第10話 選択と取引
「ルーナ様、明日からは私が1人で森へ参ります」
それはダウンタウンパルコへと向かう車中で告げられた。突然だったのと、あまりにシンプルに伝えられたので、この言葉がなにを表しているのか、すぐには理解できなかった。
「え?僕も行くよ。苗植えはお父さんから頼まれた大切な仕事だから」
「フェデリーコ様からの伝言です。苗植えはこれから私が1人で行います」
「‥‥どうして?僕も森へ行きたい!ソーレとも約束してるんだ」
「ルーナ様、はっきりとお伝え致します。これからは森へ行くことはお控えください」
「え‥‥」
「ルーナ様はこれから、人生においてとても大切な時期に入られます」
そう言うとグラートは、僕の目を見ずに話し始めた。
僕は来年から念願のアルコバレーノ中学校に通う。お父さんの下で働くために、たくさんのことを学んでいく。僕は小さい時から数字を覚えたり、書いたりするのが好きで小学校では算数が1番得意だった。中学では"数学"という、より論理的な世界へと入っていく。それに加えて、物理、化学、そして自分の生き方や思想について深く知っていくことになるだろう。これから学業に専念するためにも、身の回りにある不必要なものは捨てるようにというのがお父さんからの伝言らしい。
「フェデリーコ様も苦しいのです。しかしこれらは全て、ルーナ様の未来を思っての決断です。心を鬼にして、そう決められたのです」
「僕の意思は?」
「‥‥お言葉ですが、セラタ地区の人間と関わることは、ルーナ様のためになりません」
「どうしてそれを、お父さんとグラートが決めるのさ。決めるのは僕だ」
「ルーナ様とソーレ様はこれから別々の道を歩むことになります。それはきっと、どれだけお互いが強く望んでも交わることのない道です。ルーナ様が、心からフェデリーコ様と共に王政を支えていきたいと思うのであれば、今こそ、何かを選択し、何かを捨てる決断をしなければなりません。あなたはそういう立場になる人なのです」
「‥‥じゃあ最後に一度ソーレに会わせて。自分の言葉でお別れを伝えたいんだ」
「ソーレ様には、私からお伝えいたします。ルーナ様は心配なさらずに、ご自身が選択した道を進んでください」
「なんだよそれ!そんなのおかしいよ!僕らはただ、毎日の些細なことを話したり、一緒に森の中を走ったり、寝っ転がってぼーっとしたり、そんな時間を過ごしたいだけなんだよ‥‥。1分だけでもいい。なのに、どうしてそれが許されないの!」
グラートの袖を掴み詰め寄ると、手をそっと握り「落ち着いてください」と僕の目を見た後、また視線を下に落としてしまった。
「‥‥今はまだ、私の口からはなにもお伝えすることはできません。ですがいつか、我々がこの選択をした意味をご理解いただける日が来ると信じています」
「‥‥グラートは、僕に何か隠してるの?」
グラートはこれまで、僕の質問には嘘をつかず、正直になんでも答えてくれた。ごまかすような態度を取ったことはなかった。
グラートがなにも言わないということは、"なにも言えない" きっとそれが答えなのだと思った。
「グラート、分かったよ。‥‥その代わり僕と取引をしよう」
次の日から僕には、グラートとは別に、カーターという家庭教師兼監視役がつくようになった。カーターは年配の男の人で、グラートとは対照的にとても厳しい人だった。
僕は好奇心が旺盛でいろんなことを質問したが、「今それは関係のないことです。目の前の勉強に集中してください」と、僕の好奇心は丸めてゴミ箱に捨てられてしまう。
食事の時と学校にいる時以外、カーターはついてきて僕を監視した。トイレに行く時も、休憩時間、中庭で遊ぶ時も。
「大丈夫だよ、どこにも行かないから。見られてると落ち着かないから、少し遠くにいてくれない」と僕が言うと、「お気になさらず」と本を開いた。カーターは決して一緒に遊んではくれなかったので、僕はひとりでボールを蹴った。
