八章



 決が下った。事件からひと月半あまり、夏至の前日、請雨せいうの儀の最終日だった。


 香円が死んだのに誰が女丑じょちゅうを務めたのだろう、と狸狸を抱きかかえたままぼうっとして、花窓まどから雨滴を滑らせる緑を眺めていたところ、走廊ろうかの向こうから二人して歩んでくる下僕しもべをみとめた。


「…………なにかあったの?」


 近づくにつれ顔が強ばっているのが分かり、動揺して腕の力を入れてしまう。キュル、と小獣が鳴いた。

 淳佐と膝をつき、涼永が目を伏せた。

「姫さま。お下知がありました」

 ついにか、と居住まいを正す。

「どう…なるの」

「姫さまがほうぜられることは変わりなく。ただ……来月中の下城を、と。そして鳴州におゆきあそばされた後には、一生涯、泉宮へ参内すること許さじ、と……」

 心の臓がぎゅっ、と縮んだ気がした。

「もう、大母上さまや姉さまたちには会えないってこと……?」

「姫さま。大変遺憾ではありますが、これはすべて姉公主さま方が泉主にお口添えくださったおかげ、これでも過分に寛大なご処置です。左降さこうといえ鳴州の宮には住むことを許されました」

「でも、わたしは公主ではなくなるの?」

「王姓と徽号きごうは返上とのこと。これからは県主けんしゅほう県主におなりです。改姓は湶后せんごう陛下が泉主に請願してくださり、随行の人員も予定通りです」

 広げられた書状から顔をそむけ咲歌はただ淳佐の手を握りしめる。「分かった…………」


 韋翼いよく県主。とても短くなったそれが新たな自分の名だった。


 涼永はようやく励ます。

「後宮の暴室にお閉じ込めになられるよりはよほど良い待遇です。鳴州は風光明媚で穏やかな地、きっと殿下もお気に召します」

「とっても田舎だと聞いてるけど……」

「とはいえど国随一の鑚石さんせきの産地でもあります。州都は栄えておりますよ」

 そんなことより、と不安げに二人を交互に見た。

「おまえたちは、一緒に来てくれるよね?」

 淳佐は即座に頷いたが、涼永は寂しげにした。

「うそ。来られないの?」

「大変申し訳ございません、姫さま。涼永の随伴は許されませんでした…………」

「い、嫌」

 衣を引く咲歌に眉根を下げたが、凛としたまま首を振る。

「いいえ、これは逆に良いことです。淳佐が姫さまと鳴州へ、そして私は引き続き泉宮でお仕えし今後も時報を交わしてまいります。さすれば姫さまもこちらの近況を伝え聞くことができ、遠い鳴州におわしても孤独にさいなまれることはありません」

 そんなもの、疎外感が増すだけで余計に寂しくなるではないか、と狸狸に口を埋める。

「行かなきゃいけないのは分かってる……でもやっぱり、行きたくないよ……」

「姫さま。俺がいます。大丈夫」

 こたえなかった。宮で過ごした豊かな日々、様々な催しや祭事、流行の宝飾品や珍しい料理。優しい義母や義姉たちに囲まれ、何不自由不安なく生きてきた。一切合切を取り上げられ勝手も分からない土地へと流され、忘れられる。

「みんなにお別れのご挨拶は……?」

「顔を合わせるのは無理です。文ならば俺たちが届けます」

 それで本当に自分は放り出されてしまうのだと号泣した。


 夏至祭に出ることも許されず自宮の小祠ほこらに進香するだけにとどまり、すでに身の回りのものを片付けていたので特に慌ただしくもなく退去の準備は整った。もちろん咲歌自身は何もしなくてよく、ただ残りの日々を憂鬱に過ごした。馴染みの女官たちは皆慰めてくれたが香円ほど気安くはなくべったりと甘えることもできず、ほぼ毎夜眠るまで淳佐を傍にはべらせた。





 一月後未明、ひっそりと、王族には誰にも見送られることなく出発した。侍官は姉たちから下賜された者と今まで宜漣宮に仕えていた中から十人あまり、粛々と宮門を出る。咲歌は陽の昇りきらない薄闇の下振り返った。

