第一・五章 大学生デビュー! 恋に青春に真っ盛りですか?⑧

「女性陣。俺らになんにも言わずに、銭湯行きやがって……」

 部長は恨めし気に数百メートル先にある銭湯を睨んだ。

 すみれ先輩と円香は、もう法子さんの家で晩飯の手伝いをしているらしいから、睨んでいる先に二人はいないというのに。


 あのあとコピー機での印刷が終わり、居間で推敲していた麻琴の目に映ったのは、スマホに映るこのメッセージだった。


『あ。円香ちゃんと私、気分転換に先に銭湯行っちゃった。今日は、男性陣で行ってきて』

 部長もこのことは初耳だったようで、せっかく割引券をもらったから渡そうと思ってたのに、と恨み言を言っていた。麻琴はさっきの一件で気まずかったから、先輩の配慮に胸をなでおろす。


「香月はいっつもそうなんだ。自分勝手っていうか、自由気ままっていうか」

「それでも部長、副部長のコンビでやっていけているんですね」


 部長はわざとらしく眼鏡を直しながら、こう言った。

「腐れ縁だよ。顔と外面であいつに惚れた連中見てると、哀れでな……突っ込んでたら、コンビみたいに」


 あっ、俺は香月のこと全く恋愛対象じゃないからな?? と部長が顔面蒼白で言う。そんな表情する必要なんてもうないのに。

「俺、振られましたから。大丈夫ですよ」

「いや、俺はほんとにあいつだけはなくって――って、振られた?! アイツに? すまん、そんなこと気づきもせず」

 すっかり陽も落ちたあぜ道に響く部長の大声。ほぼ同時に、部長と麻琴のスマホにピコンと音が鳴る。


『どっちか、服一式忘れてないですか?』

 円香からの連絡だった、部長はガサガサごそごそと鞄を探り、顔色をさらに悪くする。

「げっ……」

「部長、取りに行ってください。先に銭湯行って待ってます」


 部長は目をウルウルさせて、絶対に戻ってくるからな、と麻琴の手を握って言った。さながら『走れメロス』だ。全速力で走る姿はあっという間に遠くなる。


 麻琴はあぜ道を一人歩く。生ぬるい風が時折ほおを撫でて、じっとりと汗ばむ。もう十九時だっていうのに、やけに暑く感じられる。


 昨日四人で話しながら歩いたときは、あんなに短かった銭湯までの道のりが、今は遠い。

「はあっ……」

 ゆらり。

 目の前の景色が、瞬きするたびに滲んで見える。やけにうるさい虫の音が、目の前の風景の現実味を失わせる。麻琴は鞄にあるペットボトルの水を口に含んだ。


 ぐらり。

 少し先に人影が見えた。暗がりの中では女か男かも分からない。


 あんなところに誰かいただろうか。いたような気もする、いなかった気もする。はっきりしたことは何も分からなかった。


 じりじりと鳴く虫の音を聞きながら、麻琴は呆然と立ち止まる。

 人影はだんだんと近づいてくる。相手もゆらゆらと、足取りがおぼつかない。


 声というのか、音というのか分からない、引き攣ったような高い声が聞こえる。目の前の人物が出しているものだろうか。それとも何かの虫の音?

 

 いつの間にか、相手と麻琴の距離は歩幅五つ分ぐらいしかなかった。

 相手の姿もこの距離では流石に分かる。田舎に似つかわしくない背広に、特徴的な大きくて丸い角、手には鈍く光るダガーナイフ。


「お前はっ……!」

 ――ひつじの被り物の瞳は、やけにぎらついて見えた。高校時代に馬鹿みたいに追いかけまわしていた怪人が、いま目の前にいた。

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