16.爽やかな朝と清算した恋心

 いままでにないくらいの清々しい朝だった。


 すっきりと目を覚ましたレミレルーアは、包帯まみれの片腕を庇いながら起きる。

 同じテントの聖女たちの姿はすでになかった。寝袋もきちんと畳まれている。テントの入り口の布の隙間から差しこんでくる光が眩しかった。どうやら、日が昇ってかなりの時間が経っている。

 昨日の騒動で、レミレルーアも相当疲れていたらしい。


(寝坊してしまったわ)


 とはいえ、焦りはあまりなかった。基地に常駐している医師から絶対安静を言い渡されていたからである。


 昨晩、魔物とやりあって焼けたレミレルーアの腕の容体は、みるみるうちに悪化した。しまいに感覚がなくなり、指先ひとつ動かせなくなってしまったのである。ユティアーヌは魔物とぶつかって高熱を出したが、それの局所バージョンのようなものだ。ユティアーヌが徐々に回復してきているように、レミレルーアの腕もしばらくすれば綺麗に治るだろうという話だった。


 木偶の坊のような腕をどうにかこうにか布で吊って、レミレルーアはテントから這いだす。


 なんだか不穏な雰囲気があたりに漂っていた。


(……あれ?)


 行き交う魔導騎士たちが、聖女が、使用人が、一点をちらりと見て足早に通りすぎていく。彼らの顔に、関わりたくないと書かれているのが見えた気がした。


(まさか……)


 周囲にこんな扱いをされる人を、知っている。というか、ひとりしかいない。


「セレンさま?」


 レミレルーアの予想は当たった。

 誰も寄りつかない広場の簡易ベンチに、セレヴェンスが座っていた。誰も寄りつかない。理由はひと目でわかった。


「セレンさま、まさかそのまま一晩お過ごしになったんですか?」


 恐る恐る近づいたレミレルーアが、声をかける。靴底がねばついた嫌なものを踏んで、びちゃり、と音を立てた。


 セレヴェンスの足元に、真っ黒な水たまりができている。

 澱み溜まりだった。


「ルーア。よく寝たか」

「はい、疲れもすっきりさっぱり……ではなく」


 セレヴェンスがたれ流す澱みはベンチも濡らしていたが、レミレルーアは構わず隣に座った。ちょっと湿った感触がするが、いまだけだ。どうせ浄化したら綺麗になる。


「誰にも浄化を頼まなかったんですか?」


 レミレルーアは周囲を見回した。目が合った聖女たちが、青ざめた顔で次々と首を振る。首振り人形のような有り様だ。頼まれたけど断ったのか、澱みだらけなのが怖くて彼女たちがセレヴェンスを避けたのか、いまいちわからない。


「私の浄化は、おまえがやるんだろう」


 どちらでもなかった。


「たしかに言いましたけど……」

「待っていた」

「そんな、律儀に待たなくても」


 ニュアージュ基地に来て初日の出来事を思いだす。たしかにレミレルーアは、「私がセレンさまの浄化をやります!」と力強く言い切った。しかしそれは、レミレルーア以外からの浄化を受けるなという意味ではない。


 レミレルーアはほろりと苦笑をこぼす。


「やってくれぬのか?」

「……やります」


 一応これでも絶対安静の身なのだが、と思いつつも、レミレルーアは無事な方の手でセレヴェンスの腕に触れた。浄化を施すくらいなら大した負担にはならない。なにしろレミレルーアの聖女としての力はピカイチなのである。セレヴェンスだって、それがわかっていたからレミレルーアを待っていたのだ。


 レミレルーアの手のひらと、セレヴェンスの腕が淡く光をまとう。


 レミレルーアは顔をしかめた。

 澱みの、わずかな抵抗。


(初日にも、こんなことがあったなぁ)


 レミレルーアは目を閉じて、セレヴェンスへと流す力を強めた。

 あのときは、連日の澱みを浄化しないまま溜めこんでいたのが原因だったが、今回は違う。セレヴェンスが溜めた澱みは、すべて昨日、レミレルーアを守ったときに生じたものだ。


 尻を濡らしていた気持ちの悪い感触と、足裏のねばついた感触が徐々に薄くなる。

 じわじわと減っていく澱みをたしかめながら、あと少しで終わる、というときだった。


「ハルバスが落ちこんでいた」

「え?」


 レミレルーアは思わずまぶたを開いた。浄化の力が途切れ、あたりを漂っていた淡い光が霧散する。


「朝食の席で……ほかの騎士に、泣き言を」

「ベルンハルトさまがですか?」


 すっとんきょうな声を上げて、レミレルーアは嘆息した。まさか、昨日のやり取りをばら撒かれてしまうとは。レミレルーアに調査同行を禁じたときといい、ベルンハルトは少々口が軽いところがあるようだ。


