15.晴れた霧と決意

 セレヴェンスが、変だ。

 目にも留まらぬ速さで魔物を斬り伏せ、飛び回る蠅を潰すような容易さでその命を刈り取ってしまったセレヴェンスから、いままで感じたことのない膨大な魔力が立ち昇っていた。


「セレンさま!」


 痛む喉を振り絞って叫ぶ。

 ただれた腕を使って、ぬかるんだ地面を這う。からだを引きずって引きずって、魔物の上に立つ彼に手を伸ばしたとき――。


「落ちるぞ」


 ふわりと、抱き上げられた。


 いつの間にか戻ったセレヴェンスが、子供が抱きしめるぬいぐるみのように、レミレルーアをたいせつに持ち上げていた。大剣は腰の鞘に納められ、不穏な光を放っていた魔石も、澄んだ水色を取り戻していた。膨れ上がった魔力はなりを潜めている。


 いまの危うい気配は、気のせいだったのだろうか。

 一瞬、レミレルーアはぽかんとした。


「セレンさま?」

「ああ」


 受け答えも普通だ。


 しかし、やはり先ほどの異常な魔力は気のせいではない。

 ぽたり、と地面に垂れた液体が、黒い染みをつくる。セレヴェンスのからだから、濡れた服が雫を落とす勢いで、澱みが滴っていた。


「じょ、浄化……! 浄化をしないと」

「あとでいい」

「よくないですっ!」

「いい」


 がしっとセレヴェンスの肩を掴んで浄化の力を流しこもうとしたレミレルーアを、セレヴェンスが、強く抱きしめることで阻止した。


「セレンさまぁ」


 レミレルーアの口から、情けない声が漏れる。


「おまえが先だ。それから……」


 セレヴェンスは、周囲に視線を巡らせたようだった。つられたレミレルーアも、霧が晴れた湖の周りを見渡す。


「……あ! 魔導騎士さま」


 あちこちに、人が転がっていた。揃いの制服。行方不明になっていた魔導騎士たちだ。おそらく、ユティアーヌの護衛をしていた者と、今日ベルンハルトと共に来た者。


「み、みなさん……」


 生きているだろうか。特にユティアーヌの護衛たちは、失踪してからもうずいぶん日が過ぎてしまっている。


「どうだろうな」


 不意に、セレヴェンスの腰元で魔石がきらめいた。

 一陣の風が駆け抜ける。べったりと湿った下草と土を撫で、魔物の死骸が浮かぶ湖を波立たせ、一帯を走った。


 びり、とからだを突き抜けた感覚があった。


「う、わ」


 レミレルーアは思わず声を上げる。すかさずセレヴェンスが吐息を漏らした。


「すまん、痛かったか」

「い、いえ、大丈夫です……ちょっと痺れただけで」


 どうしてセレヴェンスがそんなことをしたのか、それはすぐにわかった。

 あちこちからうめき声が上がったのである。見れば、千々に散って倒れていた魔導騎士たちが、頭を緩く振りながら起き上がるところだった。


「生きているな」


 セレヴェンスの言うとおり、倒れ伏したままの者はひとりとしていなかった。


「あ……れ? おれは」

「ま、魔物は!?」

「ユティアーヌさまは!」

「うわ、なんだあの塊! 魔物の死骸か?」

「剣がない! なんということだ」


 はっきりと意識が戻ったらしい騎士たちは、ひどく混乱していた。置かれた状況が理解できず、動揺し、焦りが絶頂に迫ったとき。


「おまえたち」


 セレヴェンスが、珍しく声を張る。

 低くよく通る声は、たった一言でうろたえる騎士たちを鎮めた。


「せ、セレヴェンス・グラディオール……と、レミレルーア・ディミエさま……?」


 誰かが呟いたが、答える者はいなかった。


「帰るぞ」


 それだけ言って、セレヴェンスが歩き始める。


 座りこんだ騎士たちは、事態が呑みこめないようだった。ぽかんとセレヴェンスの背に視線を向けている。

 レミレルーアはセレヴェンスに抱えられたまま、苦笑した。


「みなさん、森に発生していた霧に惑わされていたんです。たぶん、あの魔物の……」


 セレンさまが倒してくださったので、もう大丈夫です。とりあえず、ニュアージュ基地に戻りましょう……とは言ったものの、伝わったかは怪しい。騎士たちは腰を上げてのろのろとセレヴェンスのあとに続いたが、その顔はやっぱり、どこか呆然としている。