僕の3年間は、同じ毎日の繰り返しだった。学校は楽しかった。新しいことを学び、友人もたくさんできた。小学校で一緒だったエリザもアルコバレーノに入学した。しかし、放課後みんなでサッカーをしたり、教室に残って無駄話をしたり、寄り道をすることは許されなかった。学校が終わればすぐに家に戻り、課題を終わらせ次の日の予習をした。習っていたピアノは、今後の役には立たないと、辞めることになった。リビングにある大きなグランドピアノは、長い間布を被ったままである。
僕は14歳になった。
気づけば、ぐんと身長が伸び、声も低くなったような気がする。運動はしていないから、相変わらず腕や足は棒のように真っ直ぐである。
青く深い夜。僕は、自分の部屋にある大きな窓を開け、今日の白くまん丸とした月を眺めた。月が大きいからか、僕が大きくなったからか分からないけれど、手を伸ばしてジャンプすれば届きそうなくらい近くに思えた。
ソーレ、今日の月はとても綺麗だよ。君も見ているかな。そして、こんな夜に僕を思い出したりするのかな。そう思った瞬間、ソーレの笑顔が頭に浮かび、頬に一筋の小川が流れた。僕は、見ないふりをするように、すぐにゴシゴシと袖で拭き取り、思い出す前にすぐにベッドに入った。
時間が経つにつれて何よりも変わってしまったのは、お父さんだった。
ある日を境に、何かに取り憑かれたように寝る間を惜しんで働いている。書斎には絶対に入ってはいけない。貴重な資料が保管されているからという理由だ。
ある日、興味本位でドアに耳を当てると、中から泣きながら何かを唱えるような声が聞こえてきた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。神様、私たちをお許しください。こうするしかなかったのです。ごめんなさい、ごめんなさい‥‥どうか、見逃してください」
それはお父さんの、必死になにかに縋るような声だった。
お父さんは"誘拐事件"や"足を探すゲーム"という言葉に、過剰に反応した。
食事中に僕が「またセラタで誘拐事件があったみたい」と言うと、「セラタのことを話すんじゃない!!」と持っていたフォークを机に突き立てた。そしてふらっと立ち上がると、そのまま吸い込まれるように書斎へと入っていった。
夜は、グラートを引き連れてどこかに出かけることが多くなった。グラートに聞いたら「王政からの依頼です」としか答えてくれなかった。
家族で一緒にいられる時間は、日に日に短くなり、お父さんとの会話も減ってしまった。風呂にも入らず書斎へ閉じ籠り、たまに出てきたかと思えばパンをひとくち齧り、また書斎へと帰っていく。お父さんがどんどん知らない人になっていくようで、僕は怖かった。
季節は流れ、僕はもうすぐ15歳になる。
ここまで頑張ってこれたのは、この国の力になりたいという強い思いとは別に、あの日グラートとした約束を叶えるという目的があったからだ。
「カーター、グラートと話しがしたい。今どこにいるの?」
「グラート様は今、庭の手入れをしております」
「そう。じゃあ、僕も庭に行ってくるよ」
木々の隙間から太陽の光が差し込む昼下がり、下に降りると、庭に咲く薔薇の手入れをするグラートの後ろ姿が見えた。
「グラート、少し休憩したら」
僕がそう声をかけると、何かを察したように小さくため息をつき「はい」と剪定ばさみを置き、手袋を外した。
「お母さんは?」
「シエル様は、散歩ついでに花屋に行ってくると先ほど出られました」
「そっか。花ばっかり増えて、グラートも大変だね」
僕は、大好きなアールグレイの紅茶を淹れ、グラートの前に置いた。
「グラート、僕がなにを言いたいか分かる?」
グラートは、まず香りを楽しんでから紅茶をひとくち飲み、「それでは、来週の日曜日いかがでしょう」と答えた。
グラートとした取引、それは、3年間は中央の森へは絶対に行かないこと。そしてカーターと勉学に励む。その代わりに、僕が15歳になった時には森へ行くことを許してほしい、という内容だった。僕があまりにもしつこいので、グラートがお父さんに相談してくれて、交渉は成立した。
「今の季節は、夜に蛍が見れるそうですよ」
僕はその夜から毎日図鑑を開き、中央の森へ行く日を今か今かと、心待ちにしていた。
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