十八章




 金城クムソンであてがわれた下女二人は金蛙クムワと咲歌が城上に出御すると知ってかなり心配らしく何度も思いとどまるよう言ってきた。しかし一度主が決めたことには逆らえない。

「今日は七泉の使者が参りますのに」

「きっと、だからでしょうね」

 忍娜イナの呟きに昭娥ソアが頬に手を当て眉を下げる。「もう、あの方は。へんに子どもっぽいのだから」

「どういうこと?」


 咲歌はといえばそんな二人に白一色の衣を着付けられていた。形もあまり見ない。脇の下で締める裳裙もくんは足を完全に覆うくらい長いのに対して戸惑うほど丈の短い衫衣うわぎを合わせる。曲領まるえりの結び目の紐は長く垂らし、さらに銀の小さな刀を吊るした。昭娥が満足気に頷く。


「お可愛らしい。よくお似合いです」

「どうして染めないの?」

 泉国で糸や布を染めないことはほぼない。衰衣もふくくらいだ。忍娜が答えた。

「鱗人にとって水は命です。泉人が息をしなければ生きられないのと同じく、こまめに肌に触れなくてはならないもの。ですのであえて水を汚すような慣習は発展せず暮らしてきたのです。染物は水をたくさん使いますから」

「そっか……」

 たしかに水中で生活するなら濁ったところに住みたくはない。

「それに、白は私たちにとっては恵みの日陽たいようの色です」

「陽の色は赤じゃないかな」

「水を通して見た光は白く見えるものなのです」

「ああ――言われてみれば」

 昭娥が帷帽ぼうしを差し出した。

「たしかに平服ふだんぎは白ですが、縁日のおめかしや式典の日はとびきり豪華なものを着ますわ」

「式典?」

「泉国と同様、夏至や冬至やお正月、祖霊祭などの特別な日です。特に大切なのは請雨せいうの三日間ですね」

 咲歌はたじろいだ。

「当主も巫房ムーバンも目がえるような真っ青な装いでとても美しいのですよ」

「ね、ねえそれって……」


 言いかけたとき扉の外から声がした。金蛙だ。にこやかに現れた彼女もまた同じように白い衣、肌のすぐ上に身に着けた綃紗しょうさまで純銀だった。


「殿下、そろそろどうでしょう」

「ああ、わたしが、その」

 寝坊した咲歌のせいで予定が大幅に狂ってしまったのだ。

「問題ございません。のんびりと参りましょうね」

 金蛙も外に行くのが嬉しいのか昨晩よりどこかうきうきとしている。しかし大門いりぐちまでを共に歩みながら「言うのが遅れましたが」と振り返った。

「殿下に狼藉を働いた者たちを牢から出しました」

「え……」

「申し訳ありません。私には一存で拘禁する力も裁く権限もないのです。納得はしておりませんが、要請があり仕方なく。せいぜい短い間に罰を与えるのが精一杯でした。もちろん次はないとよく言い含めましてございます」

