邂逅

「経理部の多久栖ってやつ、ほんとにケチだよな」


「いやあ、ほんとっすよね。しかも経費の中身、結構詳細に書かないと文句言ってきますもんね」


「そうそう、俺もさっき文句言われたわ。営業で成り立ってる会社なのに、なんであんな偉そうなんだよ」


「しかも先輩知ってますか。あの人1円単位で家計簿つけてるらしいですよ」


「まじで。細けえなあ。俺そういうやつ無理だわ。絶対モテないやん」




 社員食堂で聞こえてしまった会話である。俺の食事はすでに終えているので、気づかれることなくその場を後にした。愚痴の熱量からその後も悪口を言われていたのだろう。うすうす気づいてはいたがやはり嫌われていると判明すると多少メンタルへ負荷がかかる。足早に自分のデスクへと帰還した。


 


 多久栖は製造を業とする会社に所属している。戦後の日本の産業の代表例といったビジネスモデルである。原料を仕入れ、加工し、営業をかけ、売る。大企業の製品の下請けも行っているが、営業によって顧客を新規に獲得することも珍しくない。両刀で行けるくらいの規模の会社であった。しかし会社の決算書を見ると直近の3期は下請けによる利益が全体の8割となっていた。つまり、この会社は営業部で成り立っているとはとても言えない状況になっている。俺が経営者なら新規顧客の獲得はやめ、下請けに特化することを考えるタイミングである。そうはいっても俺はただの経理であり、商才も営業力も微塵も持っていないためなんの権限もないのだが。


 眠気覚ましに水を飲みながら、先ほどの営業部から受け取った領収書の金額を表計算ソフトに入力する。但し書は「お品代」とされている。全くのNGというわけではないが、もう少し詳細に書いてほしい。次の法改正ではこれでは通らない可能性が高い。先ほどの愚痴はこれの点を指摘したことが原因であろう。こちらだって好きで指摘しているわけではない。多少の歩み寄りを見せてほしいものである。


 食事処における最近の記憶であった。


 




  異世界の飲食店はどこも酒場のようなものである。流石に貴族のような身なりをしているものはいないものの、つぎはぎのない服を着ている人もいれば、酔って大声で隣の席に絡んでいる人もいる。異世界に来ていきなり格式高い場所に赴く必要はない。この店なら注目を浴びずに飯が食えると考えた。異世界の食事ということで得体のしれない生物の肉を食わされるのかと思っていたが、メニューは主に海鮮、パン、ジャガイモ、チーズであった。海鮮は火を通しているものの日本人の俺からしてもおいしいと感じられるものであった。せっかくのハネムーンで現地の食事が合わず、大して楽しめない夫婦みたいなことにならなくてよかった。




 食事の問題はクリア。あとは住居と仕事である。お金はなぜかポケットにいくらか入っていた。恥を忍んで露店の八百屋に全財産を見せて、これでどれくらい買えるか尋ねてみた。するとその店のすべての商品を10日分買っても多少のお釣りがくるそうだ。店主はうきうきした顔でこちらを見てきたが結局リンゴを1つだけ買って退散した。正直リンゴすら買いたくはなかったが、冷やかしも嫌であったためしぶしぶ購入した。




 おそらくだが握ってきた一万円が換金されたのだろう。いつの時代のどのレートを基準に兌換されたのかは不明であるが、中世と現在の物価を比較すると一万円が大金になるのは当然である。おそらく厳密に計算したら日本の購買力で10億くらいにはなると思うので、せいぜい20万ほどにしか換金してくれなかった転移主?は相当ケチだ。


 しかしながら日本円にして購買力20万のお金を持っていることは非常にありがたい。一か月ほどは宿をとれるしひもじい思いをすることもないだろう。これらが尽きる前にお金を得る手段を得なければならない。現代における失業手当の支給期間である3か月くらいがタイムリミットとなる。この間で生活の目途がたてられなければ異世界で無双し、健気なヒロインを手にすることはおろか、段ボールとブルーシートのような生活になってしまう。最もこの世界ではホームレスになるというよりも奴隷身分になることを意味するのだが。




 若干の焦燥感は次第に増大していった。就職活動を開始して20日、いまだ箸にも棒にも引っかからない。この町には薬物中毒者は見かけるものの、無法者といった様子の人は少ない。手に職をつけている人は家を持ち、職人の弟子等はシェアハウスをしているといった具合に、たいていの人は住所を持っている。港がある街であるため船乗りのための宿は多く存在するが、所詮宿泊施設であるため住所としてアピールは出来ない。




