14.初めての言葉と煮えたぎる怒り

「ほら、セレヴェンス。ご挨拶なさい」

「……セレヴェンス・グラディオールだ」


 やや間を空けて、セレヴェンスの背に手を当てていた彼の母は、眉尻を下げた。


 それだけではだめよ、と。

 もう少しきちんとお話しなさい、と。


 社交の場に出るたびに、毎回毎回、同じような注意を受けてしまう。叱られるわけではない。困った子ね、と苦笑しながら指摘される。それでも毎度、セレヴェンスが母の言うとおりに己の口下手を改善することができないのは、なにを言えばいいのかわからないからだった。


 挨拶をしろと言われて、自分の名前を言う。それ以外に、なにを話せばいいのだろう。


「セレヴェンス、もっと積極的にお話ししないと、お友達ができないわ」


 母に言われたのは、いつのことだったか。誰かの誕生日を祝うパーティーだったことは覚えている。


「お母さまはお父さまと一緒にご挨拶に回ってくるから、みなさんと仲良くね」


 セレヴェンスの母は、そうやってひとり息子を残して行ってしまった。周囲にはセレヴェンスと同じ年頃の少年少女が散見されたが、みなそれぞれ、楽しげに談笑している。ひとりが混ざって、抜ける。また別のグループに混ざって、抜ける。どうしてそんな風に、あちこちと上手く渡って、談笑できるのかがわからなかった。


 まず、話しかけるときの最初の一言にも迷う。


 誰とも話すことなく、ぽつんと突っ立ったままのセレヴェンスは、しまいに、その場にいることが嫌になってしまった。


流れるように子供たちの間を抜け、大人たちの足元を抜け、開放された庭へと躍り出る。誰も彼もパーティーに夢中で、庭には人気がなかった。セレヴェンスがよく整えらえた芝を踏む音が、耳に届くくらいだ。


 だから、すすり泣く声にもすぐに気づいた。


 足が、自然と吸い寄せられる。子供の背丈では迷路のようにも思える庭を、肩ほどの高さがある低木の間を、すべるように進んでいく。


 立ち並んだ低木と低木の切れ目、少しだけ空いた隙間に、鳴き声の元――その少女はうずくまっていた。

 結い上げられたラベンダー色の髪。薄い肩がわずかに震えていた。ちいさなからだをさらに縮こまらせて、少女は声を押し殺して泣いている。


 見つけてしまったからには、放っておけなかった。 

 しかしセレヴェンスは、この少女にかけるべき言葉を持っていなかった。


 ひとりでいるということは、きっと大人には見つかりたくない理由が原因なのだ。誰かを呼ぶこともできない。


(なにを言えばいい?)


 答えはない。セレヴェンスにやんわりと指摘する母だっていつも、内容は自分で考えろと言う。父は呆れるばかりだ。よい言葉など、紡ぎようがない。


 だからセレヴェンスは、その場に膝をついて、手を伸ばした。

 狭い手のひらと短い指で、そっと少女の背中を撫でる。


 びくり、と少女のからだが跳ねた。ほんの一瞬、泣き声が止む。

 少女が、振り返った。


 こぼれそうなほどまん丸に見開かれた、髪とよく似た色の紫水晶の瞳が、真っすぐにセレヴェンスを見た。目尻に浮いた雫が、ぽろりと頬を伝って落ちる。


 セレヴェンスはそれでもどうすべきか迷って、少女の背を撫で続けた。撫でて撫でて撫で続けると、やがて、少女の顔がくしゃりと歪んだ。

 ひく、と少女の喉が鳴る。

 一度は止まった涙がまた盛り返して、少女の白い頬を次々と濡らした。


「わたし、今日、おともだちと会えるのがうれしくて。おともだちのお誕生日が、うれしくて、おめでとうっていっぱい伝えたくて、ごあいさつに行ったときに、おめでとうって、あなたが生まれてきてくれた日がうれしくてたまらないって、たくさんお話ししたの」


