第5話 再会と誘拐


「ソーレ。お父さんの代わりに役所に行ってきてくれない?」


ある日のことだった。母さんから役所に書類を届けて欲しいと、封筒と地図を渡された。父さんは昨日から農地へ行った。これから3日間は帰ってこない。

僕にとって2回目の訪問だったが、そんなことを知らない母さんは「1人で行かせてしまってごめんね。気をつけて」と心配そうに僕の手を握った。「大丈夫だよ。行ったことあるから」とうっかり口走りそうになった。僕はぐっと堪え、それを受け取り「ありがとう。気をつける」と微笑んだ。またひとつ、嘘をついた。



前回と同様、川を渡り、バスに乗って第1地区へ向かう。あの日から3週間経ったけれど、街は何も変わっていなかった。バスを降りるとすぐ、この匂いだったと思い出した。むしろ前回よりもキツくなっているように感じた。張り紙も、怪しい密売人も健在だった。

森の入り口につき許可証を見せると「ご苦労様」とすぐに通してくれた。これが、男の商人だとそうはいかないらしく、下着の中まで手を入れられて銃や薬物を持っていないか確認されるという。


森へ入ると、あの気持ちいい空気が僕を出迎えた。排水口の溜まったゴミが抜け、スルスルと流れていく感じがする。

役所は出口を出ると目の前にあり、建物は囲うように壁で覆われていた。絶対に北の人間を入れないという何かを感じた。

書類を提出した帰り道、泉へ抜ける細道が目に留まった。あの少年のことが浮かび、考えるより先に体が動いていた。


泉はあの日と同じように、今日の青い空を映し出していた。タンクも持ってきたらよかった。僕は水辺にしゃがみ、映った自分の顔を眺めながら、ノエミのことを考えていた。

あの日の帰り道、僕の怪我にひどく落ち込んだノエミは「ごめん」と言うばかりだった。

「いいよ。痛くなかった。ノエミの方が痛いよね」と言うと、ノエミは泣き出してしまった。


「‥‥たまらなかった。初めてあんなにしっかりクオーレの人間を見たの。洋服も髪も肌も、心も、何もかもがきれいだった。あんなこと言うつもりはなかったのに、止められなかった」と。


別れる時も、ノエミは最後に「今日はごめん」と言っていた。でも次会った時にはいつものノエミに戻り、からっと笑っていたから僕は少し安心した。色々と心が複雑になる時期なのだろうか。ピオは「女の子特有の時期なんじゃない?」と言っていたけど、そんなことをどこで覚えたのか。


戯れる鳥たちをボーッと眺めていた時だった。


━━━ カサカサ‥‥

何かが草をかき分け歩いてくる音が聞こえ、僕は身構えた。


「グラート、本当にここじゃないといけないの?」

「フェデリーコ様からのお願いです。あ、ルーナ様、そちらは危ないですよ」


ルーナ。たしかにそう聞こえた。あの時の少年かもしれない。僕は茂みに隠れ、羽をとじてひと休みする蝶と一緒に、静かに様子を見ていた。隣の男は夏だというのに黒いスーツに身を包んでいた。執事だろうか。ふたりは穴を掘って何かを埋めている。

観察するのに夢中にだった僕は、腕を這う黒い存在に気づかなかった。そいつが僕の二の腕まで登ってきた時、視線を感じて肩を見ると、"こんにちは"とでも言うように蜘蛛がちょこんとのっていた。


━━━ !!???!


「ぎゃあぁぁぁぁぁぁ!!!」


僕は、何かがこの世から消えたらいいのになんて、そんなひどいこと一度も考えたことはない。だが今この瞬間、この世から何か消せるとしたら?と聞かれれば、迷わず"蜘蛛"と答えるだろう。

どうしよう。触りたくない。気持ち悪い。と、あたふたしていると、ジャリッという音と共に体が斜めに倒れていった。

あ、落ちる。その瞬間、スローモーションのように、僕を眺めるふたりと目が合った。なんとも惨めな再会である。


━━━ ジャバンッ‥‥‥


━━━ カサカサカサ


「大丈夫!?」



━━━‥‥ブハッッ



「‥‥プッ、ククク‥‥フハハハハハ」

「ちょっとルーナ様、失礼ですよ。さぁ、そちらの方、手を伸ばしてください」

「だって‥‥だって‥‥ククク」

「まったく、あなたって人は」

少年は両手で口を押さえていたが、耐えられなくなったのか涙を流して笑っていた。男は僕の腕を掴み泉から引き上げてくれた。身体中にありとあらゆる水草が絡まっていて、少年がそれを取り、男はハンカチで拭いてくれた。