 生まれてからこれまでずっと住んでいた家。居心地良く包まれ育った宮。実母とは疎遠だったが代わりに周囲は惜しみなく愛をくれた。満たされた生活だった。


 用意されたのは今まで乗ったこともないほど小さな軒車くるま。みすぼらしくはないが一人乗るのが精一杯で窮屈で、途端に惨めになる心を無視して前を向く。


「姫さま。どうか末永くご健勝であらせられますようお祈り申し上げます」


 門前に立った涼永が拝礼した。宮に残ることになった他の侍女や下官も一斉に頭を垂れる。

「殿下にご多幸あらんことを」

「旅の安全を」

 ありがとう、とやっとのことで呟いた。泣いてしまいそうだった。


 列はゆっくりと進みだす。我慢できずに窗戸まどから顔を突き出して後方を見た。

 松明たいまつが焚かれていてもまだ暗く、女騎の表情は分からない。


「涼永!――――いつか、いつか、わたしに会いに来て!」


 叫んだ。たった二年のつき合いだったが、それでも彼女の存在は大きかった。

 棒立ちの影はゆっくりと頭を下げるのみ。


「姫さま、危ないです。中に入って」

 馬を並べた淳佐に咎められ、ついに後ろをふりきる。

 濃藍の空は光を滲ませている。すでに蒸した夏の熱気がとろりと頬を撫でた。

 もう二度と戻ることはない。宮城の全てを忘れないように、屋根の輪郭が朝焼けに照らし出されるまで眺め続けていた。







 頭が重い。案珠あんじゅは額を押さえた。


「ねえ、もっと静かに運んで頂戴。揺れで吐きそうだわ」


 輿こし持ちに命じ、深い溜息をついた。夏至祭にはとてもではないが出られなかった。これほど惨めで悲しい経験は未だかつてなく、喪失はあまりに大きい。切ない思いで腹を包む。情けない、という忸怩じくじたる暗澹とした気持ちと共に申し訳なさが去来する。生まれるはずだった子に申し訳ない、ちちに申し訳ない、民に、国になんという失望を味わわせてしまったのか。

 己を責め、苦痛を与えた叛逆者を怨んだ。獄中死して幸いだったかもしれない。顔を見たら唾を吐きかけ呪わずにはいられなかったから。


 子を失うと同時に女としての特権まで失った。自分はもう、王太女を名乗る資格はないと思い始めていた。国に尽くせないことが確定したのだから当然だ。

 泉主も同じように考えたのか、夏至から数日経った今日、招引があった。事件の日、打毬の競技場で拝謁して以来だ。

 王はよほどのことがないかぎり公主むすめを呼び立てたりしない。昔からそう、ひたすら男子を切望し、周囲にも熱願されていて、はずれくじの公主には毛ほどの興味もない。

 であるのに使者が来た。用件は知らされずの呼び出しとなれば、覚悟しておくべきだと心構えしていた。


 輿を降り巨大な宮のなかへと進み、豪奢で広大な正殿へと辿り着く。設けられた御座に泉主はどっかりと座りいつものように気怠げに頬杖をついている。しかし反対の手は杖を握っておらず、ひざまずき擦り寄ったひとりの女に包まれていた。


 案珠が儀礼通り頭を垂れると泉主は鷹揚に声をかける。顔を上げれば、ゆっくりと頷かれた。

璧嶺君へきれいくん。加減はどうだ?」

「もったいないお言葉です、泉主。ようやくこうして出歩けるようになりましてございます」

 うん、と父はもう一度頷く。それで…、と少し言を濁し、ひげを撫でた。

「そなたも知っておろうが、此度こたびの件で朝廷も内宮も騒がしく落ち着かぬ。もっぱら太子のことでいろいろと言い交わされ、危惧する声を聞く」

 案珠は自嘲気味に微笑む。

「泉主の良きようになさってくださいませ。わたくし自身もすでに責を全うするのは荷が重うございます。それが国の為、未来さきの為にございます」

 泉主は深く息をついた。「左様、そなたにはとみに不運きわまりないと思うておる。嶺宮れいぐうゆうは取り上げぬ。王太女ではなくなるが第一公主として権威は落とさぬよう儂がようく言っておく」

