第一・五章 大学生デビュー! 恋に青春に真っ盛りですか?⑦

 合宿三日目。昨夜遊び疲れたからか、今日はやけに眠かった。


 朝食後、執筆に取り組んでも頭の霧が晴れない。重いまぶたを擦りながら、PCを前に文字を打っては消して、打っては消して。


 何度か繰り返したのちに、これでは駄目だと席を立った。

 たしか法子さんがアイスコーヒーを用意してくれているはずだ。もらいに行こう。


 何度かインターホンを押しても返事がない。返事がなかったら、裏口から入ってちょうだい、という話を思い出して、裏口に回ってドアを開ける。


 靴を揃えて家に入ると、リズミカルな包丁の音がした。インターホンの音に気が付かなかったのは、料理をしていたからのようだ。

「お邪魔してます――雛田麻琴です。アイスコーヒーいただきに来ました」

 そう言って足早に台所に向かうと、思わぬ人物がいた。


「あっ、麻琴くん! ……ちょっと待ってね。大葉を全部切っちゃいたくて……」

 エプロンを着て、慣れた手つきで大葉を切っている。いつもは出ているおくれ毛もきちんと纏められていて、台所という場所がやけに似合っていた。

 その隣には、スーパーで並んでいるものよりも数倍は大きいトマトがボウルに入れられている。


「これは……?」

「今日のお昼はそうめんの冷製トマトカッペリーニ風だって」

「かっ……ぺ……?」

 円香は肩を揺らして笑いをこらえながら、なんとか大葉を切り終えた。


「冷製パスタみたいなもの! 大葉とトマトが自家栽培だから、すっごい美味しいらしいよ!」

「へえ……」

 麻琴は内心、横文字を使わずに「トマトそうめん」とでも言えばいいのにと思った。

「アイスコーヒーはここ! あとは……」


 冷蔵庫をがばっと開いて、アイスコーヒーのピッチャーを指さす。そのあとも、ごそごそと冷蔵庫を探って、紫色の一回り小さなピッチャーと炭酸水も取り出した。

「あたしがアイスコーヒー飲めないって言ったら、法子さんが用意してくれたの! みんなの分はないから、内緒で飲んじゃわない?」

「いやっ、僕は手伝いとかしてないし……」

「いいの? 自家製だよっ」


 自家製。その言葉に黙って頷いた麻琴を前に、円香は満面の笑みで答えた。

 鼻歌を口ずさんでいる円香から、紫蘇ソーダを受け取る。円香と麻琴はまるで隠れるかのように台所の床に座った。


「ねえ、麻琴くん」

「何?」

「……小説、順調?」

 グラスを床に置いて、円香がこちらを覗き込むように見ていた。その目は少し赤くなっている。


「順調ならここに来てない。昨日まで書いてた小説は全部消して、完全にスタートまで戻った状態」

「そう、なんだ」

 ほっとしたように笑う。なんだ、そんなことを心配してたのか、と麻琴は思った。

「だから諦めずにやれば――」


「あたし、ほんとは執筆なんて興味ないの」

 小さな声で発せられた一言は、やけに通って聞こえた。目の前の円香はうずくまってこちらを見ない。


「小説も、年に数冊しか読まない。今やってるジャズだって、いまいち乗り切れない。大学に来てから、何にも本気になれなくて、全部つまんない」

 円香はこちらをふっと見て、こう呟いた。

「麻琴くんだって――そうでしょ? 麻琴くんが一緒だって分かったから、あたし文芸サークル入ったんだよ」

 心の底をまさぐられているようで、麻琴は吐き気がした。


「……孤独は嫌だよ、ひとりになりたくないの」

 円香はこちらに体重をかけて、こてんと肩に頭を乗せる。じんわりと伝わってくる生ぬるい体温が、パーソナルスペースに侵入してきていることを物語っている。

「ひとりに、しないでくれる?」


 縋りつくようなその目が、まるで懇願するかのように語りかけてくる。しおらしく取り入るその姿に――。


「人はみんな、一人だよ」

 麻琴は円香を押しのけて、逃げるように立ち上がった。その隣にはこぼれた紫蘇ソーダが、鮮やかな色を床にぶちまけている。