「わたしを……襲ったひとも……?」

「もう二度と殿下に近づかぬよう教育いたしました。今頃は私の父にも仕置きをされているでしょう。あと、配汀に潜入していた他の者たちは」

 言って前方を見る。外へと続く堂庁ひろまの前に数人が座り込み頭を垂れていた。見覚えがある。


朿菱ククルン……」

 女は顔を俯けたまま唇を突き出している。目の端が赤い。

「……県主さまに許されざる暴挙をはたらきましたこと、誠にお詫びのしようもございません」

「あの……」

「咲歌、ごめんね」

 立ち上がって駆けてきたのは小童だ。彼が抱えているものを見て声を上げた。

「狸狸‼」

 獣は主をみとめてクワッ、とひと鳴きする。

「あなたが世話してくれたの、睦烋モクヒョ

 申し訳なさそうに頷く。「本当は、咲歌を安全に連れてきてしばらくいてもらう、ただそれだけのつもりだったの。それがこんなことになっちゃって……」

「淳佐は?一緒じゃないの?」

「殿下の護衛はまだ牢におります。本日お越しになる泉宮からの使者に引き渡します」

 驚いて金蛙を見上げた。

「どうして」

「城破りを試みたのです。もともとの非はこの者たちにあるといえ、仮にもいち領地の城を攻撃したことは看過できませんでした」

「わたしが捕まってると誤解したんです、たぶん。お願い、淳佐に会わせてください」

「悪いようにはしておりません。ですが今日は無理です。殿下は私と城上に行ってくださるのではないのですか?」

 がっかりしたふうに言われ困惑する。金蛙は大丈夫です、と手を取った。

「殿下のことはきちんと伝えます。とにかく参りましょう。実を言うと私、使者と鉢合わせしたくないのです」

「あのう、姉上」

 狸狸を抱き上げておずおずと問うてきた末弟に頷いた。

「モク、帰るまでその仔のお世話を任せます」

「承知しました。えっと、星湖ソンホと会っても?」

「お前が馬鹿なことにもう関わらないと約束できるなら」

 聞いて章純チャンスンのほうは首を縮める。冷ややかに見下ろした金蛙はなじる。

「中途半端な志で荒事を起こすものではありません。お前たちは類離ユリの大きな言葉に乗せられているだけです。目を覚ましなさい」

 睦烋は抗弁した。

「姉上、ぼくらのすることは決して馬鹿なことではありません。たしかにやり方はまずかったかもしれないけど、でもこのまま一族が苦しい思いをするのを見ているだけは嫌なんだ」

「私たちには、もっと自由があって良いはずです」

 朿菱も気の強い顔を上げる。「金蛙さまが関わらない、いいえ、そのお立場ゆえに関われないのは致し方ありませんが、今の仰りようはあまりに他人事にすぎます。類離ユリ湌加チャンガはたしかにやることが雑だとは私も思います、けれど多少強引にでも考えを表明し七泉に声を上げなければずっとこのままです」

「そのために卑劣な手でもって不幸を増やすというの。自らの幸福のために」

「私たちはずっと奪われてきたではありませんか!不幸を味わってきたのは私たちです!」

「復讐は憎しみしかもたらさない。弼悼ピルド、あなたもそれが正しいと?」

 水を向けられわずかに目を泳がせた。

「俺は……」

「もっと己を大事になさい。刹那せつなに身を投じひとときの快楽を求めるのは愚か者のすることです。自身の価値を低めるのはおやめなさい」

「俺は、ただなにか力になってやれればいいと」

「相変わらず死にたがりね」

 それで黙ってしまった。

「ともかくお前たちは過分な処置で赦された。ならば私はもう何も言えない。この件は終わりです。しかし私の守る金城にはれません。モク、答えは?」

「…………分かり、ました。加わるのはもうやめます……」

 渋々睦烋は頷き、寂しげに兄たちを見た。章純は明らかに不満げでぼそりと呟く。

「大事になったのは別に俺たちのせいじゃないのに」

「聞こえていますよ、スン。きっかけはお前たちです。まだ罪の自覚がないの?」

 さらにもごもごと何かを口の中で呟いたが結局は姉に頭を垂れた。


 金蛙は彼らに去るよう命じ、咲歌はもちろん何も言えないまま、悄然と出て行く者たちを見送る。ふと、弼悼が立ち止まりずんずん戻ってきた。

「お姫さん」

「な、なに?」

「…………悪かった。だまして連れてきて。あと淳佐のこと、あんまり怒らないでやってくれ。あんたをすごく心配してた。当たり前だが」

 ぱちくりとした咲歌にはもう目を合わせず、もう一度金蛙に会釈えしゃくして走り去ってしまった。

「あの子たちは本当は優しい心根の者たちなのです」

 先ほどの厳しさを消し、金蛙はひどく辛そうに言った。

「優しすぎて、仲間が傷つくのを見ていられず短慮を起こしたのでしょう。殿下、赦して欲しいとは口が裂けても言えませんが、今の謝罪は本心からだと思いますわ」

「……はい。疑っていません。朿菱も冷たかったけど薬をくれたりしたんです。本当に悪い人ならそんなことしない。それにやっぱりわたしのせいで誰かが死んじゃうのは嫌。たとえ誘拐犯でも」

 それから別のことに首を傾けた。「あの弼悼というひとは肌が白くなかったですね。鱗人にしては珍しい」

 それに綃紗も着ていなかった。金蛙は、ええ、と頷いたがくわしく語らず、ひんやりとした手で咲歌の背を押した。



 大門では同じく白い長衣を纏った男が二人を待っていた。助け出された時に運んでくれた彼だ。

怒廉ノヨム、私の三番目の弟です。護衛として連れて行きます」

 怒廉は咲歌と視線を合わせることなく無言で跪礼きれいした。いわおのような筋骨隆々の長身で腰には双刀を提げていた。太い指をくわえて鳴らす。やがて、にじむ群青の向こうから黒い影が近づいてきた。