  ◇ ◇ ◇


 ベルンハルトを慕っていた、と昨晩のレミレルーアは言った。


「幼い頃からずっと、ベルンハルトさまだけを見ていました。正直、私とベルンハルトさまが両想いなのではないかと考えていた時期もありました。それは認めます」


 耳元でセレヴェンスが喉を鳴らす音が聞こえる。

 レミレルーアと見つめ合ったベルンハルトの顔色が、にわかに明るくなった。


「それじゃ、レミィ」

「でも、ぜんぶ過去のことです」


 頬を染めたベルンハルトの言葉を、レミレルーアはばっさりと切り捨てる。

 喜びの微笑を貼りつけたまま、ベルンハルトが固まった。


「ベルンハルトさまがユティと婚約したときから、私はずっとこの気持ちを忘れようとしていました」


 ユティアーヌとベルンハルトの婚約が決まった日から、レミレルーアはベルンハルトと恋仲になる夢を捨てた。


「私がユティの代理としてベルンハルトさまの聖女を務めるようにと言われたとき、できれば断ろうと考えていたんです。でも、ユティのことがあったので……ユティが復帰する前に、あの子を傷つけたものを取り除きたかったんです」


 ベルンハルトと共に任務に当たるということで、浮ついた気持ちがなかったというと嘘になる。それでも、ひとつだけはっきりと断言できることがあった。


「私が代理聖女を引き受けたのは、ベルンハルトさまと一緒にいたかったからではありません。あくまで妹のためです」


 そう、だからこそ。だからこそ、初日から、ベルンハルトの態度にはずっとずっと違和感を抱いて、尻の座りが悪い心地でいたのだ。


 ベルンハルトは、ユティアーヌのことを考えていなかった。その場にいるレミレルーアのことばかり考えていた。その上、「僕の聖女」などと。あの日のレミレルーアはまだ目が曇っていたので気づくことができなかったが、いまならわかる。


 最初に霧の森に入ったときもそうだった。

 ベルンハルトの気持ちを聞いて、レミレルーアは初めて取り乱したのだ。婚約者がいながら、レミレルーアのことを好きだという。どころか、ユティアーヌと婚約をする前から好きだったという。レミレルーアにも、ユティアーヌにも、あまりにも不誠実な言葉だった。


 好きになるきっかけだった過去の思い出が勘違いだったこととか、霧の森の湖でのベルンハルトの振る舞いに失望したこととか、要因はほかにもあったが、たぶん、それは本質ではない。

 時間はかかったかもしれないが、思い出の真実を知らずとも、湖でベルンハルトの騎士らしからぬ取り乱しぶりを見なくとも、レミレルーアはいずれ気づいていただろう。ベルンハルトに抱いた違和感と、自分の気持ちの変化に。


「奇しくも今回のことで、私の気持ちははっきりしました」


 レミレルーアは、もうベルンハルトのことが好きではない。

 ベルンハルトに好意を向けられても、嬉しくない。


「私がベルンハルトさまの気持ちに応えることはありません。あなたのそれは、婚約者であるユティアーヌに向けるべきものです」


 正直、ベルンハルトの本音を聞いてしまったいまでは、ユティアーヌとの婚約も考え直してほしいとさえ思う。ほかの女を恋い慕っている男が、大事な妹の婚約者だなんて、いい気はしない。


「でも、それは私が決めることではないので……ユティアーヌとお話いただければと、思います」


 少なくとも、ユティアーヌはベルンハルトを慕っている。それはたしかだから。


(ユティは、たぶん気づいていたのね。ベルンハルトさまの気持ちに)


 だからレミレルーアが代理に決まったとき、あんなに焦っていたのだ。


(ユティアーヌには悪いことをしてしまったわ……)


 最初から知っていれば……なんて言い訳がましいことを言うのはあまり気が進まないが、最初から知っていれば、レミレルーアはなにがなんでも代理聖女の任を断った。だって、ユティアーヌも、ベルンハルトも、レミレルーアも、だれひとりとして幸せにならないのはわかり切ったことだ。


「……とにかく、ベルンハルトさま。ユティアーヌが戻ってくるまでは代理としてあなたの聖女を続けますが、それはあくまでも仕事上の契約です。過度な交流も接触も、しません。そして、ユティが戻ってきたら即座に辞させていただきます」


 レミレルーアがベルンハルトと親しく言葉を交わすことは、もうないだろう。

 勘違いから始まった初恋の、幕引きだった。


「ご承知おきください」


 晴れやかな気持ちで締めくくったレミレルーアは、そこでようやく、己を抱き上げるセレヴェンスを見上げる。実はずっと、背筋が粟立つような気配を感じていた。


「だからセレンさまも、そんな怖い顔をしないでください……」


 湖で見せたような、どす黒い魔力を放たんばかりの形相だったセレヴェンスは、そう簡単にたしなめられてくれなかった。


 それがレミレルーアの昨晩の記憶である。

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