまちだったり、神道の御葬式の類を包括して呼ぶ言葉なのでわかりにくいかもな、その辺りは祭神やその神社の存在理由にも関わってくる」
銀嶺は神道は御霊祭と黒板に書き足した。
「因みにこの時期に行う『盆踊り』も仏教の『時宗』という宗派の『踊り念仏』という行事に由来しているぞ」
黒板に『盆踊り』→『時宗の踊り念仏が由来』と雑に書かれる。
「ねぶたやねぷたなど東北の夏の風物詩も七夕や『灯籠流し』のお祭りの派生と言われているな」
銀嶺は灯籠流しと黒板に書き足した。
「灯籠流しは世界の様々な場所で行われていて、『灯籠流し』も『厄払いの形代としての役割』と『送り火がの役割』があるとされていて形式も様々だそうだ」
そう言って『灯籠流し』の文字の所にハワイとか台湾や中国と海外でも行われている、と銀嶺は黒板に書き足した。
「お盆も地域や宗派によってご先祖様をお迎えする目印にするものも形式もまちまちだったり、供養の仕方も違えばお経の上げ方も違うし、お墓の在り方も様々な訳で僕みたいな人間では語り尽くすことは出来ないし、烏滸がましいと思っているよ」
ここまで楽しそうに銀嶺はイキイキと笑顔で語りながら黒板に板書をしていた。
「だが、残念だが今日は時間的に講義は此処でお開きにしよう。今回においても出席確認の用紙に名前を書いて教壇に提出してから退出するように。そうしないと今日の講義出席扱いにならないので忘れないよう気を付けるように」
そう言ってから銀嶺はマイクを切って柏手を打った。
どこか清浄な空気を感じられてどこか場に飲まれてた学生がハッと正気に戻ったようだ。
銀嶺もいつもの冷ややかな雰囲気を纏った顔をしていた。
「今回も少ない時間だが僕はチャイムが鳴るまで一応此処に居るので講義についての質問は受け付けよう」
マイクのスイッチを今一度入れて銀嶺が発言すると再びスイッチが入った学生が居たようで、教壇の所で囲まれやはりチャイムが鳴るまで質問される事になった。
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