7:兄と姉2
腑に落ちないものを感じたが、
「そう苛々することもないよ、麟華。状況はどうであれ、どうやら君の望み通りに事態が動きそうだ」
「どういうことよ?」
「ついにあの方も動くようだ」
麒一が穏やかに告げる。麟華にはそれだけで伝わるのだろう。彼女は大きく目を見開いて、麒一の肩に掴みかかりそうな勢いで身を乗り出した。
「本当に?」
「ああ、間違いないよ」
パッと輝いた麟華の嬉しそうな顔が、朱里には印象的だった。あまりに大袈裟な反応なので、咄嗟に誰のことだろうと思いを巡らせてしまう。理事長くらいしか思い浮かばない。朱里は父親のことだろうかと勝手に想像を膨らませてみたが、何かがかみ合わない。
麟華はとびきりの笑顔のまま朱里を振り返る。
「朱里」
はしゃいだ声だった。朱里は次の台詞を待ったが、彼女は何かを伝えようとしてふいに何かを思い出したようだ。笑顔がさっと消えて、訝しそうに眉を寄せた。
「何? 麟華」
朱里は嫌な予感がした。麒一が傍らで不思議そうに様子を窺っている。
「そういえば、さっきの話がうやむやのままだわ。あなた、実は私達に隠れて彼氏がいるんじゃないの?」
「はぁ?」
思わず間の抜けた声が出てしまう。姉のくだらない妄想はまだ終わっていなかったようだ。学院では理知的で格好が良い教師だと上々の評判なのに、今の様子ではまるで別人のようである。
「隠したって駄目よ、朱里。私達はそんな嘘つきな娘に育てた覚えはなくってよ。そんなおままごとのような恋愛、私が叩き砕いてあげるわ」
「だから、彼氏なんていないよ」
声を高くして訴えると、傍らで麒一が呟く。
「麟華、朱里の気質を育てたのは私達ではないと思うけれど?」
これまた的外れな突っ込みである。朱里は座卓に顔を伏せた。そのまま頭を抱えてしまいたいくらいだ。
「麒一、そんな突っ込みはいらないのよ。朱里、あなたにはぜひ好きになってもらいたい人がいるの。絶対にお似合いよ」
何を言い出すのかと朱里が抗議しようとすると、一瞬早く麒一の鋭い声が響いた。
「想いの行方は彼女自身が決める。――麟華、顔に泥を塗るつもりか」
麟華はあきらかに怯んだようだった。言葉を飲み込んでから、悔しそうに「そうね」と呟いた。双子だからなのか、二人には通じ合う部分も多いが、同時に激しく反発することもあった。
双子だと知られている二人の学院での印象は似通っているが、朱里の目には二人は対照的に映る。麟華には動を司るような激しさがあるが、麒一には静を司るような落ち着きがあった。相反する性質に属しているような気がするのだ。
その違いがもたらすのか、双子の些細な衝突は珍しい光景ではない。朱里には慣れた状況だったが、常に気まずいことも確かだ。
朱里はそそくさと立ち上がって、いつものように張り詰めた空気を拭うように明るい声を出した。
「とにかく、私には彼氏なんていないから。この話はもう終わり。じゃあ、お風呂に入ってくる」
慌しく和室からリビングへ出ると、浴室へと向かった。早足に廊下を進みながら、ふと朱里は二人に言いそびれてしまったことを思い出した。
禁忌の場所へ続く抜け道での体験。
爆発のような激しい衝撃。その後に現れた人影。
自分に手を差し伸べた誰かとの、不思議な出会い。
思い返すほどに、夢か幻のように現実的ではない光景だった。あれは幻だったのだろうかと思えてくる。
朱里は自分の掌を見つめた。
強く覚えた既視感。
浴室にたどり着くと、朱里は眼鏡を外して鏡に映る自分の顔を眺めた。明るすぎる瞳の色。琥珀よりも赤い褐色をしている。
(――こいつ、鬼の娘だ)
幼い頃に囃し立てられた記憶が蘇ってくる。
(おまえの目、鬼の目だろう)
今はもう、そんな言葉に動じるほど幼くはないけれど。やはり思い出すと切なくなるのは仕方がない。
――鬼。
禁忌の場所に通じる、狭い抜け道。
手を差し伸べた彼が立ち去った先にあるのは、立ち入ってはならない境界。
鬼の
暗い闇の中で垣間見えた、美しい顔。人を誘う魔物は、時として美しい姿をしていると言う。
朱里は自分の中に芽生えた考えを振り払うように首を横に振った。
この世の中に、鬼などいない。
それは得体の知れないものに対する総称のようなものだ。
朱里が出会った人影はたしかに人だった。指先に触れた熱。差し伸べられた掌は温かかった。
(――君が望むのなら、私は全身全霊をかけて護る)
かけられた言葉を思い出すと、思わず顔が赤くなった。まるで熱烈な愛の告白のように激しい台詞。
「でも、麟華のオススメの人って、……誰だろう」
どうしてそんなふうに感じたのかは、自分でもわからない。
けれど。
もしそれが、あの狭い抜け道で出会った彼ならば。
朱里は瞳を閉じて思い返す。不可思議ではあるが、向かい合った人影に対して恐れはなかった。嫌悪もない。込み上げた既視感だけが鮮明だった。
もしこんな自分に、いつか運命的な出会いがあるのならば。
あの人だったら――。
朱里は自分の考えていることが恥ずかしくなって、すぐに打ち消した。思い切り麟華の発想に影響されていると、自分の頭を軽く小突いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます