13.水面下の絶望と聖女の力
ほのかな絶望が、レミレルーアの心を満たしていた。
(基地に……)
ベルンハルトはセレヴェンスのことをあまりよく思っていないようだった。そしてたぶん、手を放せとレミレルーア訴えたあのとき、ベルンハルトはひどく混乱していた。
だから彼の頭から、湖の近くにいるセレヴェンスに助けを求めるという選択肢を奪ってしまったのだ。
(でも、だからって)
彼は魔導騎士ではないのだろうか。魔物に襲われるような緊急事態は、これまでに何度も経験しているはずだ。危機に直面したとき、冷静に物事を判断して、最適解を見出すことができるはずだった。
それが、どうだろう。
聖女として基地で待機することが多く、魔導騎士とともに調査に行くときも、常に守られているレミレルーアの方が、落ち着いていた。レミレルーアの方が、正しい判断を下すことができていた。
驚くほど、心が冷めていくのを感じる。湖の冷たい水がからだを冷やしているからではない。もっとずっと芯の部分が、氷のように冷えこんでいく。
(こんなかたちで)
こんなかたちで、ベルンハルトへの恋心がかき消えるとは思わなかった。
ずっと忘れたいと思っていた気持ちだった。それなのに、苦しい。こんな風に、失望したくはなかった。
頭がぼうっとする。
ごぼり、と口から泡があふれた。
生暖かい泡はレミレルーアの頬を撫で、水面を目指して上へ上へと登っていく。淡く光る水面を見上げ、レミレルーアは唇を噛んだ。
湖のなかは、底なしの闇だった。こんなかたちで水に入るのは初めてで、目がひどくヒリヒリする。ろくに周りが見えない。しかし、底の方で魔物らしきものがうごめいている影だけは認識できた。耐えられなくなって、まぶたを閉じる。
からだにへばりついた魔物の足を掴んでみるが、びくともしない。むしろレミレルーアの手すらも捕らえようと、強く引かれた。
(というか、くっついてる……?)
レミレルーアがいくら剥がそうとしてもできないのは、これがあるからだ。魔物の足についた、なにか丸くなっている部分がへばりついて、より拘束力を高めている。
(本で見たことがある、ような)
海に生息する生き物で、このような足を持ったものがいたはずだ。うねうねしてぐにゃぐにゃして明らかな異形の姿なのに、魔物ではないのかと驚いたことがあったので、覚えている。
ごぼり、ごぼり。口だけではなく、鼻からも空気の泡がこぼれた。
レミレルーアの息が限界を迎えようとしていた。
湖の底に座る魔物が近づいている気配がする。このまま気絶したら、きっと次に目覚めることはない。
(セレン、さま)
助けを呼ぶと去ったベルンハルトが、運よくセレヴェンスに出会ってくれたりはしないだろうか。
いや、あり得ないだろう。そもそも、捜そうとして捜したところで合流できるかも怪しい。立ちこめた人を惑わせる霧が、そんなに優しいことをしてくれるとは思えない。
頭が痺れたようだった。全身の血が栄養を求めて、からだを巡りながらどくんどくんと存在を主張している。
不意に、ベッドに横たわるユティアーヌの姿が浮かんだ。ニュアージュの地から運ばれて、レミレルーアが浄化の力で回復を助けたあの日のことだ。
魔物と真っ向から対峙したという。
聖女の力と魔力は相性が悪い。聖女が魔物に挑もうものなら、その魔力にあてられて、ユティアーヌのように高熱を出す。
いや、熱を出すだけならまだいい。
もっとひどいことだって。
(でも、このまま――)
このまま気を失って、黙って魔物に引き裂かれるよりは、ずっとずっと、マシだ。
レミレルーアは、魔物の足を掴んだ手に力をこめた。ありったけの浄化の力を流す。
瞬間、火にあぶられたような痛みが、手のひらに走った。腕の血管が膨らんで、煮え立つ。
「――っ」
声にならない悲鳴が、レミレルーアの口から泡となってこぼれた。
魔物の足がぶるりと震えて、逃げる素振りを見せた。拘束が解ける。
レミレルーアは無我夢中でからだを動かした。引いていく魔物の足を踏み台にする。思いきり蹴って、頭上で揺らめく水面を目指した。重く水を含んだローブがまとわりついて、水を蹴るレミレルーアの足を邪魔した。
それでも……ほとんど意識を失いながら、うっかり水を飲んで、吐き気に襲われながらも。
「ぶはっ……は、は……!」
レミレルーアは、どうにか地上に逃れた。
激しく咳きこみながら、震える手足を叱咤して、岸を目指す。
水のなかからは出たはずなのに、視界がかすんでいた。拳で殴られたような痛みが頭のなかに響いている。
「げほ、げほっ……」
意識が朦朧とするなか、なんとか岸にたどり着いたレミレルーアは、鉛のように重いからだを引き上げた。あっという間に濡れてぬかるんだ地面に、膝を乗せる。
腕をついた瞬間、レミレルーアは喉を詰まらせた。
「い、った」
ローブの袖をめくる。真っ赤にただれた肌があらわになった。
聖女の力と、魔物の魔力がぶつかると、こんなことになるのか。魔物も同様の苦しみを味わったのだろう。だから退いたのだ。
(とにかく……この場を、離れないと)
腕を引きずり、ローブを引きずり、ほとんど這うようにしながら、レミレルーアは湖から距離を取る。
ものすごい水しぶきの音が、背後から響いた。
洪水を起こすように、岸を越えた波が流れてきた。頭上からはざあ、と水しぶきの雨が降ってくる。
レミレルーアはうしろを見た。見ずにはいられなかった。
霧は、いつの間にか晴れていた。
「うそ、でしょう……?」
レミレルーアを水中に引き入れた足と同じものが、二本、三本……数え切れないほど、空に向かって伸びあがっている。足の中心にはぬらりと光る大きな頭が陣取って、血走った目玉がひとつだけ、取ってつけたように埋まっていた。
湖の半分を埋めようかという、巨大な魔物だった。
血走った目が、ぐるぐるとあちこちを見る。月明かりを反射しながら気味悪く光るからだが、水を切り裂いて岸に近づいた。空中をさまよっていた足が円を描き、びたん、とレミレルーアのすぐ傍に振り下ろされる。
打たれた地面にへこみができた。ものすごい膂力を含んでいる。拘束されたときに、レミレルーアが握り潰されなかったのが不思議なくらいだった。
めちゃくちゃな動きを見せていた魔物の目が、レミレルーアの上で止まった。
次は、当てる。
声が聞こえた気がした。
(こうなったら――)
逃げても間に合わない。レミレルーアは、緩慢な動きでからだを起こした。耳鳴りがひどい。魔物の足に殴られようが、抵抗しようが、やってくる痛みにそう違いはない。それが怖くて、胃のあたりから吐き気がこみ上げてくる。
それを喉で押しとどめて、レミレルーアは無事な方の腕を掲げた。
星のように眩い光が、手のひらからあふれた。
魔物が足を振り上げる。今度は真っすぐ、レミレルーアの頭を狙っていた。
聖女の力と魔力が、ふたたびぶつかるその瞬間――。
「ルーア、無事か!」
風を切った大剣が、魔物の足を薙ぎ払った。
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