(説明するって、難しい)


 セレヴェンスの口下手がうつってしまったのだろうかと間抜けな考えが浮かんで、レミレルーアはつい、頬を緩めた。


  ◇ ◇ ◇


 ニュアージュ基地は天地をひっくり返したような騒ぎに見舞われた。

 まさかいなくなってしまった騎士たちが一気に戻ってくるなんて、誰も思わなかっただろう。レミレルーアだって信じられない。


 おまけに霧の森を覆っていた霧は、夜更けにも関わらず、綺麗さっぱりなくなっていた。湖の周りの霧が特に濃かったことからも、霧の発生源は、あの海の生き物のような気持ちの悪い魔物だったのだと推測できた。


(書物に乗っていた海の生き物は、外敵から身を守るために、黒い液体を噴いて水を濁らせ、敵の視界を遮るとあったわ)


 たぶん、あの魔物の生態も同じようなものなのだ。


 水ではなく空気中に霧を吐いて、縄張りに入りこんだ者を惑わせ、襲う。

 霧のなかでは普通の人間はまともに動けないが、魔物たちは嗅覚が鋭く、聴覚に優れ……とにかく、視界がきかなくても支障がないものが多い。つまり、彼らにとっては格好の狩場なのだ。だから霧の森には魔物が多く住んでいる。


 そしてその魔物たちから魔力を吸い上げ、森の植物たちは奇妙な進化を遂げた。

 だから周囲の森林が滅びても、霧の森だけは残っていたのだ。


「レミィ、ああ、よかった……!」


 基地に入って真っ先にすがってきたのはベルンハルトだった。セレヴェンスに抱かれたままなのにも構わず、レミレルーアに手を伸ばす。


 しかし、彼の指先は空をかいた。


「ルーアに触れるな。愚か者」


 舌打ちと共に冷たい声で言い放ったのは、セレヴェンスである。一歩どころか二歩三歩と退いて、ベルンハルトからレミレルーアを遠ざけた。


「なぜルーアを捨てるような真似をした?」

「す、捨てるなんて……僕は助けを呼ぼうとして」

「私が近くにいた。共に来ていたことは、ルーアから聞いていただろう」

「う……」

「それなのにおまえは、すぐ傍の私ではなく、遠くの基地にまで走った。霧が晴れて私がルーアを見つけていなければ、今ごろルーアは死んでいた」


 セレヴェンスが饒舌だ。たぶん、怒っている。レミレルーアのために。


 それがなんとなくわかったので、レミレルーアはくすぐったい気持ちを抱えて、無事な方の手でセレヴェンスの口を塞いだ。


「セレンさま、それくらいで……ベルンハルトさまも、突然の緊急事態で混乱していたんだと思います。私は気にしていませんから」

「む……」


 やんわりと止めれば、セレヴェンスはおとなしく唇を閉じたようだった。

 セレヴェンスが黙ったのをたしかめて、レミレルーアは、情けない顔をさらしたベルンハルトを見る。


(すごく疲れちゃった……正直、眠い。いますぐ休みたい、けど)


 たぶん、いましかない。レミレルーアの心が固まって、はっきりと伝えられる時間は。


「ベルンハルトさま、調査から戻ってきたらお話をしたいと言ったのを覚えていますか」

「え、ああ……うん、覚えてるよ」

「いま、よろしいですか?」


 ベルンハルトが視線をさまよわせる。

 このタイミングで切り出すということは、彼にとっていい話ではないと察したのだろう。返事はなかった。


 レミレルーアは構わず続けた。


「私、たしかにベルンハルトさまをお慕いしていました」


 レミレルーアを抱いたセレヴェンスの手が、動揺に震えるのを感じた。

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