第一・五章 大学生デビュー! 恋に青春に真っ盛りですか?⑥
「ホーホケキョ、ってほんとに鳴くんですね!」
二日目の朝は、味噌汁に鮭と白米という伝統的な朝食だった。麻琴はまだぼんやりとしているが、目の前の円香は楽しそうだ。
「だねえ。移住したいなあ」
同じくまだ完全に覚醒していない先輩は、箸でつまんだ米を茶碗に落としながらそう言った。
「すみれ、しっかりしろ」
「いいんだよ、掃除がんばってくれたんだから。おばちゃん、最後に家を見せてもらったときびっくり。あそこまで綺麗になったのは久しぶりだよ」と法子さん。
「ありがとうございます」
「それで、今日は何するの?」
「俺たち、文芸サークルなので。先生の別荘をお借りして、今日から三日間、執筆合宿させていただこうって考えてました……すみれ経由でご了承いただいていると聞いてるんですが」
部長はおそるおそる問いかける。
「もちろん! 好きなだけ使ってちょうだい。十五時にはおやつを用意してるから、こっちの家に戻ってきてね」
朝ご飯を食べ終わった後、麻琴たちは思い思いの場所で執筆を始めていた。部長は居間の椅子で、円香は廊下の縁側で、すみれ先輩は書斎で。
麻琴はしっくりくる場所を求めて彷徨っていたが、集中できる場所をまだ見つけられていなかった。本でも読むかと書斎の扉を開く。本棚の背表紙を眺めながら、ちらりとすみれ先輩の様子を見る。
すみれ先輩は眼鏡をかけて、ソファーにゆったりと腰かけていた。一人掛けのソファーと小さなラウンドテーブルを、わざわざ書斎に持ってきて執筆している。書斎の机と椅子は先生のもの、という気遣いかもしれない。机の上にはいくつか古典的な恋愛小説が並んでいて、先輩はその一つを手に取っている。
ノートパソコンをちらっと覗き込むと、筆は全く進んでいなかった。ほとんど白紙に近い。先輩のことだから半分ぐらいは書き終えたと思っていたんだけど。
麻琴自身はプロットすら固まっていなかったので、部長の進度が速いだけかもしれない。
「こら、マナー違反だよ」
ぱたん、とノートパソコンが閉じられ、眼鏡を外す。少し呆れが混じった微笑みでそう言った。
「すみません」
「悪いと思うなら、ここに正座」
先輩は自分の席の隣を指さした。床だ。
言われるがままに隣で正座をする。
むんずと両頬を掴んで、先輩は横にひっぱった。おお、やわらかい、と呟いて満足げだ。
「ほんとうに難しいお題を出してくれたもんだよ。困らせてくれちゃって」
「先輩がいいって言ったんじゃないですか」
ちょっとすねたように言うと、先輩は顔を逸らしてくすくす笑った。
頬はまだつねられたままだ。
「そうだね……今さ、恋愛とその別れを書いているんだけど。この名曲に釣り合う話になってないんだよ。何を書いてもチープになっちゃって。まいったね」
頬をぐにゃぐにゃと上下に動かして、先輩は苦笑する。先輩が弱気だ、と麻琴は内心思った。
「私、あまり恋愛にいいイメージがないの。中学はそれで人嫌いになっちゃってさ。高校の友達が人嫌いは払拭してくれたけど。恋愛は経験不足」
「そう、なんですね」
「麻琴くんは? 恋愛エピソードないの?」
「ないですよ。俺は初恋も最近ですから」
「恋愛じゃなくてもいいからさ、別れのエピソード。永遠だと思っていたものが、そうじゃなかったときのこと」
旧校舎の寂れた教室と、夕暮れ。彼女のなびく髪と瞳。一瞬思い浮かんだものを振りほどく。
「ないです」
「麻琴くん。困った先輩を助けると思ってさ」
先輩が麻琴の頬を指で突っつく。
「よく、分かりません。先輩もいいんじゃないですか、分からなくて」
先輩の手が麻琴から離れた。
瞳孔が少し開いて、手のひらが宙に浮いている。
「ふふっ、そっか。分かんなくていっか」
先輩は満足げに微笑んでいた。何が楽しいのかはよく分からない。
けれど、先ほどの危うげな雰囲気から、マイペースな先輩に戻って内心安心した。
「麻琴くん、たまに面白いよね。そっちのほうが好きだよ」
先輩が席をすっと立つ。十五時だね、おやつ何かなあ、と去っていった。
誰にでも優しく、女神のようで、よく分からない。それが麻琴の好きな人だった。
執筆に明け暮れた(はず)の二日目の夜。
