8:夢と現Ⅱ
その噂を誰に聞いたのかは定かではない。
東の国に生まれた
世界に与えられた
黒き闇は
第三太子の気質は残忍、残酷。血も涙もなく冷酷で冷淡な人ならざる心で生きる。
彼に嫁いだ者は
耳にした噂の全てが、ただ恐ろしい。
「六の君」
訊き慣れた声に呼ばれて顔をあげる。目の前に立つ美しい女性は、
「あなたが縁を結ぶ方が決まりました」
突然の宣告を受けて、彼女は「私が?」と目の前の女性を見つめた。不安と期待が入り混じった複雑な表情をしている。縁を結ぶとは婚姻を意味する。
彼女は自身の立場を思い、それを望むような者がいることを疑ってしまう。
「本当に、私が?」
こんな自分を望んでくれるのなら、それだけで不満はない。彼女は自身に与えられた役割を嬉しく感じたが、喜びはすぐに費えた。
「
すうっと目の前から光が失われてしまった気がした。与えられた役割があまりに過酷で、彼女は全身から血の気が引くような思いに捕らわれる。
向かいに立つ尊い女性の声が、どこか遠くで聞こえている。
泣き叫びたいような気がしたが、辛うじて堪えた。これが自分に与えられた分相応な役割なのだと強く言い聞かせる。決して姉である宮達よりも目立ってならない。それは彼女達のように、華やかな幸せを手に入れてはならないということを意味している。
「ありがとうございます」
震える両手を床について、彼女は深く頭を下げた。
(自分にできることを、精一杯しよう)
今までと、同じ。役割があって、それが何かに通じているのなら、役立つのならばそれでいい。
彼女は震えが来るほどの恐れと不安をやり過ごす。奈落の底で立ち上がり、ゆっくりと這い上がる。
周りの者の顔色を窺い、機嫌を損ねないように立ち居振る舞うことには慣れている。住まう場所が変わるだけで、これからも自分の隷属的な立場はずっと変わらない。
(これが、私の役目)
彼女は決して、無意味にこの世に生まれたとは考えない。自分がここに在ることには意味がある。それが世界にとって、取るに足らぬほどのささやかな働きであっても構わない。与えられた境遇の中に自分が役に立てる場面があるのなら。
誰かの、何かの助けになれるのなら。
誰に罵られても、貶められても、思いだけは前を向いて胸をはって生きていられる。
それだけで幸せを感じることが出来る。不幸だとは思わない。
どこに嫁ごうとも揺るがない。変わらない。
自分が在る事の意味は、これからは
厄介者を追い払うに等しい結婚だとしても、彼女は目を背けずに、自身に与えられた役割だと真摯に受け止めた。
頭を下げる彼女の前で、衣擦れの音がする。美しく尊い人の気配が無くなるまで、彼女はそのまま動かなかった。
彼女は太子を前にして、体が震え出すのを止めることができなかった。
前に揃えた両手をついたまま、額が床に触れそうなほど深く頭を下げていた。広い室内は驚くほど深閑としている。するすると衣擦れの音が近づく。太子が間近で立ち止まった気配がした。
「――まだ幼いのに、酷な仕打ちをする」
響いた声は想像よりも明瞭で柔らかかった。凛と通る声が頭上から続けた。
「私は
緊張が高まり、どっと冷たい汗が噴き出す。彼女はゆっくりと上体を起こして、恐る恐る顔を上げた。
目の前に立つ太子を見た瞬間、彼女は息を呑んだ。
見たことのない闇色。緩やかにうねる細い髪は黒く、柔らかに流れて艶を放っている。夜の闇よりも、どんな宝玉よりも深い色彩。
闇を映す黒がこれほど美しいと、誰が知っていただろう。見慣れない色合いは感覚に馴染まない。少しだけ恐ろしいことも確かだ。
けれど、彼女は素直に綺麗だと感じた。どんな色彩も混じることの敵わない漆黒。
噂とは何とあてにならないのだろう。
場違いながら、改めて風聞の愚かさを噛み締める。
「鮮やかな朱の瞳、
太子は彼女の前で膝をついて手を伸ばす。高い位置で固く結われ、そこから真っ直ぐに落ちかかる緋い髪に触れた。珍しそうな仕草だった。
「南にある
彼女は目の前の太子に魅せられて、言葉を失っていた。いつの間にか身の
太子は彼女の沈黙をどのように受け止めたのか、苦く笑った。
「私が恐ろしいか」
「そ、そんなことは……」
ないと伝えようとしたのに、うまく言葉にならなかった。太子は立ち上がり、自身の長く緩やかにうねる黒髪を指先でゆるゆると弄ぶ。自嘲するような笑みが浮かんでいる。
「この姿、君が恐れるのも無理はない。……はっきりさせておこう。君は私の元へ嫁いで来たようだが、私は君に興味がない。私の成すことに干渉しないのなら、ここでは好きなように過ごしてくれてかまわない」
まるで太子はその覚悟を嘲笑うかのように、簡単に自由を与えてくれる。同時に見事に突き放した。
「私には既に恋人が在る。よって、君の出る幕はない。それだけは肝に銘じていただこう」
「――はい」
喜ぶべきなのか、哀しむべきなのか、彼女にはよく判らなかった。全てがあまりに想定外で混乱していた。
「姫君、このような
太子が深く頭を垂れた。しなやかな動作に目を奪われる。美しい顔に長い髪が落ちかかっていた。顔をあげると、太子はそっと手を差し伸べる。
彼女は戸惑いながら、しっかりと掌を重ねた。
強い力に引かれて立ち上がると、勢いが余ったのか一瞬体がふわりと浮き上がる。
「――っ!」
がくりと体が震えて、
暗がりに沈んでいるのは、見慣れた自分の部屋だった。
「はぁ」
自分を落ち着かせるために、朱里はわざと溜息をつく。大袈裟に寝返りを打って、肌布団を蹴り上げた。
(何? 今の夢)
朱里は恥ずかしさのあまり、今度はがばっと肌布団を頭からかぶる。
(どこまで単純なの、私ってば)
さっきまで見ていた夢を思い返すだけで、頬が染まるのを感じた。太子として登場したのは、間違いなく禁忌の場所へ続く抜け道で出会った彼だった。
目を奪われるほどの太子の美貌は、暗がりで見た彼の顔と同じである。
夢でも現でも、強烈に印象に残ってしまうのは認める。
百歩譲って認めるが。
だからと言って。
(そんな得体の知れない男に嫁いでたまるかぁ)
思い切り胸の内で叫んで、朱里は枕を抱いてゴロゴロと忙しなく寝返りを打った。狭い抜け道、暗がりでの不思議な出会い。現れた人影が余程心に残っているのだろう。付け加えて、麟華の戯言も影響しているに違いない。
異世界を舞台にした夢まで見てしまうのだから、かなりの重症である。
それにしても。
(「――私には既に恋人が在る。君の出る幕はない――」)
朱里は彼の台詞を思い出して笑ってしまう。作り上げられた夢の中でも、自分の意識は現実的な部分を失っていないようだ。甘い乙女の妄想だけで終われない。
「……私らしい」
夢の続きを見てみたい気もしたが、そんな器用な真似はできないだろう。
くすくすと小さく笑いながら、朱里は肌布団を整えてかぶる。
もう一眠りしようと目を閉じた。心地の良い眠りが訪れるのに時間はかからなかった。
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