第一章 教室で缶ビールをあおるJKはヒロインですか?⑥

 じっとりと嫌な汗が背中に伝っていた。

 何の夢を見たのか覚えていないけれど、決していい夢ではなかったことだけは断言できる。

 近頃、悪夢を見ることは少なくなっていたのに。このタイミングで見てしまったことに苛立ちを覚えた。


 二月七日。テーマパークに行く約束をした朝にこんな夢を見なくていいじゃないか。


 不幸の前兆ではという嫌な予感を、冷水で顔を洗って誤魔化す。友達と出かけるなんて久しぶりだから、少しナイーブになっているだけだ。

 それだけ、深い意味なんてない。漠然とした不安が形になっているに違いない。深呼吸をゆっくり繰り返して、気持ちの揺らぎを整えていく。


 精一杯伸びをして、ベッドから飛び退いた。大丈夫、今日は何も心配いらない。


「どこに行こっか。いきなり新しいエリアに行ってもいいけど、雛田くんはどう思う? そもそも雛田くんってここに来たの初めてだっけ? もしそうなら、まずは一番有名なアトラクションがいいかな? それともパレード?」

 

 ブラウンのショートダウンに、黒のスキニーパンツ。中に来ている白の英字Tシャツといい、ボーイッシュな雰囲気だ。

 普段の波奈とは少しイメージがずれる格好で、スマートフォンを操作しながら話す。


 電車に揺られながら、波奈は目に見えてはしゃいでいた。

 返事する暇もなく、矢継ぎ早に質問する彼女を見て少し安心する。不安が気取られて、楽しい雰囲気じゃなくなるのは避けられそうだ。


「初めてだけど、どこからでもいいよ」

「どこでもいいって一番難しいやつだよ、ホント」

 スマートフォンを眺めながら、呆れたように波奈はつぶやく。


「何も知らないからさ。行きたいところに行ってくれたらそれが――」

「でも、何でもいいわけじゃないでしょ?」

 波奈は、意味ありげに笑う。

「……まあ、確かにそうかもだけど」


「でも安心して。高い入場料だけあって、今日はどこに行っても楽しいに違いないから。何したって間違いなし」

 波奈が麻琴に向かって笑いかける。ただの友達同士のようなやりとりに、今朝の悪夢のことは忘れられそうだった。


 それから、波奈の後をついて麻琴たちは楽しい時間を過ごし――とはならなかった。

「一ノ瀬さん、方向音痴なんだね……」


 配布されていたパンフレットを凝視しながら、波奈はきまりが悪そうな顔をしていた。


「前日にきちんとルートは調べたし、こんなハズじゃなかったんだけど。方向感覚とか、空間認知とか全然ダメ。公式アプリを入れても迷うなんて、完全に想定外だった……」


 普段の彼女からは考えられないしおらしさだ。

 園内をぐるぐる回っていたのは、特に意図するものではなかったらしい。

「ちょっと歩いただけで怒るほど、短気じゃないよ」

 むしろ親しみを感じた、なんて言ったら途端に不機嫌になりそうだ。


「パンフレット貸してくれる?」

「雛田くん、地図読めるの?」

「人並みには」

 その言葉を聞いて、波奈はパンフレットを無言で渡した。心配そうなその目に、どれだけ頼りないと思われてるのか透けてみえる。


「アトラクションがあるエリアはっと……」

 彼女が一番楽しみにしていたファンタジー映画が集まっているエリアは、意外にもすぐそこの十字路を右に曲がったところにあった。

 こんな至近距離で迷うのは……すごい。


「そこ右にいったら、すぐ見えてくるみたい」

「ええっ。じゃあ、目と鼻の先にあったのにぐるぐるしてたってこと?」

 彼女は狼狽したように声を上げたが、遊園地の愉快な音楽に、すぐ元気を取り戻したようだった。


「そういえば、雛田くんってアトラクションの元ネタ知ってたっけ?」

「名前ぐらいは……?」

「面白いよ。わたし、ファンタジーもので一番好き。平凡な少年が異世界に飛び込む話なんだけど、夢がないオチが大好きなの」

「ファンタジーなのに?」

「そう。夢はないけど、前向きになれるから好き」

「へえ……」

 何だかあまりよく分からなかったけど、彼女がそこまでおススメするなら見てもいいかもしれない。


「ほら、見えてきた! ドラゴンの再現度が高いなあ。さすがお金かかってるだけある……」

 はしゃいでいる彼女は麻琴のコートの裾を握って、列の最後尾に並んだ。体が引っ張られる感覚に戸惑う。彼女自身は気にも留めていないようで、すぐに手を離した。けれど感覚はまだ残っていて、じんわり熱い。