 この町は定職者が多いそうだ。そのため地に足をついた人間を採用する傾向が強い。排他的とも言えるが町の安定という意味では職人が多い方が好ましいのだろう。もしくは宗教的な理由からか。転職は天珠に背く行為であるとか。食事処で何人かと会話をしたが宗教等の話をすることは、前世の記憶から憚られた。おせっかいな上司が教えてくれた社会人が避けるべき話題の3つ、性的嗜好、スポーツ、政治である。


 しかしそのようなことを言っている余裕は失われてきた。唯一単発で雇ってくれたのは漁師であった。三日目に見つけた職ということで余裕をこいていたが、その内容は事務職上がりの俺からしたら人智を超える肉体労働であった。異世界に転移したのにもかかわらず俺にはスーパーパワーもない上に、倫理観や思想は前世とかなり異なっている。雇ってくれた漁師とのコミュニケーションもうまく取れず、罵倒されながら仕事を終えた。そして給料は、、、出なかった。この世界では役立たずに渡す賃金などないのだ。それなら奴隷を購入し、飯を与えていた方が効率的である。OJTなど存在しない。




 難航する職場探しのさなか、夜風を浴びに街を歩いていた時である。前世では9時から5時の仕事が中心の生活を行っていたためリズムはほとんど崩れないかったが、ここ最近はストレスで眠れないことが増えた。前世ではさほど苦労しなかった就職活動は難航している。加えて不満を垂れ流す友人やネット環境はここには存在しない。募る焦燥感、蓄積する疲労は確実に彼のsan値を減らしていく。水の音を聞きに運河沿いを歩いていると、普段は通らない道へたどり着いた。




 この空気感は前世でも経験したことがある。西成や大宮そして大塚...。いやここは吉原や中洲の方が近いかもしれない。守銭奴の自分にはあまり関わりが少なかったが、男たるもの一度くらいは経験のあるあの雰囲気。風俗通りだ。




 この世界、もしくはこの町では売春行為は違法とされていないようである。この道は大通りとさほど離れておらず、近くに警察に近しい治安維持部隊の施設もある。通行者も恐る恐るではなく堂々と歩いている。後ろめたさなどは一切感じさせない。思えば前世から数えて半年はそういうことを行っていない。ピンク色に形容される独特な空気感、中期間にわたる色気のない生活、異世界に至って以降の疲労の蓄積は彼の財布のひもを緩める十分な理由となっていた。実のところ彼には彼の頭の中は金銭的なことなど一切浮かんではいなかった。彼が自覚とともに緩めていたのは表情とベルトくらいである。




 この世界の風俗にはパネルマジックなるものは存在しないらしい。なぜなら相手がガラス越しに見えるからだ。飾り窓と呼ばれており、西洋の売春のスタンダードとされている。イメージとしては飛田新地の客引きをおばさんではなく、お嬢本人が行っていると考えていいだろう。そこで客と嬢が交渉を行い、合意に至れば部屋の中に入るという形である。


 歩くペースを落とし女性を物色する。みな西洋人かと思っていたが港町ということもあり、時たま黄色人種も見かける。思えば自分も服装こそは転移時に変化したものの、顔は体形は前世と変化していない。中世当たりのヨーロッパであったのなら差別を受け、宗教色が強い国であれば魔女として火あぶりになっていても不思議ではない。しかし、職にはつけていないものの宿や食事処で不利益を被ったことはない。経済的に困窮した人々を侮蔑する傾向はあるが、それは人種による差別とはまた異なるものであろう。




 おっと失礼、今は上の頭ではなく下の頭で考えるべき時だ。俺の村正を収めてくれる鞘を探さなければならないときに理屈をこねる必要はない。飾り窓を通して見える女性は皆魅力的な身体をしており、客を寄せる術を持っている。要するに色仕掛けである。ジョージマイケルのCareless Whisperを流したくなるような官能的な動きは判断力を鈍らせる。


 本能優位になった意思決定機関を制御しつつ歩を進めると、彼はなぜ自分が異世界に転移したのかその理由を知ることが出来た。自分はこの女性に出会うために死んだのだと。前世がこの出会いの前座と思えるほどに、彼は運命の存在を強烈に実感した。




 男はその店の前で立ち止まった。

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