十七章



ってえ……」

 不覚。俺としたことが。後ろ頭の鈍痛で意識を取り戻した。あの半魚人ども、水の中であんなにすいすい戦えるとは。

「聞いてねえ……」

 極めつけになんだあの熊みたいな男は。思い出して歯噛みした。


 弼悼ピルドたちと苔洹泉に飛び込み、謎の獣の背に乗って潜った。七泉の泉は泉国中で類を見ないほど深いとは知識として備えていたが実際に入ったのは初めてでまさか水中に御殿を建てられるほどとは想像を超えていた。

 東南国八泉のの彼方の奥底には龍宮りゅうぐうという幻城があるという御伽噺おとぎばなしがあるが、実際にあればこんな感じだろう。魚の群れと水泡と藻に彩られた青い宮は大門いりぐちが上から数えて五、六階層あたりにしつらえられていた。その下もまだ石組みは続いていたが光の届かない奥底まで延びていて見渡せなかった。

 睦烋モクヒョに含まされた薬かなにかのおかげで息も続くし視界も明瞭だった。驚くと同時に気味悪く思った。鱗人はこんな水の中で生活できる『人間』なのだ。

 守衛が巡る門前へと近づけばぴりぴりとした警戒を感じた。弼悼たちは正直に自分たちの立場を説明したもののやはり受け入れられず、痺れを切らした淳佐が突破しようとしたのだが、とびきり図体の大きな男が現れて無双しあえなく一本取られたというわけだ。


 しかし寒い、と丸まった。寝藁に転がるとはいつぶりか、自嘲しわらう。否が応でも思い出す……くそったれな昔の記憶を。


 どうやら弼悼たちは別の牢へ連れて行かれたらしい。たぶん自分は泉人だから乾いたほうへ入れられた。腰牌てがたを持っていないため身分のあかしようがない。どうする、と目を閉じる。咲歌はまず間違いなくこの城のどこかにいる。大丈夫なのだろうか。まさか同じように凍える狭いひとやなんかに放り込まれてはいまいな。はらはらした。ただでさえ舟酔いで弱っているだろうに。いくら骨太で並の公主より健康だといってもさすがに体調を崩しているはず。


 早く傍に行きたいと焦がれる心と自分の不甲斐なさに打ちのめされ、苦悶にのたうち回っているとふいに遠くで足音がした。徐々に近づいてくる。息を殺しあえて寝たふりをした。隙を突いて抜け出せるかもしれない。

 長靴ちょうか二人分の打ちつけ、帯剣の金属音。重さをはかってどちらも女だと知る。

 淳佐の入る牢房の前でぴたりと止まった。


「――――董僕射とうぼくやたぬき寝入りなぞしてどうした」


 思いがけない声に弾かれた。慌てて起き直りすぐさま視線を落とす。直視してはならない、淳佐には許されない。


 ――――輝く春辰色はるぼしいろの髪。


「……なぜ貴君がかようなところへ。紐星ちゅうせい琮嶺君そうれいくん……第四公主殿下」

「なぜとは。迎えに来てやったのにその言い草はないだろう?」

 冀翠乙琳きすいおつりんは軍装姿で不敵に笑い手を腰に当てた。

「咲歌が拉致されたと聞いておそらく貴様も一緒だろうと思ったよ。しかしまあ、見事に滑稽だな。かつての同輩としてなにか言ってやっては?」

 背後に語りかけ、付き添う者が誰かを悟り淳佐は渋い顔を隠せなかった。

「そうでございますね。見苦しいことこの上ない」


 相変わらず小癪こしゃくな女だ、と目顔でけなす。そちらは明らかに馬鹿めとさげすんでいた。


「なんにせよ涼女騎、これで咲歌に会えるぞ」

「骨が折れました。水の中をあのように移動するのは疲れます」

 涼永は獄卒を呼び肩を竦める。乙琳は愉快そうに笑った。「出てきて正解だったよ。予想通り少しは手間が省けた。さあ、それでだ咲歌の僕射。貴様が空回りしている間に状況はすこぶる速く動いている。そんなところで不貞腐ふてくされていないで務めを果たす時だよ」