「並んでいる間にも展示があるんだ……」

 彼女が夢中になって見つめている視線の先には、乱雑に重ねられたハードカバーの書籍の山。その奥には二匹の蛇がお互いの尾を喰む茜色の本が飾られていた。

 さらに歩みを進めると、ある少年と竜の冒険譚が描かれていた。麻琴は正直あまりよく分からなかったが、女王様に名前を与えられる者を探しているらしかった。


「どんな話なの?」

 目を爛々と輝かせている波奈へ遠慮ぎみに話しかける。

「愛……の話かな」

「ふうん」

 展示は長い列の至る所に配置されており、列の終点で遂に女王様に出会ったのだった。


「遂に、アトラクションに……!」

 波奈は頬を蒸気させて、待ちきれないとばかりにコースターに乗り込んだ。その後を追って、麻琴も乗り込む。

 心の準備ができる前にコースターは動き出し、暗がりの中に飛び込んだ。一粒の光が表れたかと思いきや、そこから草木が芽吹きコースターは勢いよく駆け出す。


 そこからのことはあまり詳細には覚えていない。とにかく目まぐるしく風景が変わり、時々気味悪い蛾が麻琴たちの周りを飛び回った。何が何だか分からなかったが、隣の波奈は楽しそうに笑っている。


 気がつけばあっという間にアトラクションは終わりを迎えた。主人公は現実世界に戻っていく。終点では、アトラクションの入口で見かけた本屋が再び現れた。

 隣の波奈は魅入られたようにしばらく見つめていたが、アトラクションに降りるように促すガイダンスで我に返ったようだった。


「凄かった」

「……うん」

 話はよく分からなかったが、幻想的な光景は面白かった。


「雛田くん、次は物語を読んでからおいでよ。ちょっと話は長いけど、きっと何倍も楽しめるからさ」

「長いって、どれぐらい?」

「えっと、五百ページぐらい?」


 げっ、そんなに長いのか……という内心はすっかり顔に出ていたらしい。波奈は笑いながらこう返事した。

「大丈夫だよ。児童文学だし、そう難しい話じゃないから」

「別に小難しい話でも読めるよ、きっと」

 麻琴はむっと顔を背けて、わざとらしく不機嫌そうに振る舞う。この反応を見て、彼女は更に笑ったのだった。


 その後少し早めの昼食を取ろうと思った麻琴達は、近くにあったピザ屋に入った。ピザ一ピースとポテトがついたセットは千六百円という強気の価格。

 流石テーマパーク価格……と思いながら、財布を開く。ええい! 今日はお金のことは考えないでおこうと心に決める。


「何にする?」

「うーん、内緒」

 変なところで秘密主義だよなあ、彼女。


「雛田くん、顔に思ってること全部出てるよ」

 麻琴の顔を覗き込んでそう笑ったあと、波奈は店員に呼ばれてレジに向かう。

 呆気に取られている間に、会計を済ませてしまった。

 ピザ片手に席の方を指差して何か話している。おそらく先に席を取ってくれるんだろう。麻琴ははにかみながら頷いた。


「次のお客さま――」

 今日は本当にやられっぱなしだ。


 波奈は無事ピザを確保できたらしく、ピザを購入してフロアを見渡す麻琴に向かって大きく手を振った。麻琴が控えめに手を振り返すと、満足げに手を下ろす。


「お待たせ」

 マルゲリータピザのセットを机に置いて、席に腰掛けた。机には波奈が注文したらしいペパロニピザも乗っている。いい匂いだ。


「ペパロニって辛いサラミだっけ? 香辛料とか大丈夫なタイプなの?」

「ピリ辛程度なら大好物!」 そう言って一口食べた彼女が、その次の瞬間固まった。瞳をぎゅっと瞑って苦しそうだ。


「ピリ辛程度、じゃなかった?」

 なんとか堪えたあと、一緒に購入したアイスティーで流し込んでいた。全く大丈夫そうではないが本人は、ぜっ、全然平気……と無理やり笑う。


(目がうるうるしているのによく言うよ)。

 何とか取り繕うとする彼女は面白いが、楽しい思い出がこれじゃ辛い思い出になりそうだ。

 

「一ノ瀬さんが嫌じゃなければ、マルゲリータと交換する? 僕は辛いの全然平気だし」

 麻琴はなるべく笑わないように心がけて言ったが、波奈には面白がっていることが伝わってしまったらしい。

 ばつが悪そうにそっぽを向いたあと、お願いしてもいい? と控えめに笑う。その表情に釣られて笑った。


 ペパロニはピリッと香辛料が効いて、食欲をそそる匂いだ。

 麻琴は潔癖症ではないから、誰が既に口をつけていることが気にならなくてよかったと――口をつけている?!

 口をつけている食べ物を交換することを、世の中では「間接キス」と言うらしい。

 間接キス、されどキスという名が付いているのだ。そうだ。このピザは波奈が一度口元に持っていき、その唇に触れて。


「食べないの? あ、雛田くんも実は辛いもの苦手?」

 強がんないでいいのに、なんて目の前の波奈は笑う。その唇はオイルで少し……。

「全然大丈夫、むしろ得意なぐらいだし……」

 ヒーローが何を考えてるんだ!