 咲歌はここへ運ばれる間気を失っていたから見るのは初めてだ。


 全体的にまろいかたちの、つぶらで優しげな眼をしたおよぐもの。大きさに気圧けおされて思わず半歩引いた。うろこや足は無い。体毛もほぼなく、灰味ですべすべとしている。前肢はひれ、後肢がわりに尾の先が二股に分かれている。狸狸を縦に引き伸ばしてくちばしを除き輪郭を丸くしたみたいだ、としげしげと眺めた。


「これは……なんという獣ですか?」

海牛かいぎゅうです」

「海?」


 泉帝の諡号おくりなに使う神聖字を獣に付けていることに驚く。


「游ぐ姿が人に似るので人魚じんぎょとも。こちらのほうが親しまれているかもしれません。私たちは単に騎獣うまと呼びます」

くら手綱たづなもないけど……」

「私と一緒に乗りましょう。その前にこれをお召し下さい」

 差し出されたのはほんのり黄色いなにかだ。

「これは?」

沙棠さとうの実ですわ。これを食べるとしばらくのあいだ水の中で呼吸ができます」

「すごい」

 味はなんとも形容しがたい。というか甘みも苦みも何もなかった。咀嚼そしゃくすると粘ついて飲み込むのが大変だ。

「味のないお餅みたい」

 さらに金蛙はまるで空を切って踊るような仕草でほとんど目に見えない綃紗を咲歌に着せた。ついに大門から一段下がった波止場のような露台に降りる。


 頬に当たるのは間違いなく水の感触。呼吸出来るのが不可思議な感覚だ。加えて視界がはっきりとして地上にいるときとなんら変わらない。

 自分の息が大量の泡粒になって上昇する。頭上から射す光の帯に腹を反射させ行き来する小魚の群れのきらめき、揺れる藻、微かに耳に沈む地鳴りのような水流の音、まるで夢の世界だ。振り返り改めて金城を見るととてつもなく巨大なのが分かる。誰かが干した白い長い領巾かたかけが連なりたなびいている。底は暗くて見えず、障害物もなかった。集った人魚たちは咲歌たちのまわりをゆったりと旋回する。


 体を浮かせないよう気をつけながら跨る咲歌を金蛙が後ろから抱きかかえた。

「掴まるところがありませんが、脚でしっかりと腹をお挟みになってくださいね」

「痛がらないですか?」

「殿下は獣がお好きなのですね。大丈夫です。あぶらをたっぷり蓄えておりますから私たちが乗ったところで痛くもかゆくもございません」

 ほよん、と一頭が鼻面を押しつけてきた。

「人魚は気性が穏和でとても人懐こいのです。きっと殿下のことが珍しいのでしょう。お嫌でなければ撫でてやってくださいまし」

 海獣はかない。まぐまぐと口を動かして甘えるようにしたのがなんとも言えず愛嬌があり、咲歌はすぐ気に入った。

「かわいい。何を食べるの?」

「おもに水草や苔ですね。城のかわらについたのもこれらが食べてくれます」


 優美な外見だが力強く水を掻き体躯全体をうねらせて上昇するので言われた通り脚に力を入れていないと振り落とされそうで怖かった。一人で乗ることはないだろうが操れと言われたら馴れるまで時間がかかるだろう。


 人魚はずんずん上を目指し、伴って陽の光が増してきた。

 水面みなもを内側から明瞭に見上げたのは初めてだ。浅くなった水色に白い網模様がひっきりなしに揺れて目に眩しい。忍娜が言った通り、陽光は白く発散していたが加減によって黄や薄紅など多彩に輝いている。


「化かされたみたい……」

 呟いた泡を手で捕らえようとするも、儚くすり抜けてゆく。

「…………殿下?どうされました?」

 気がつけば泣いていた。涙はもちろん水に紛れて分からなかったが啜り上げた声で金蛙にばれてしまった。

「すごく、――きれい」

 ただただ、そうとしか言い表せないのが悔しいほどだ。

「いつも見ていた水の中がこんなに美しいなんて」

 金蛙もまた微笑む。重みがないため動くたびに前髪が持ち上がり絶世の美貌があらわになる。

「どうぞ前をお向きになって。……七泉の水はよどみなく澄んだ命水。我々鱗族は泉人よりもその恵みに浴しております。泉主には並々ならぬほどの大恩がありますれば、感謝の証として月明珠を捧げるという盟約が交わされました。それから六百年ばかり。なんとかやってきたのですが……」