「寛大なるありがたき幸せにございます。……なれば、やはり嫡子の全権は琥嶺君これいくんへ、でございますね?あれは兵たちの信頼も篤く人望がありますれば反対の声もそうそうないかと」

「いいや。璜嶺君こうれいくんに継いでもらうことにする」

 は、と案珠は目を見開いた。

「それは……?」

「泉主は将来のことを熟慮なさり、賢明なご判断の上でそう決められたのです。案珠姉上」

 王の下に座っていた女が立ち上がる。初めて気がついた。

「乙琳……?」

「お久しぶりでございます」

 紗蓋頭おおいを落とした乙琳は恭しく父の手を肘掛けに戻して振り返った。「思ったよりお顔の色が良く安心いたしました」

「王太位を醍亜ではなく、思晟に下すのは、如何様いかような」

「醍亜姉上は泉根公主としての務めをおろそかにし、恥ずべきことに分不相応な想慕にうつつを抜かしております。王太女に封じられるにはいささか役不足でございます」

 強い言葉に案珠は動揺する。「何を言っている。私の次に歳が上なのは醍亜よ。したがって生まれ来る太子はすべからく継承権一位で落血の儀をお受けになる」

「その太子がおいでになるのは一体いつになるのでしょう。案珠姉上、醍亜姉上は嘘をついておりますよ。あの方は駙侯ふこうに不満あり、一度として務めをまっとうしていません」

 うそよ、と愕然とした。

「どうしてそんなこと……」

「醍亜姉上はみさおを立てておられるのです。お可哀想な駙侯方は婚礼の夜、臥床ふしどを共にしたというのに指先ひとつたりとも触れ合いを許されず、それからずっとそのままだと内々にお聞きしました」

「なんですって」

「よって、思晟姉上のほうが王太女に据えるにより相応ふさわしいのではと昧死まいしながら泉主に申し上げました。三女ですが醍亜姉上とはひとつしか歳が違いません。長幼は重んじられるといえ、それくらいならば天も許してくださいます」

 しゃあしゃあとした説明に案珠が反論しようとしたとき、侍官が慌てて制止する声と騒々しく走る音が聞こえ、当の醍亜が息せききって現れた。

「泉主に拝謁をお許し頂きたく」

「……許す」

おそれながら泉主!慣例をげ律を乱せば諸官がますます混乱し、不要ないさかいが生じます!どうか再考のお願いをたてまつりとうございます」

「醍亜姉上。身から出た錆でございます。重大で神聖な責務に選ばれ捧げられた駙侯方をないがしろにしてきたあなたのとがです」

 醍亜は沸騰した激昂を唇を噛みしめることでなんとか抑え、ひくつく眉を寄せた。

「確かに最たる務めに慎重になっていたのは認める。だが軽んじてはおらぬ。王太位を思晟に渡せば規律が乱れる」

「どのみち最も早く生まれた公子が王太子となり次代泉主におなりあそばされ、生母は泉太后に上がるのです。王太位にそこまでこだわりますか?」

「もちろん、その通りだ。だがまだその公子は誰にも生まれていない。安易に例外を作ろうとするな、乙琳。そもそも、なぜお前がこの件に口出しする?」

 せない、と言った姉に頷いた。「そうでしょう。泉主には先ほどお聞き頂いたのですが、姉上さま方にもきちんと説明させて頂きましょう」

 乙琳はゆっくりと階を降り、二人に相対あいたいした。表情は穏やかだか何を考えているのか分からない。

 まず、と長姉を見つめた。「案珠姉上。本来ならばあなたは今頃、天にたれて亡くなっていました」


 空白が満ちた。


「…………え…………?」

「どういうことだ?」

後産あとざんを拝借し姉上の昇黎を行いました」

 姉二人はやはり無言で妹を穴の空くほど見つめた。

「――――は?昇黎?ばかな。公主に昇黎など」

「案珠姉上はご自分で気づいておられないようですが、あなたは御身おんみを溶かしたはずです。泉根の継承者は皆そうなるらしいので」

 溶かした……消えた?いつ。考えて醍亜はやっと思い当たった。案珠が一晩だけ寝床から消えた日があった。

 みるみる青褪め、それから首まで真っ赤に染まる。

「このっ、大馬鹿者‼なんということをしたのか!そもそも許しもなく北壇ほくだんに入るなど言語道断!泉主、乙琳を罰するべきです‼」

二月ふたつき経ちましたが案珠姉上に変調は見られず。ならば、昇黎は成功したと考えて良いと思われます。つまり黎泉はこの七泉国に女王じょおうの統治をお認めになろうとしておられるに違いありません」