 麻琴は口を大きく開けてピザを押し込んだ。口内が耐えられる量以上のものを入れて、ほとんど噛むことなく飲みこむ。間一髪吐くことはなかったが、危ないところだった。


「あはは。全然、大丈夫じゃなさそう」

 目の前の波奈は、面白そうにからから笑っていた。ツボに入ったようで、なかなか笑い止むことがない。

「そんな笑うことかな……」

「面白いよ、いいキャラしてる」

 少し涙目になりながら、顔を綻ばせる彼女。まあ、変な雰囲気にならなくて良かった、うん。

 麻琴はほんの数分前に生まれた邪な感情を、隅へと追いやったのだった。


 昼食後、麻琴はあっちに行きたい、こっちに行きたいという波奈の要望に従って、案内役を勤めた。アトラクションが終わるたびに、どこ行く? 何しようか? と二人で話す。

 その様子は何だかとても自然で、まるでいつもこうやって遊びに行っているみたいだった。


「こんなにはしゃいだの、久しぶり!」

 閉園前、館内にはノスタルジーを感じさせる音楽が絶え間なく流れている。自分の世界に引き摺り込むように、それ以外の音を塗りつぶして。


 彼女は名残惜しそうに、少しゆっくりとした歩調で出入り口へ進む。

「一ノ瀬さん、学校では凛としているもんね」

「うーん、それは違うよ」

 彼女は翳りのある笑みを見せる。


「わたし、怖いの。みんなに―――、枠から出るのが怖い」

 遊園地の音楽は、独り言のように落とされるその言葉をあっけなくかき消していく。 

「そこから出ちゃ――――ないかっていう行動をする詩織が、それで―――――あることに嫉妬――――――詩織だけは枠から出―――――も見捨てないよね? って依存してる。それじゃダメなのに」

 言葉は発せられると同時に上塗りされていって、何か重要そうなものまで落ちていく。


「ごめん、ちょっとうまく聞き取れなくて」

 スピーカーの音はなぜこんなにうるさいんだろう。

「わたしが言いたいのは、今日来て良かったってこと!」

 スピーカーがかき消せないほど大きな声で、波奈は嬉しそうに言った。

 その笑みに、聞き返すのは野暮だと悟った。麻琴は微笑む、曖昧に。


「降りよっか」

 乗り換え駅の一つ前で、彼女はそう言って麻琴の手を取った。

「え、いや。まだ……」

 静止を振り切って、力強く手を引っ張る。彼女の躊躇いがないその動きに、思わず電車の外に出てしまった。


「乗り換え駅はあと一つ後だよ……僕らそこでいつも解散してるじゃないか」

 がらんとして寒々しい構内で、呆れたように麻琴は言った。麻琴たちはいつも一つ後のターミナル駅でそれぞれ別の線に乗り換えていた。いくら方向音痴だからと言って、そこまで分からないほどじゃなかったはずだ。


「知ってる」

「なら、なんで」

「少し歩きたいなって思って」

 彼女は悪びれもなく、そう言った。


「じゃあ、仕方ないか」


 波奈が足を踏み締める音が聞こえるほど、麻琴たちは静寂を保っていた。

 彼女は少し前を一定のペースで歩く。麻琴はその背中に黙ってついて歩く。波奈が歩きたいと言ったのに、彼女は何も話さない。


 あたりは時折電車が通り過ぎていき、全ての音をかき消していく。その轟音は、この奇妙な時間が現実なものであることを示していた。

「ここで行き止まりなんだ」

 線路沿いを道なりに歩いてきたが、その先は駐輪場になっていた。振り返った波奈に麻琴は踏切を指差す。

「あっち」


 踏切を超えてまた線路沿いを歩けば、いつものターミナル駅まで徒歩五分といったところだった。駅の喧騒が、あともう少し歩けば待っている。

 一方、踏切の奥には住宅街が広がっていた。背後に佇む山々は、宵のうちらしく、どこか寒々しい雰囲気を纏っている。


「ね」と波奈。

「ん?」

「楽しかった?」

「うん」

「わたしも」

 踏切がリズミカルに音を鳴らし、立ち入り禁止を示すバーが降りていく。


「……今日は、ありがとう。一緒に来てくれて」

 バーが完全に降り、電車が通り過ぎていく。まっすぐに自分を見つめる瞳の中にある、沈みそうな夕陽に魅入られていた。


 轟音はものの数秒で止み、あたりは先ほどの静寂を取り戻す。麻琴は気恥ずかしくなって、進行方向に目をやった。その先には――。


 前腕ほどの大きさのダガーナイフ、毛むくじゃらの頭、相反するようにきちっと着付けられたスーツ。西日はその凶暴性を示すように、奴の身体を赤く染め上げる。


「――怪人」

 狼の怪人は何か話しながら、可笑そうにこちらを振り向く。その背後には、いつも通り戦闘能力が低そうな装備で、ひつじの怪人も立っていた。

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