 彼女の言は尻すぼみになり、憂鬱そうに数拍黙したが笑い直した。

「双方とも、殿下のようなわだかまりのないお方が一人でも増えればこれからも安泰です」

「金蛙さまもとっても優しいです」

「私はふつうのことをしているだけですわ。それにヒャン姉上からの文であなたさまのことはよく耳にしておりました。話どおり殿下は可憐で純粋無垢な姫君でした。こんなことになってしまい、もしかしたら鱗族のことをお嫌いになってしまったのではないかと心配なのです」

「そんなこと思わない」


 たとえ無理やり連れて来られたとしても鱗族すべての者が悪人だとは思わなかった。それにこの先ずっと閑古鳥の鳴く鳴州で一生を過ごす予定で、香円が願った暮州へのおとないは叶わないだろうとさみしかったから結果として良かったのだ。


「わたし、宮での香円しか知らないからあのひとがここではどんなふうに生きてきたのか、鱗人がどんな暮らしをしてるのか知りたい」

 背後で小さく、ありがとう、と呟きが聞こえた。

「今日半日、私の我儘に付き合って下さり本当に感謝いたします、殿下」

「咲歌でいいです。その呼び方は堅苦しくって。それに身分がバレちゃう」

「そうですね、では――咲歌さま。もうすぐ着きますわ。眩しいようなら目をおつむりになってくださいましね」


 七泉の泉がいかに深く広いといえど鱗族五十万がすべて水の中に住めるほどには及ばない。于衆郡内の居住地は金城のある苔洹泉を中心に四方に点在する。そのひとつ、南郷は賠粉ばいふんの舟着き場に到着し、降り立つと同時に蹈鞴たたらを踏んだ咲歌は背後に立っていた怒廉にぶつかった。

 魁梧かいごたる体躯は微動だにせず、白い髪の合間からじっ、と覗き込まれ思わず小さく悲鳴をあげて金蛙にすがりつく。

「大事ありませんか?」

「あ、脚が、変な感じ」

 ふにゃふにゃとしていておぼつかない。舟に乗った時とはまた異なる違和感にぴったりな言葉を探せない。

「お酔いになりましたか?」

「いいえ、人魚は大丈夫みたいです」

 舟とは比べ物にならないほど激しい揺れだったもののなぜか平気だった。降りた後、何度か尾を波立たせて近くを漂っていた人魚たちはすでに潜ってしまっていた。金蛙は帷帽ぼうしを被り咲歌にも促す。


 あらためて周囲を見渡した。

都水とすい官はいないのですか?」

 舟着き場というものはたいてい都水台の管轄下で舟の発着が管理されるものだ。

「ここは鱗族専用です。泉民の舟は来ません。それに舟だけでなく騎獣うまも寄せますので楫櫂しゅうかい官の手が及ばないため鱗人に任されているのです」

「じゃあ、棨節てがたは要らないということ?」

「陸路は必要ですが居住地内は泉川づたいであればそうですね。見過ごされている裏技というか」


 金蛙に手を取られ桟橋を渡り、小高くなった土手を登る。昼下がりのためか、すれ違う人はまばらだ。


むらに入るのに検閲や制限はないのですか?」

「泉民にはありません。私どもはあります。市で物を売るのも特別な允許いんきょが必要です」

「大変なんだ……」

「そうでもありませんわ。鱗人どうしで互助が充実しておりますし、おおよその暮らしぶりは水以外のことはほぼ変わりないのです。ただ、隣接する泉民の郷里との間で長年いざこざが絶えない点は昔から頭の痛い問題ではありますが」

「いざこざ?」

「例えば、鱗族の真骨チンゴル、いわゆる貴族層や富裕な者は泉の中に家を持ちますが、その水は泉民も生活用水として使用するわけです。咲歌さまもご覧じたように、水城スソンの内部は水とはへだてるもので水中で暮らしていても直接水を汚すわけではないのですが、それでもあらぬ風評で訴えを起こされることもしばしばですね。汚物を垂れ流しているとか」

「そんなことが」

環泉かわの流れや浄水は都水台が管理しておりそんなことはありえないのですが、人が中に住んでいるのと同じ水を使うと思ってしまうとやはり気持ちが悪いのでしょう」

 まるで考えたことがなかった話に咲歌は目を丸くし、ただ相槌をうつしかなかった。

「私共はその分泉民よりも高い賦税ふぜいを払い、月明珠も納めています。もともとの泉民の土地に間借りしているという認識を忘れたわけではなく、感謝もしておりますし申し訳ないという気持ちもあります。……ですが、それを抜きにしてもしいたげられるいわれはありません」

「虐げ……」

「咲歌さま、申し訳ありません。あなたを南郷に連れて来たのはそれもありました」




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