「じょ、女王…………?」

 突飛な発言が続きいまだ頭が追いつかない。案珠は忙しなく瞬き続ける。

「しかし、案珠姉上に降勅はせずなんらかの目に見える奇跡も起こりません。ということは王は姉上ではなかった、ということになります」

「ちょっと待ちなさい乙琳。公主の血でも天の忿怒ふんぬに触れなかった、ということは驚きだけれど、それ以前にあなた、――あなた、これは私への謀殺ぼうさつよ⁉なにを平気な顔をして語っているの‼」

「ですが姉上はお隠れあそばされなかった。ゆえに公主に昇黎権が認められたという、このことを発見した功績は多大に評価されるべきです」

「だから罪を見逃せと?出来るわけないでしょう!」

「姉上、よくお考え頂きたい。これは本当にとんでもないことです。私とていまだ興奮冷めやりません。過去、公主に昇黎が認められたことなど一度たりともありません。我が国では太子を差し置き越権行為をはたらこうとしたそのような事例は有史上ありませんが、見つけ出した他国の文献にはありました。当該においてその公主は神罰によりことごとく悲惨な死を遂げています。それら先例の事由と今回、いったい何が違うのか」

「――――最大にして決定的な差異は継承権を持つ泉根男子がここにはいないということだよ」

 入ってきたのは眉蘼。泉主に跪拝きはいし、許される前に頭を上げた。

「今代のこの状況はいまだかつてない。現泉主以下の卑属系譜において血を継ぐ男子がただのひとりもいないなど、どの時代にもなかったことだ。泉主も南壇なんだんでこの件について確認なさったのでは?」

 案珠と醍亜が見上げれば重々しく頷いた。

玄趾げんしにおいて」

「どういう」

「知らなくとも無理はない。この大泉地の九国きゅうこく全ての王は望めば国を出ずとも互いに意見を交わすことが可能なんだ。天のことわりについてはなんといっても九泉くせんがいっとう詳しいからね。九泉主に諮詢そうだんしてみてはどうかとぼくがお勧めした」

「……中天ちゅうてんは、確かにこれほどの凶事は今までどの国でもなかったことだ、と言った」

 泉主は疲れたのか落窪おちくぼんだ目を閉じた。「しかしことわりも動かぬと。尊属に男子がいたとて既にそれはふるい血。神勅をくのはやはり不可能だろうという見解を得た」

「つまり泉主以外の唯一の王族男子である冀謹ききん大叔父上にはやはり継承は無理だ。なら、このままであれば七泉は泉根を枯らし滅びる」

 それで、とたのしげに眼鏡を押し上げた。「泉根男子が並び立った場合と同じく、泉根女子のみならば昇黎ははたしてどうなるのか。ぼくはそれが気になって気になってどうしようもなくてね。仮説を奉常卿ほうじょうきょうはじめ天式に詳しそうな者に話してみたんだが、どいつもこいつも無知蒙昧の頭でっかちで。埒があかないから琮嶺君に話してみた。という時に丁度よく璧嶺君が毒を盛られて」

「こうして眉蘼の考えは裏付けされた。つまり父上の血を継ぐ私たち七人はすべて昇黎できる。王になれるのです」

 醍亜が立ち尽くしたまま「なんということか」と呟いた。

「し……しかし、そのようなこと誰が信じるのだ。女の王……?正気か……?」

「醍亜姉上。何度も言いますがこれはすでに立証されたことです」

 さらに困惑したまま姉を見れば、案珠は額を覆う。

「……あなたの魂胆は見えたわね、乙琳。あわよくば私を殺そうとしたものの昇黎に成功した今、同じ条件にかなう自分が王になろうと。そういうこと?もしくは思晟を王太女に推戴すいたいした上で実権を握ろうとしているのね?なぜ次女である醍亜ではふさわしくないのかしら」

