第一章 教室で缶ビールをあおるJKはヒロインですか?⑧
次の日。
ろくに朝食も取らず、今日使う教科書を鞄の中に詰め込んで家を出た。慌てて家を飛び出したから、寝癖はつきっぱなしだ。
妹からは絶対零度の視線で見つめられたが、仕方ない。呆れられているのはいつものことだ。
昨日は色々なことが頭を過ぎって、上手く寝ることができなかった。
結局、深夜四時までスマートフォン片手にゴロゴロ。
金曜日と月曜日の教科書で信じられない重さになっている鞄を手に、教室の扉を始業時間ギリギリにくぐった。
そのとき、クラスメイトの視線がこちらに集まる。探りを入れるようなその視線は、始業ギリギリに入ってきたことを咎めているわけではなさそうだ。
「あのさ、あれってホント?」
話したこともないクラスメイトが、小声で話す。
「……何のこと?」
異様な雰囲気に辺りを思わず見渡す。教室の雰囲気はどよんと沈んでいて、クラスメイトの声は、先生がまだ来ていないのにいつもより小さい。
そういえば、里見先生は何をやっているんだろう。教室の時計は八時三四分を指していて、もうホームルームの時間は過ぎている。いつもならとっくに元気な声で伝達事項を伝えている先生は、今ここにはいない。
「……波奈ちゃんが、先週の金曜日に飲酒してたってほんと?」
「どうして、」
困惑する麻琴に向かって、女子生徒が詳細を話し始めた。
「たまたま旧校舎に用があった生徒が、口論の声を聞きつけて見に行ったらしいの。そしたら、机を引き摺る音と「飲酒のことは黙ってて」っていう声が聞こえたって。あたしも信じられなかった。けど、波奈ちゃんは特に否定しなかったって」
「そんな……」
確かに彼女が述べたような出来事はあった。しかし、それは去年の九月にあった出来事なのだ。間違っても金曜日にあった出来事じゃない。大体、波奈は飲酒自体を辞めているのだ。
「いやー、人って見かけによらないというか。そんときどんな感じだったの?」
「デリカシーねーな、雛田が困ってるだろ」
「そうか? わりいわりい」
がははと笑いながら冗談を言う男子生徒の頭をはたいたのは、野球部の大輝くんだった。
「お前ってやつは……はあ、悪いな。雛田」
「――一ノ瀬さんは?」
「さあ、俺は知らないけど……問題起こした生徒は、いっつも生徒相談室じゃないっけ」
麻琴はそれを聞いた瞬間に教室から飛び出していた。
生徒相談室。その存在を麻琴は知っていた。一年の担任も二年の担任も、なかなかクラスに溶け込めない麻琴を気にして紹介してくれたからだ。
けれど、足を運ぶのは今日が初めてだった。保健室の隣にあるその空間から、何か話しているのが聞こえる。そのトーンは楽しいものではなさそうだった。
引き戸の前には「使用中」という看板が立てられていた。気にせず扉を開けようとすると、鍵がかかっていて開かない。麻琴が二回ノックをすると、中から担任の里見先生が出てくる。その表情は少し苛立っているようだった。
「『使用中』って書いてあるだろ。って雛田……」
「僕も無関係の人間じゃ、ないでしょう」
「――無関係じゃないからこそ、お前は呼ばなかったんだ。大丈夫、お前にも何があったのか聞くつもりだから。俺たちは一ノ瀬の言い分だけを鵜呑みにするわけじゃないよ」
里見先生がいい人なのは知っていた。もし波奈が麻琴に対してひどいことを言ったとしても、それを信じて麻琴の発言を聞かないなんてことはないはずだ。
けれど、波奈が飲酒を認めていたら。麻琴が何を言っても「かわいそうな男子生徒が被害者にも関わらず、加害者を庇っている」構図にしかならない。
「今じゃないと、ダメなんです」
麻琴はそう言って強引に相談室へ入った。
「雛田くんより、わたしの方がみんなに信頼されていますから。あることないこと言ってやる、って脅したんです。飲酒がバレてしまったら、そのことだけで頭がいっぱいでした」
扉を乱暴に開けると、部屋の中にいる人間の視線は麻琴に注がれた。下座側に窓向きで座っている波奈だけが、なんでもないように言葉を紡いでいた。
「嘘です! 僕は飲酒なんて見ていないし、口論なんてなっていない。まるっきりでまかせです!」
「じゃあ、君はどこにいたんですか」
波奈の向こうにいた教頭先生が発したその一言に、一瞬言い淀んでしまった。確かにその日も、波奈と一緒にE組にいたからだ。けれど、飲酒はしていない、口論も。
「いや、責めているわけではないんです。君に言いたいのは、自分を偽る必要はないということです。一ノ瀬さんはあなたの悪評を流すつもりはないと言っていますし、もし仮にそのような噂が流れたとしても、教師一同あなたを守ります」
「いや、違くて……」
「ごめんなさい」
波奈は麻琴の方を向いてまっすぐそう言った。
その表情には後悔は浮かんでいなかった。
彼女は自分が優等生から外れることをひどく嫌っていた。こんな状況は望むところではないはずなのに。
「先生。わたしが飲酒を日常的にしていたこと。自己保身で雛田くんに酷いことを言って、暴力を振るったのは事実です。すみませんでした」
ここから状況をひっくり返す術はわからなかった。本人が認めてしまっているのが致命的だった。
麻琴は里見先生に促されるままに、部屋を後にしたのだった。
その後、波奈と麻琴が話すことはなかった。波奈はまばらにしか登校しなくなり、登校した日も、誰とも話すことなく一日を終える。クラスメイトも腫れ物に触るような扱いをしていた。