「君、前もここで会ったよね。大丈夫だった?ソーレ君」

「え?なんで僕の名前」

「あの女の子が叫んでたから」

「あぁ、あの時はごめんね」

「ううん!傷は治ったの?」

「うん、もう大丈夫だよ。本当にかすっただけだったから。君の名前は、ルーナ?」

「そう!よく知ってるね!」

「隣の男の人がそう呼んでたから」

「グラートは僕の家の執事だよ!そうか、ソーレとルーナ。僕たちは、太陽と月なんだね。今気づいた!」

そう言うと、彼は流れるように自然に僕の隣に座った。

「ルーナ様、私は出口の方で苗を植えてきます。少ししたら戻りますので、ここにいてくださいね」

「あ、いってらっしゃーい!」


近くで見たルーナは、ノエミの言っていたとおりだった。透けるような金色のサラサラとした髪、白い肌、地中海のように鮮やかな瞳、全てが僕とはまるで違っていた。近づいてきた時せっけんのいい匂いがした。


「今日は、あの子一緒じゃないの?」

「うん。僕は役所にお使いを頼まれて来たんだ。ルーナはいつもここに来てるの?」

「ううん!お父さんに苗木を埋めるの頼まれた時だけ。ほらこれだよ。そしてこっちが肥料。お父さんは、この国を建て直すために頑張っているんだ。これもその一環なんだって」


ルーナはそう言うと、小さな芽を咲かせた苗を取り出し、スコップで穴を掘ると、まず袋ごと肥料を埋めて、その上に苗をのせ土を被せた。


「ルーナの父さんはすごいな。僕の父さんは畑を耕しているだけだよ」

「それだって凄いことだよ!じゃないと僕らの食べ物は育たないんだから」


人によっては、ルーナの言葉は嫌味のように聞こえるかもしれない。でも僕は、ルーナが言ったこの言葉は、慰めだとか、上の立場から言っているなんて、そんなことは思わなかった。彼と少しだけ話して気づいたことがある。きっと、とても純粋なのだ。彼が豊かな暮らしをしているのは、身なりや所作から伝わってきた。

服についた泥をハンカチで拭き、笑う時は白い手を口元に置く。周りから愛されて育ち、とても素直で、人を疑うことをしない。彼のような人間は、人を簡単に信じることができない僕たちには稀有な存在に見えて、また、心の闇が大きくなるのだ。でも、彼に罪はない。僕たちにも、誰にも罪はないんだ。


「ルーナ。僕たちの前には、ずっと壁があったんだ。目に見える壁もそうだし、目に見えない劣等感という名の壁が。だから同族同士仲間意識が強くて、外の人を受け入れない、自分たち以外は信じない、みたいな不思議な絆があるんだと思う。こないだはノエミがあんな言い方してごめんね。あの後反省してたよ」


僕はそれから、閉じていた重たい扉を少しずつ開くようにルーナと話し続けた。セラタ地区のこと、強がりなノエミのこと、ピオがくれたオレンジのこと、父さん母さんのこと、僕がいつも首から下げている、お守りの宝石のこと。


「へぇ!その巾着の中には石が入ってるの?」

「そう。でも母さんが開けたらだめだって、魔法が解けるからって言ってた」

「何それかっこいいー!」


ルーナとは今日初めて話したけれど、昔から知っているような感じがするのはなぜだろう。ゆっくりも早すぎもしない、体によく馴染む空気が僕たちの間に流れて、それがずっと続いてほしいと思った。


「ねぇ、ソーレとの話、日記に書いてもいい?」

「日記?」

「うん。僕ノエミに言われて思ったんだ。壁を分厚い強固なものにしているのは、僕ら自身なのかもしれない。もしかしたらこの溝は、お互いの理解で少しだけ埋めることができるのかもって。そのためにも、僕はセラタの人たちの気持ちを持って帰りたいって思った」

「全然いいけど」


僕がそう言うと、ルーナは袋からノートを取り出し何かを書き始めた。僕がいるのも忘れて、文字を書き続けた。気づけば、東にいた太陽は真上に移動していた。


「ルーナ。僕、そろそろ帰るよ。母さんが心配するから」

「あ!ごめん!つい夢中になって‥‥。ソーレ、また会おう」

「また会えるかな」

「会えるよ。本当だったら太陽と月は出会えない。でも僕らは出会えた」

「うん、そうだね」


僕たちは熱い抱擁を交わし、必ずまた会おうと約束した。


━━━サササッ


「んぐっ」


『ここで死にたくなければ大人しくしろ。おい、お前ら2匹連れてけ』


低く湿った声が耳をかすめた。それはあまりにも一瞬の出来事だった。口には布が押し込まれ、視界も塞がれ前が見えない。両腕は後ろできつく結ばれてしまった。ルーラはどうなった。大声を上げようと鼻から息を吸い込んだ瞬間、背中に尖っているもの感じ、僕の体は指先まで固まり動けなくなってしまった。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る