「醍亜姉上には欠陥がございます」

「先ほどから姉に向かってなんという暴言を吐くの?でたらめもいい加減に」

「案珠姉上はご存知ないでしょうが、醍亜姉上が懸想するはきん州軍の、」

「それ以上言えばこの場で叩き斬るぞ乙琳」

 凄まじい怒りに顔を歪めた醍亜が佩刀を鳴らした。乙琳は、とにかく、と場を見渡す。

「この件はすでに外朝でも噂されはじめております。泉主には正式に朝議にかけて下さるようお願い致しました。私と眉蘼も出席します。どうしても信じられないのなら思晟姉上の昇黎の結果を待たれたらよろしいかと」

 話は終わりです、と手を叩く。泉主の退出の為に輿が入ってきた。

「泉主、お待ちを!乙琳の言を鵜呑みになさいますな!」

 醍亜が拳を振り上げんばかりに訴える。

「不遜きわまりない強引な行動です!そもそも昇黎は朝議で三公九卿さんこうきゅうけいすべての署名と認印が必要なほどの神事!それを勝手に、しかも案珠姉上の殺害を目論んだのです。これは大罪にございます!」

 泉主は濁った瞳で醍亜を見た。

「とはいえ、璧嶺君は死なず生きておるではないか」

「結果に過ぎません」

「結果が全てであろう。女でも泉水みずを継げるのであれば上々。我が国にとってはよろこぶべき吉事だ。琮嶺君とて王太女を殺めようとした罪咎はあると己で判じておる。ゆえに自らの昇黎はしない。今後の憂いとなるならば賜死もいとわぬと誓ってみせた。女だてらに気概があるであろ」

 何にしても、と杖を抱えた。

「おぬしらに一縷の望みがあるのであればもう儂に悔いはない。男胤おとこだねを遺せなかった水涸らしの無能の泉主というそしりも避けられる」

 輿が老齢の王を気遣いゆっくりと去って行くのを一同は見送り、そして醍亜は鬼の形相で振り返った。

「乙琳‼お前、父上になんということを吹き込んだ!」

 そちらは金の階に腰を下ろし傲然と見返す。

「なぜそれほどお怒りなのです?思晟姉上が王太女になったとて降勅しなければ王にはなれません。それは私が介入できはしないこと」

「いいや、私を殺せばそれが可能になる。私だけでなく、思晟や眉蘼や、下の妹たちをも手に掛け、己一人になれば黎泉はどうしたってお前を王にする」

「通常考えればそうでしょう。しかし事は公主の降勅という前代未聞の大霹靂だいへきれきです。何が起こるかまるで未知です。私が泉根女子わたし一人だけになったとしても絶対に王になれるという確信はまるでない。私はそこまで愚蒙ぐもうな自信家のつもりはありませんよ。素直な姉上とは違い乙琳はひねくれておりますれば、後先考えず無鉄砲な真似は出来ない。七泉四百三十万の生命をあだやおろそかにはしません」

 みなまで聞かず、次に醍亜は眉蘼の胸ぐらを掴んだ。

「そもそもお前が一番悪い。乙琳を焚きつけこの混乱を作り出したというのになぜそうも他人事なのだ」

「大真面目に考えた仮説をどう思うかただ意見が聞きたかっただけだ。それに、ぼくも昇黎するつもりはないよ」

「昇黎者の誰にも降勅せなんだらどのみちお前たちもやらねばならぬ!」

 やれやれ、と辟易して呟き、眉蘼はずり下がった眼鏡の奥から鋭く見つめる。

「いいかね、琥嶺君。璧嶺君が雷霆いかずちにも撃たれず、しかし降勅もしておらず、というこの状況がどれほどの奇跡なのか分かっているのかい?何度も言うように、これは泉国の神たる黎泉が女子を継承者と認めたという史上初の出来事なんだ。何千、何万年と続いてきたこの大泉地せかいで、本当に、本当に初めてだ。理由なんて知らないよ。だがね、加えてこれは越位えついなんだよ。初子ういごの継承者を差し置き歳下の泉根が王位を継ぐなんて、死という理由以外では滅多に起こらない。きみは律を遵守し皆の手本となっていて正義漢なところが長所だが、この事態は特例中の特例ですこぶる不虞ふぐ非常だという認識をもっと持つべきだ。琮嶺君はきみではなく璜嶺君を推した。それはそれでいいじゃないか。誰の味方に付こうがそれで王が変わるわけでなし、太子を産んだ者が国母として高められるのもしかり。後者のことに拘っているのなら駙侯たちともっとよろしくやればいい。違うかい?」

 にやついた笑みを睥睨しながら醍亜は粗雑に手を離した。

「私はお前たちのやり方には賛成できぬ。九分九厘案珠姉上の死を想定しながらそれでも踏みとどまらなかった卑しい心根に吐き気がする。たとえお前たちの論説が正しく国を救うことになったとしても感謝などせぬわ」

 醍亜は結果より過程を重視し、そこまでに至った動機を考慮する。未必の故意など許さない。

 案珠は醍亜に同意した。

「こうなった上にいらない波風を立てたくはないわ。順当にいけば醍亜が次期泉主であるのは間違いない事実。あなたたちの考えが変わるのなら思晟にも思い上がりはよしなさいと伝えなさい」

「変わることはありません、案珠姉上」

 どうかしら、と髪を払う。「今からそのように人を見下して駒よろしく扱っていればいずれ心は離れてゆく。それを天が見過ごすはずはない」

 言い置き、長女と次女は連れ立って去っていった。見送っていた眉蘼は衣服を払いながら振り返る。四女は座り込んだまま、顔を片手で覆っている。

「……賜死ししなんて、よくもまあ思ってもいないことが誓えたものだね」

 俯いた肩が揺れるのを眺め腕を組んだ。乙琳は抑えられない笑声をこぼす。

「ふふ……だから言ったろう、眉蘼。醍亜姉上は私が嫌いなのさ、昔からね。こうなるだろうと初めから分かっていたから思晟姉上を立てて先回りしたんだ。――――さて、どうやって死んでもらおうか」

「ま、璧嶺君の言うことはあながち間違いでもないけどね」

「というと?」

王気おうきというものは人には見えないが、はかることは出来るとぼくは考えている」

 人のいなくなった広間をゆったりと歩き、蹲踞みずばちに手を差し入れる。

「それを鏡のように映すのは国民だ」

「民の支持が多い者は王気が増す、と?」

「支持という名の信仰といっても過言はないかな。民はごく自然に王太子が次王位を受け継ぐものと思っている。当然我々とてそうだ。だが今回は混迷をきわめる。泉根が女しかいないし、越位が起きた。民の信仰は崩れ、彼らは傍観者になるか支持者をまつり上げる。ふつうなら次女の琥嶺君がその信奉を集めるだろうね」

「その想いが降勅に影響するとでも?」

「完全に否定は出来ないし、ぼくは有り得ないことなんてこの世にないと思ってる人間だからね。うらみが人を呪うのなら願望が天意を動かしても不思議ではないだろう?」

 乙琳は頬杖をつく。

「天が地につくばう人の意思に左右されるなど信じたくはないな」

「ぼくはその完全無欠であるはずの天をも疑っている。もとはと言えば黎泉による王位の選別が狭量すぎることが全ての悲劇のはじまりだもの。情状酌量の余地なく、ならぬことはどんな理由があろうともならぬ、という姿勢が気に食わないんだ。どうにか間隙を見つけてつつけやしないかとそればかり考える。我々の天とはなんなのだろうね、琮嶺君?」

 姉は、さあ、と興味なさげに呟いた。

「知ったことではないが、人とは間違いなく生簀いけすの小魚なのだろう」

 出ることは決して出来ない神の箱庭。

「しかし網目あみめを大きくしたということはやはり滅ぶのは惜しがってくれているというわけだ」

 なら踊ってやる。

 せいぜい眺めて楽しんでいろ、いずこかで見ている神よ。醒めた心地でそう思い、金の玉座を見上げた。




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