 ひく、とふたたび少女の喉が鳴った。少女の唇がわななく。「で、でも」


「う、うるさいって……お父さまにおこられちゃったの。わたしは、しゃべりすぎなんだって、もっとおしとやかにできないのかって、それで」


 それで、と少女の台詞は途切れた。

 代わりに、いままでの比ではない量の涙があふれて、ばたばたと地面に落ちる。


「ごめんなさい……お父さまに言われたのに、またわたし、かってに……」


 こういうところが駄目なのだと、相手のことを考えていないのだと、女の子らしくおしとやかではいられないのだと、少女はさらに泣いた。


 どこが駄目なのかと、セレヴェンスは思った。


「もっと、聞きたい」


 だから、その言葉は自然に口からこぼれ落ちた。


「え?」

「ぼくは、じょうずに話せない。いつも怒られるよ。もっと愛想よくしなさいって。でも、どうすればいいかわからない」


 だから、きみがたくさん話してくれるのは嬉しい。好きなだけ話してほしい。ぜんぶ聞くから。


 初めてだった。こんな風に、なんの懸念もなく、感情のままに言葉を紡ぐことができたのは。誰かに、届けることができたのは。


「ぼくは、たくさんしゃべるきみが好きだよ」


 目の前の少女は、セレヴェンスの言葉を引き出してくれた。

 だから。


「わたしのお話、好きだって言ってくれたひと、はじめて」


 いままで泣いていたのが嘘のように涙を引っこめて、花がほころぶように笑った少女を。


「ありがとう……」


 レミレルーアを。

 特別に想うようになったのは、当たり前のことだった。


  ◇ ◇ ◇


 ――踏みこみが甘かったか。


 薄皮一枚でかろうじて繋がった魔物の足が、引っこめられる。


「ルーア」


 大剣を湖の魔物に向けたまま、セレヴェンスはへたり込むレミレルーアを振り返る。


 ひどい有り様だった。

 顔が紙のように白い。よほど苦しい思いをしたのか、目は充血して、口の端から唾液がこぼれている。結い上げた髪がほつれ、頬や首に散っていた。おまけに、全身ずぶ濡れ。水を吸って重くなったローブがレミレルーアのからだに貼りついている。

 めくれた袖から、燃え盛る炎に突っこんだような、焼けただれた腕が覗く。


 それが、引き金だった。

 セレヴェンスの頭にかっと血がのぼる。


「……よくも」


 息も絶え絶えに、セレンさま、と己の名前を呼んだレミレルーアの声が遠い。答えてやる余裕がなかった。


 向かってきた魔物の足を、今度こそ斬り落とす。

 それだけでは飽き足らず、さらに前に出て、返す太刀で二度、三度と刻んだ。べちゃりべちゃりと泥を散らして、輪切りにされた魔物の足が落ちる。


 魔物が水しぶきを上げる。いくつも伸びた足が、めちゃくちゃにセレヴェンスを狙い始める。


 セレヴェンスは、大剣の柄をきつく握りしめた。関節が白くなるほど、強く強く力を込めて――。


 閃光が走る。


 レミレルーアが浄化のときに見せるような、あたたかい光ではない。もっとどす黒いものから生まれた、禍々しく赤い光だった。腹の内で煮えたぎっている感情が、そのまま表れたような。


 握った大剣が、風を切る。

 魔物を斬る。踏みこむ。斬る、踏みこむ。斬る、斬る、斬る、斬る、斬る。


 向かってきた魔物の足を余すことなく斬り捨てたセレヴェンスは、暴れ狂う水面の手前で、地面を蹴った。


 剣の刀身が熱を持つ。焼けた鉄のように輝く。


 足を失った魔物は、ただ気味の悪いひとつ目でセレヴェンスを見上げることしかできない。惑うように、逃げ道を探すように、目玉はぐるぐるとせわしなく回る。


 そのからだが縮んだ。違う、水中に逃げるつもりなのだ。

 そんなこと、絶対に。


「させるか」


 セレヴェンスの大剣の切っ先が沈んだ。

 魔物の目玉を両断して、どこまでも深く潜る。じゅわ、と魔物のからだを濡らしていた水が蒸発した。斬ると同時に焼かれた魔物のからだは、血を噴き出すことすらなく、ただただ深い裂け目を刻まれる。


 ぬらりと光っていた魔物のからだは、うねり、のたうち、セレヴェンスを振り落とそうと暴れ――動かなくなった。


 力なく湖に浮かびあがった魔物の上に立ち、セレヴェンスは突き立てた剣を抜く。

 全身の血が、いまだに沸騰していた。


 血と一緒に、行き場を失った怒りが全身を巡る。許せない。脳裏にレミレルーアの焼けた腕がちらついた。報復にと、魔力で焼いた刃で殺したのに、まだ足りない。

 どろどろしたものが胸の内に積もっていく。

 刃を覆っていた熱が柄まで到達して、セレヴェンスの手のひらを焼いた。痛みは感じなかった。


 剣にはめ込まれた魔石が、赤を通り越して黒い光を帯びる。


(塵になるまで、切り刻んでやろうか――)


 ふっと、セレヴェンスの思考が陰ったとき。


「セレンさま!」


 絶叫にも近いレミレルーアの声が、届いた。

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