異世界にて顔と腕のいい殺し屋の家計簿をつける話。

@potetpo

異世界転移

 貨幣とは人類が発明した最も便利な道具といってもいいだろう。貯蔵手段、交換手段、価値測定手段、あらゆる人間の身近に存在する。

 現代ではある人はそれを渇望し、ある人は忌み嫌い、ある人はそれによって命を落とす。考え方によっては最も呪われた道具といってもいいだろう。


 人類はそれらを有効に使うための手段を多く開発してきた。用心棒がいなくともお金を守ってくれる銀行や、大量の現金を持たずとも支払いが行える小切手や手形、株価などもその企業の経済価値を金銭で表したものである。

 そのような大規模な機関やシステムはなくとも、我々の生活においては金銭を効率よく使用するための手段が多く存在する。そしてそれらを学ぶことは社会人にとって重要なスキルのひとつと言って差し支えないだろう。


 多久栖伝田(たくす でんた)はごく普通の会社の経理であった。月給はほぼ全国の中央値。平均値と比べると中の下ほどに位置する。時折平均値を少数で引き上げている超富裕層の連中に腹が立つこともあるが、彼の生活は経済的には快適であった。

 彼は給料日には必ず収入の3~4割を他の口座へと移し、そこには手を付けずにいる。最近は投資ブームだそうで世間はN○SAだかなんだかと騒いでいる。多少触れてみてはいるが基本的には銀行口座の残高が増えていくのを楽しみにしている。

 今月も五十日を迎えたためATMから給料を引き下ろし、他の金融機関のATMへと預け入れる。振り込めばいいのではないかという意見も聞こえるがやはり現ナマに触れたいのだ。振り込みの際に手数料を取られるのも癪である。


 会社が指定した銀行口座と貯金用の銀行口座は道を挟んだ反対側にある。素直に歩道橋を使えばよかったのだが彼は一秒でも早く、右手に持つこの3万円を預け入れたいと思っていたのだ。彼は左右も確認することなく道を横断しそしてあっけなくトラックにひき殺される。



 即死ではなかったらしい。しかし下半身の感覚はほぼない上に、体全体が火あぶりにされているような感覚を覚えている。どうやらもうすぐ死ぬようだ。ああ、横着して道を横断するんじゃなかった。割と真面目に生きてきたにもかかわらず死ぬときはこうもあっさりなのかという諸行無常を抱え、間もなく光を失う直前に、多久栖は地面に横たわるある人物と目が合った、気がした。諭吉であった。

(俺の、、、一万)

持っていた3枚のうち2枚はどこかへ飛ばされていた。しかし彼にとってその1万円札は、文字通り死力を尽くして手を伸ばすに値したらしい。彼の身体は脳からの電気信号に反応し、それを受けて行動を起こすといった本来の機能を残しているとはいえない状況であった。彼は脊髄反射的に右手を伸ばし、彼の生命を奪った原因ともいえる額面金額10000円の日本銀行券を掴んだ。 

 死ぬ前に求めるものは金や名誉ではないとよく言われるものだが、なぜ彼は世間からみれば卑賎な行動をとったのだろうか。それは目前に迫る死という事実から逃避するためのある種のマインドフルネスだったのかもしえないし、より哲学的な理由だったのかも知れない。彼の人生を振り替える際に重要な判断材料であったのは間違いないが、それを内省する脳のリソースと彼の生命の灯は残されていなかった。ただ彼は最期に至極単純な願いを祈った。死にたくないと。


 その後自分がどのような経緯を辿ったのかは覚えていない。女神さまのようなものに遭ったのかもしれないし、何処かの神の策略に巻き込まれたのかもしれない。もしくは自分の怨念のようなものが幻想を起こしているのかもしれない。あるいはマトリックスか。植物状態ってこともあり得る。まあどちらでもいい。一つ確実なこととして自分が事故に遭ったこと、高確率で死亡していることである。そして思考を行うことが出来ているということである。魚は水中にいることを自覚していない。魚にとって水は生命活動の土台である。水の中でしか生活しないので水を認識することが出来ないということである。

 人間における自我も同様である。自己は他人との比較で初めて認識することが出来る。死後の世界が一体どうなっているのかは未だに不明であるが、このように自分の状況を俯瞰的に見たり、生前ああしておけばよかったと後悔することは可能であるのだろうか。思考は心で行うものではなく、脳で行うものである。もし自分が死亡していれば脳の機能は失われ思考は不可能である。先ほどのマトリックスや植物状態は思考能力が機能しており身体が機能していない状態の例として挙げた。厳密には植物状態は脳が死んで身体が生きている状態であるのだが。まあ細かいことはいい。本来こういう込み入った話は苦手である。経理に入ったのも、お金の動きは素直だからという理由が大きい。

 俺はこのような「無」の空間で刹那か無限か分からない時間を過ごし、そしてその後目を覚ました。


 はい、やってきました中世ヨーロッパ風世界。見たところ、割と栄えている都市らしい。転移や転生先の都市としてお決まりのパターンは、城壁に囲まれており、細い道が入り組んでいるイメージがある。しかしこの町は漁港に近い。多くの運河が流れ、建物は一直線に建てられている。イメージとしてはオランダのアムステルダムであろう。そして俺の服装はご丁寧にその街並みに即したものになっている。おかげで白い目で見られずに済んでいる。知らない町、知らない人種とはいえ好奇な目で見らていることは分かるだろうし、そのような点で注目を浴びることは好きではない。誰も気に留めないということで、まず周辺の見回りを行うことにした。


 自分がこのような目に遭った経緯は分からないが、この状況がタイムリープではなく、異世界転移だと気づいたのにはいくつか理由がある。まず言語が通じるということである。すれ違う人々の話し声が理解できる。THE・白人って感じの人が関西弁で話しているのを聞いてしまったときには少し笑ってしまった。二つ目の理由は町が清潔すぎることである。歴史は得意な方ではないが中世当たりのヨーロッパは基本的に汚いというイメージがあったのだ。フランス人はほとんど風呂に入らないし、ベルサイユ宮殿にトイレがなかったことは有名である。この様な都市でも糞尿が垂れ流しになっていることが日常茶飯事であったそうな。


 そんなこんなで自分が異世界転移していることを自覚した多久栖であったが、本人は案外興奮していた。前世に未練がないといえば噓になるが、このような展開は男ならだれもが興奮する。剣や魔法の才能に恵まれ、騎士の隊長みたいなのをリミッター付きで倒す。そして決め台詞にはこう言ってやろう。

「またオレ何かやっちゃいました?」ってな。

 まあ、大体のパターンで異世界転移という概念をすでに知っている状況での異世界転移モノっていうのは、大体主人公は何にも能力を持っていないっていうのがセオリーなんだが。そういうときでもヒロインは須らくかわいいので良しとしよう。


 そうと決まれば行動開始だ。この世界で一花咲かせてやろう。小説の題材としてはこすられ続けたネタであるが当事者としては一世一代の大チャンスである。言っても俺は前の世代から切り離されたわけなので、一世一代にならざるを得ないのだが。細かいこと言ってもしょうがない、いずれにせよ俺は前を向きこの状況と向き合っている。


まずは飯を食べよう。

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