麻琴はバケツ片手に近所の川へ足を進めていた。男性陣はバケツを、女性陣は法子さんからもらった手持ち花火を持って。
片付けを頑張った麻琴たちへ、法子さんが粋な差し入れをしてくれたのだった。
「川へ出かけるとか、小学校ぶりだな~」
ごつごつした石を、バケツの水がこぼれてしまわないように踏みしめながら、部長はそう言う。
麻琴も幼稚園児の頃に父さんと来たぐらいで、川をきちんと見るのは久しぶりだった。
真っ暗な河原に、部長の超強力ライトが光を当てる。
「ここ平坦だし、まあまあ綺麗だしっ! いいんじゃないですか?」
円香が楽しそうに指を差した場所に、部長がよっこらせと言ってバケツを置く。麻琴もつられて置いた。
女性陣も花火を囲んで、どれから始めるだの、線香花火は最後だのと言っていた。先端にひらひらが付いているカラフルなやつ、棒に黒い火薬が付いているやつ、線香花火、派手そうな筒。手持ち花火だけじゃなく、箱型の置いて使用する花火まで買ってある。
麻琴は花火セットから蝋燭と風よけの缶を持って、ライターで火をつけた。小さな灯りがぼんやりと周囲を照らす。
「麻琴くん、はいこれ。シューって火がでるやつ」
「ありがと、そっちは?」
「あたしはでっかいパチパチが出るやつ。映えるの間違いなし!」
今どきの女子だ。
「写真、撮るの?」
「……あたしのスマホ、カメラ性能しょぼくて。夜ダメなんだよね。だから撮れないの」
なんで映えとか気にしてたんだろう、謎だ。
「あ、円香ちゃん。私と一緒の花火だ」
すみれ先輩も遅れてやってきた。足元の火であっという間に着火する。あっ、俺まだ選んでるのに! という部長の声が聞こえるが、先輩は気に留めていないようだ。
麻琴と円香も続いて花火に火をつける。パッと視界が華やかになって、世界が色に染まる。
「すみれ先輩、重ねようよ!」
「オッケー」
先輩はオーダー通りに重ねる前に、麻琴にスマホを預けていった。
「麻琴くん! 写真お願い」
「えっ、センスないですよ。俺」
「大丈夫。センスなくっても、後でしっかり笑ってあげるから!」
先輩と円香が笑っている。カメラ越しで切り取られる楽し気な光景に、麻琴は何度かシャッターを押した。
うん、上手く撮れている気がする。
「麻琴くん、みせてみせて。えーっ、すみれ先輩のスマホ性能やばい!」
「でしょう」
「スペック高いスマホ持ってるなら、事前に言っといてくださいよ! ほら、部長もいつまで悩んでるんです! 麻琴くん、みんなで文字書くやつしよ」
円香があまりに張り切ってポーズを指定するものだから、みんな夢中になって手持ち花火を選んだ。
麻琴たちの周囲だけが灯りに包まれていて、火薬の匂いが非日常感を演出する。
きっと一生分の写真を撮ったに違いない。
「で、お前ら。小説の進捗はどうよ」
「ゼロかな!」
すみれ先輩がぱちぱち花火を左右に揺らしながら笑う。
その顔に昼の迷いはなかった。
「はあ?! 駄目じゃねーか。他のメンバーは?」
麻琴たちは黙って首を振る。
「お前ら……明日はしっかり書くんだぞ……」
部長が大げさに眼鏡の位置を直すのが、良好とは言えない視界の中でも分かった。
「最後に、線香花火だね」
すみれ先輩がそれぞれに一本ずつ配る。もちろん麻琴にも渡された。
「夏の思い出、ってこういうときに使うんでしょうね」
「だな」
線香花火の儚い灯りは、見るものを心地の良い静寂に誘う。
麻琴は火花が落ちないように腕を固定しながら、ぼんやりと見つめていた。花火に夢中になっていて気がついていなかったのか、急激に眠気がやってきて目がとろんとする。
「みんな眠そうだね。隣の円香ちゃんなんて……おーい、円香ちゃん」
「えっ? なんですか」
「ぼーっとしてたから、ね」
「そ、そうですか? 楽しいなーって余韻に浸ってたんですよ!」
円香はなぜかガッツポーズをした。
「ふーん。おりゃっ!」
すみれ先輩がとなりの円香にちょっかいをかける。
「すみれ先輩、何するんですか! あーもうっ」
その衝撃で線香花火が床に落ちた。
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