「いったい、どういうことです」

 先に行け、と涼永を促し、乙琳はよろめいて出てきた淳佐に腕を貸そうとした。固辞し、なんとか足を踏みしめる。

「聞いたかもしれないが、黎泉が泉根女子の昇黎を容認した」

「まことだったのですか」

「ああ。信じられないことに。それで宮は現在、私の勢力と案珠あんじゅ醍亜だいあ姉上の陣営に真っ二つに分かれて火花を散らしているというわけだ」

璧嶺君へきれいくん琥嶺君これいくんが落血の儀を?」

「しかし案珠姉上にはくだらず。醍亜姉上が昇黎してもうすぐ二月ふたつきが過ぎる。過ぎれば降らない。ただの目安だがね。私の予想では醍亜姉上は『違う』」

 よって、としたり顔で目を細めた。「残りの妹たちにも王位を請願する機会と義務がある」

「……お待ちください」

「待つものか。末妹といえあの子にも権利はあるのさ」

「姫さまを巻き込むのはおやめ頂きたい!ただでさえこんなことになり落ち着かず、この上さらに重責を負わせるようなことを」

「こんなことになったのはいったい誰のせいだと?」

 冷ややかに遮った。「そもそもは僕射の貴様がきちんと目を光らせていなかったせいだ。青雲士の女官しかり、骨蓉こつようの件しかり、拉致しかり。咲歌を幼い頃から見てきてすべてを把握しているくせ、いまだあの子の勝手をぎょそうともしないで甘やかしているだろうが。貴様の怠慢が遠因でもある。己でも分かっているはず。それに咲歌は巻き込まれるのではない。あの子とてこの七泉国の初代王羨天せんてん直孫じきそん、泉根だ。下僕がどれほど嫌がろうと変えられない。死よりほかに逃れるすべはない」

 すまないがね、と斗篷がいとうひるがえした。

「私は宦官が嫌いなんだ。それでも可愛い妹の為に助けてやったのだよ?ずうずうしく意見されるいわれはない」

「…………何をお考えです」

「本人がここにいるのだからあとは直接話そう。おいでなさい」


 少し見ないあいだに雰囲気が変わった。淳佐は眉を顰めた。第四公主は昔から物静かで特に目立ちはしない公主だった。外見こそ派手だが姉三人のようにぎらついたきらびやかさはない。落ち着いた言動で浮つくこともせず、堅実な人柄に定評があった。

 今は――上手く言えないが、


おごっている)


 つまりは、なんだか以前よりも偉そうだ。

 そう思ったところ、納得できる理由はすぐに分かった。


「姫さまをかどわかした叛逆者どもの拘束は」

「ああ、それについては今回は見送りだ」

 気色ばんだ。「なぜ、どういうことですか。あの者たちはあろうことか泉根に許されざる狼藉を働いたのですよ⁉死をもって償うに値します!」

「こちらの都合でそれは取りやめた」

「分かりません」

「怪我をしたものの咲歌は五体満足で無事だ。今から会える。それで良いだろう?」

「まったく良くありません!」

 乙琳は一度立ち止まり、淳佐の胸ぐらを掴み引き寄せる。低い声で囁いた。

「大事な時期だ。いまは鱗人の血を流したくない。言ったろう、僕射。私は姉二人と争っている。醍亜姉上が継承順位一位であるかぎりは兵も民もこちらにはなびかない。どうしたって不利なのだ。同じほど力を持たねばならない。鱗の勢力まで敵に回したくない」


 泉宮が現在どんな状況にあるのか淳佐は全容を把握していない。早く涼永にでも問い質さねば、と胸中で舌打ちした。


「琮嶺君、よもやすべて貴君の独断ではありませんね?」

「私は泉主名代としてここに来ている」

 まさに独断そのものじゃないか、とはばかりなく睨めば乙琳は鼻で笑い手を離した。

「いかな名代とて、法をげることは許されません。去地での犯罪だとしても定められた罰はすべからく適用されま――」

「語弊があったな。私はもはや泉主に全権を委任されていると言っていい」


 懐から白い石を取り出して掲げた。淳佐は目をみはる。

「…………なんということを」

 それは泉主ただ一人が持つべき、すべての律と則による裁可が効力を持つために必要な一国に唯一のもの。

玉璽ぎょくじ

「そうだ。血璽けつじせやしないがこれがなくばなんの詔命しょうめいも勅語も通らない」

 では、泉主は本当に乙琳に全てを委ねているのだ。


 ようやく淳佐が黙って満足したのかおどけた。

「と、いうわけで宮では決裁を待つ書類が山積みだから悠長にもしておれないのに如何せん二度手間でね。先日一度、金蛙クムワさまとやらにお会いしたのだが、その時はひどく憤慨なされていて話にならなかった。だから日を改めると辞したんだ」

「憤慨、ですか」

「鱗族には七泉主の後継争いにおいて誰がしかの肩を持つことは有り得ぬと一喝されたよ。まあ正論だ。けれど統制などれていないではないかと咲歌の誘拐に絡めてそれとなく揶揄やゆしてやったら逆鱗に触れてしまったわけさ。……平和呆けはどっちだか。あちらも大事に隠されて育った姫だ、状況が分かっていないらしい。私が同じ歳くらいなのも気に入らなかったのかな。女は張り合うから」