麻琴は何度かクラス内で話そうとしていたけれど、言葉は声にならなかった。クラスメイトが麻琴と波奈が関わらないように気を配っていたこともあって、とうとう高校二年が終わるまで話すことはなく。
三年に学年が上がった日、波奈は高校を退学した。
「桜の蕾が花開く今日この日に、僕ら卒業生三〇一名は富川高等学校を卒業します……」
蕾はまだ硬く、花は咲く気配さえも見せていないじゃないか。
そんな捻くれたことを思いながら、麻琴は硬いパイプ椅子に座っていた。目の前では真面目そうな女子生徒が、答辞を読んでいる。あんなことがなければ、間違いなく彼女があの場所で立派にスピーチしていたに違いない。
けれど、彼女はここにはいない。探しても視界に入ることはない。もう麻琴の人生に関わることがない人になってしまった。起立、礼の指示だけは聞き漏らさないようにして、他の言葉は聞き流す。
卒業が寂しいという気持ちはなかった。むしろ、この日を待っていたのかもしれない。
式典は何事もなく終了し、各自教室に戻っていく。
麻琴も人の流れに合わせて歩いていた。その背中めがけて、彼が飛びついてくる。相変わらずヒョロヒョロだなあ、なんて不名誉なことを呟きながら。
「大輝くんがデカイんだよ」
「俺、睡眠不足でちょっと寝てたかも。麻琴は?」
ダメだ。全然聞いてない。
「……受験終わってからはちゃんと寝てるし、眠くはなかったかな」
「うわっ、えら。俺なんて受験終わってからゲーム三昧。むしろ、受験勉強中の方が規則正しかったかも」
「大輝くん、朝型だからじゃない」
「いや、俺そもそも雛田ほど勉強してねーからな」
「そんなことないんじゃない」と麻琴は笑う。
確かに、彼がちゃんと勉強しているところは、受験三ヶ月前からしか見ていないかもしれない。
「さみしーなー、卒業」
隣の大輝くんは、名残惜しそうにそう呟いた。
「寂しいんだ」
「そりゃそうだろ。野球部の奴らだって会いにくくなるし、クラスの奴らなんて同窓会でしか会わなくなりそー」
その通り。彼と麻琴はほとんど会わなくなるだろう。そのことが寂しくないと言えば嘘だけど、その反面少しホッとしてもいた。
「二年の時は、お前マジで変なやつって思ってたけどさ。三年になって話し始めたら、結構いいやつかもって気がついたのに」
大輝と麻琴は三年に進級してから、話す機会が急激に増えた。野球部の奴らが誰もいなかったから、と話しかけてきたけど、それは嘘だと思う。
彼は野球部以外に友達が沢山いたし、もし仮に誰も知り合いがいなかったとしても、新たに人間関係を構築することは簡単だっただろう。孤立しそうだったのは、麻琴の方だ。
彼はそんな僕を哀れに思って、声をかけてきたのだろう(もしかしたら里見先生に頼まれたのかもしれない)。
「別に今生の別れってわけじゃないんだからさ」
「いやでも、お前って卒業したら、ぱったり連絡途切れそう。関係性ばっさり切るタイプっているじゃん」
「そんなことしないよ」
麻琴は笑ってそう言った。
「本当? じゃあ、卒業後打ち上げしようぜ。いつもの奴らも声かけてさ」
麻琴はいいよ、と言いながら、どこか乗り気にはなれなかった。楽しい瞬間でも、ふと冷めた目で過ごすのは最近の悪い癖だった。
「大輝! 雛田! 女子がアルバムに寄せ書きしようってさ!」
教室の窓からクラスメイトが声をかける。その声に応えるように僕らは教室の扉をくぐった。
休日に遊びにいくような友達がいて、クラスメイトとはそれなりに仲が良い。高校に進学する前に自分が思い浮かべていた生活が、そこにあった。けれど、彼女はいない。
「麻琴くん、アルバム書いてもいい?」
目の前にいた詩織が声をかけてくる。
詩織と麻琴は三年で同じクラスになったのだから、不自然なことではない。むしろ、同じクラスなのにあまり話さなかった、この一年の方が不思議なぐらいだ。
「いいよ」
「やった、雛田くんもあたしのアルバムに書いてよ」
アルバムを彼女に向けて開くと、彼女はメッセージを書き始めた。そんなに関わりがない相手と思えないほど、その筆には迷いがない。
麻琴の方はというと、書くことが見つからず筆が進んでいなかった。
「ねえ、麻琴くん」
「何」
メッセージを書きながら、詩織が口を開く。
「波奈、大丈夫だよ。入試も終えて、来年から大学生」
「そう」
「それから、迷惑かけてごめんなさいって」
「……連絡取ってるんだ、今でも」
「ちょっとギクシャクしたけど、幼馴染だからね。親同士が仲良いのもあるし」
麻琴とはあれから一回も連絡を取っていなかった。
連絡手段として使っていたSNSは、いつの間にかアカウントごとなくなっていた。
「よしっ!」
メッセージを書き終えた詩織が麻琴に向かってアルバムを差し出す。もう書き終えたらしい。
「ちょっと待って、もう書き終えるから」
「急がなくても大丈夫だよ」
詩織は波奈からのメッセージが伝えられて安心したのか、楽しそうに笑う。
「あのさ」
「何?」
「……なんでもない」
麻琴は当たり障りのない文章を書いて、彼女にアルバムを返した。
『どうしてヒーローになりたかったの?』
あの日の彼女の問いは、今では即答できる。
口に出すのも憚られる薄汚い答えだ。そんな動機だから、結局誰も救えなかったのかもしれない。
相棒の式神が現れないのも納得。
――ホント、最低の日だ。ああ、今日が卒業式でよかった。
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