 肩で息をしながら、麻琴はいつの間にか台所を後にしていた。

 その間のことはよく、覚えていない。


 三日目の昼食も、昼食後の執筆も、まるで砂を噛むような心地だった。時間だけが過ぎていき、起こった出来事は表層だけを滑っていく。

 麻琴は残り時間で小説を書くのは難しいだろうな、と判断して書評を書き始めていた。以前読んだ海外小説が、先生の家にあってよかった。


 ある程度進んだところで、印刷をしてみようと書斎を訪れる。

 すみれ先輩も同じ考えだったようで、コピー機が印刷を進めていた。規則正しく動く音が心地いい。

 原稿はもうひと段落したんだろうか。


「コピー機、次使っても?」

「いいよ、ちょっと待ってね」

 コピー機はやがて止まり、先輩は印刷された紙を手に取った。


「気まずい? 円香ちゃんと」

 先輩は印刷し終わった原稿を揃えながら、片手間にそう言う。

「円香さんに何か言われたんですか」

「違うよ、円香ちゃんは何にも」

 何を思ったのか、軽く笑って答える。


「じゃあ」

「あの子も麻琴くんも、ギクシャクしたのバレバレ。まあ、蓮は原因まで気が付いていないだろうけど」

「……すみません」

 麻琴は項垂れる。すみれ先輩に恋愛事情とか……そういうものがばれるのは気持ちがよくなかった。


「振ったのって、私が好きだから?」

 麻琴はこの言葉を聞いて、かっと耳が熱くなった。羞恥心と驚きが身体を駆け巡る。


 そんなわけないって冗談っぽく返したり。自意識過剰だと怒ったり。色々な返事を思いついたけど、目の前の先輩の優し気な表情に何も言えなくなった。

 目の前の人はこういう状況に何度も遭遇していて、人から好意を向けられるのは珍しいことじゃないんだと思った。


 しかも、それは先輩にとって喜ばしいものじゃない。




「今回の私のテーマ、恋愛じゃないの。誰かさんが、分かんなくていいっていうから」

「はあ」

「麻琴くん、私のどこが好きなの?」

 凄いことを聞くなあ、と思う。

 先輩の目がわずかに細められていて、麻琴の言葉をきちんと待っていてくれることが分かる……から怒らないでいるけど。


「先輩は優しくって、落ち着いてて。困ったら頼りになる人だから。そんな人の助けに――なりたいなって」

 先輩は笑って、そんなんじゃないよと呟く。

「私はね、博愛的に振る舞うのは得意だけど、そういう自分は嫌い。ただの、頑張っても?がれない仮面」


 麻琴は何にも返せなかった。自分の気持ちが報われることはないことが、はっきりと分かった。

「だから、そういう私のことが好きな人って、内心馬鹿にしてて。利用してもいいかって思ってた。だけど、恋愛じゃなくていい、って言ってくれたとき。ああ悪いなって思って」

 先輩がちゃんとこちらを見て言った。

「恋愛小説を書く上での――実験台にでもする気だったんですか?」


 麻琴がじとりと見つめると、すみれ先輩はバレた?と笑う。

「先輩あのとき変でしたもん。俺の気持ちを弄んで……」

 先輩がその言葉を聞いて吹き出した。

 今度こそちょっと怒りたい気持ちが湧いてくる。無駄にほっぺ触ったりしたのも、全部計算だったというわけだ。

 ちょろい男とでも思われてたんだろう、ちくしょう。


「ごめんね、でも感謝してる」

 先輩がやけに爽やかに、潔く謝るもんだから、麻琴は恨み言がもう出てこなかった。それに――。

「いいですよ。俺も利用してましたから、先輩のこと」

「うん」

「円香さんのこと、何も言えません……俺も救われたかったんです」


 あのとき円香を拒絶したのは、鏡に映った自分を見たようだったからだ。誰かに救われたいのは、麻琴だって同じだった。

「そう」

 先輩は笑っていた。

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