「そんなものですか」

「さあ、分からないが」

 連れ立ち不可思議な宮城の中を進む。

「鳴州への道中あの子はどうしていた?元気だったか?」

ふさいでおられましたが、ご体調を崩されるほどではありませんでした。ただ配汀にて襲撃に遭い、長らく舟に乗せられておられましたので心配です」

「そうか……。私と再会して喜んでくれるかな」


 そうして奥まで来たが、前方で先んじたはずの涼永が扉の前で立ち尽くしているのをみとめた。


「どうかしたのか」

 振り返る。明らかに困惑した面持ちでそれが、と向き直った。背の高い彼女に隠れて白い中年女がひとり、膝を折っていた。

 笑みを湛えたまま頭を下げる。

「ようこそおいでくださいました。七泉第四公主殿下。……なれど、申し訳ございません。主は出払っております」

「留守?本日会見を約束したが?」

「あいにくと急用で。まこと礼を失した振る舞い、ご寛恕かんじょ頂きたく存じます」

 まるで思っていない口振りで女は穏やかに謝罪した。

「先日のことで金蛙さまはご気分を害されたままかな?」

「いいえ、殿下。主は殿下が御自おみずから御足労頂いたことを大変しのびなく思ってございました」

 しかし、と眦を細めた。「本日、すでにこちらには挨拶程度の機嫌伺いしか用件はないだろう、とも」

「不遜だぞ」

 涼永が厳しく言ったが動じない。

「東にお行きになったようなら、我々の忠言はもはや蝿の羽音程度に思ってらっしゃるだろうと憂えておられました」

「だからといってすっぽかすとは」

「主は七泉の争事にも、それに首を突っ込もうとする派閥への加担も、どちらも致しません」

 ひたと見つめる黒眼が光った。

「金蛙は我ら鱗族の命綱にございます。危険の多い公の場に易々とお出にはなられません。まして同族でもない泉民の御方々、敵意はないとしてもまったき信を置くはあたわず。そちらのほうこそ、たかだか公主の分際で並びない金蛙に幾度も拝謁はいえつたまわろうなどと無遠慮にもほどがありませんでしょうか」

「たかだか?貴様、泉根を侮辱するのか」

「まあ、待て、涼永」

 乙琳は見下ろした。

「たしかに私は泉根ではあれど女で役立たずさ。つらの皮厚く金蛙さまにびを売ろうとしたのも事実だ。東の城に出向いたのを知っていて止めないということは、金蛙さまはこの国を揺るがす抗争には本当に我関せずを貫くということなのだな?」

「先ほどお伝えした通りにございます」


 それ以上、女はもう何も言わなかった。柔和な無表情で床を見つめている。さっさと帰れと言外ににおわせる態度に三人はそれ以上の問答は無駄だと悟った。


「お会いできないことは分かった。それはともかく、今日は我が妹の顔が見たいと思って参ったのだが、どこにいるのだろうか」

「県主も今はお出かけしておりますればお通しすることはできません」

 は、と今度こそぽかんとした乙琳に下女は微笑む。

「お帰りあそばされましたらお伝え致します」

「待ってくれ。いったいどこに」

「城の散策をなされるそうです。詳しい行き先はわたくしめもお聞きしておりません」

「……誰か護衛は付けているのだろうな。鱗人ばかりか?よもや連れ出して暗殺など……」

「ご同伴なされているのは金蛙ですゆえ、ご心配は無用にございます。県主の命を狙う道理もございませんわ」


 おいおい。淳佐は顔を歪める。いくら鱗族に同情的だからといって元来咲歌はそこまで軽々ではない。自分を拐って無理やり連れて来た相手――金蛙本人たちではないが仮にも仲間だ――を無心に信じるはずがない。めまぐるしく身に関わる事件が起きて混乱しているはずなのにいったい何を考えている。危険すぎる、と焦りで蟀谷こめかみから汗が流れた。本当に自ら外出したのか、しかも得体の知れない金蛙なんかと連れ立つなんて、なぜそんなことを。


 これにはさしもの乙琳も額を押さえた。

「……この状況で観光とはわりと理解に苦しむが、咲歌が元気になったことだけは了解したよ。私たちは内密に宿を取っている。二人が帰ったら使者を寄越してくれ」

「もちろん、すぐにお知らせ致します」


 それで踵を返した。





「なんですか、あの下女は。泉宮であのような口をきけば即刻罷免クビです!」

 規律と道義に生きてきた涼永は金蛙が会おうとしなかったことよりも下女の態度に立腹した。

「殿下はお怒りにならないのですか!」

「あなたがそれほど言ってくれるならもういいかな。それより今後のことだ……」

 乙琳は思案して毛先をいじる。後ろに続きながら、淳佐はぺたりと肩に乗った重みに一瞬動きを止めた。


 ――――三青サムチョン


 蛙黽かえるは小さく、ケコ、と鳴いて紙片を吐き出す。それをすぐ握り込むと三青は跳んで離れた。先を行く二人は気がついていない。

 再び歩き出しつつ、何気ないふうを装い手許に目を落とす。


『苔洹南の鱗邑りんゆうに滞在中』


 誰が、は聞くまでもない。大門に辿り着いて淳佐は急ぎそれを口に含んだ。


「僕射、服を脱がねばならないから先に上がれ」

「…………御意」

「どうした?」

 涼永が怪訝に眉を寄せた。

「何をにやけているんだ、お前は」




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