12.湖の魔物と混乱

 そこに見えているベルンハルトは幻覚ではなかった。


「ベルンハルトさま!?」


 わかりやすく晴れた霧。タイミングの良さ。あまりにも怪しすぎる。しかし、セレヴェンスを見上げると、彼も同じように倒れているベルンハルトを見ていた。


「行くぞ」


 おそらく彼も、罠の可能性は疑っている。それでもためらう様子はなかった。

 ぼんやりと開けた地面をたどって、レミレルーアとセレヴェンスは、ベルンハルトの前に立つ。レミレルーアは、セレヴェンスの手を片手で掴んだまま、膝をついてベルンハルトの顔を覗いた。


「ベルンハルトさま、ご無事でいらっしゃいますか?」


 そっと声をかけると、ぴたりと閉じられたベルンハルトの睫毛が、わずかに震えた。顔にかかっている前髪が揺れる。


「……レミィ?」


 ベルンハルトの目が開いた。焦点の合わない茶色の瞳が、レミレルーアを見上げる。彼はうめきながらゆっくりと上体を起こした。地面に落ちていた黒い三つ編みが引きあげられる。


「どうし……どうして君がここにいる!?」


 突然、腕を掴まれた。ぐいと引かれ、レミレルーアは片手を地面につく。セレヴェンスを掴んでいた手だった。


(……あ)


 気づいたときには遅かった。背後にいるはずのセレヴェンスを振り仰ぐ。


 誰もいなかった。


 わずかに開けていた視界も、すっかり霧に覆われてしまっている。「セレンさま」と呼びかけても答えは返ってこない。

 なんだかわからないが、やはり罠だったようである。


「セレン……セレヴェンス・グラディオールかい? 彼と一緒に来たの?」


「そうなんです、私が、私もベルンハルトさまを捜しに行きたいと、わがままを言って」


 無理に連れてきてもらったのだ。伝えると、険しく眉を寄せていたベルンハルトの表情がやわらいだ。


「そっか……心配してくれたんだね。ごめんね、レミィ」

「いえ、ご無事でなによりです」


 少なくとも、ユティアーヌや、彼女を守って失踪した魔導騎士たちのようにはならなかった。それが純粋に嬉しい。

 しかし、喜んでいる暇はなかった。


「ベルンハルトさま、なにがあったのか、教えていただけますか?」

「そう、だね……なにから話そうか」


 ベルンハルトたちがこの湖に着いたとき、まだ霧はさほど立ちこめていなかった。視界に多少のもやがかかる程度だ。共に調査に来た騎士たちと離れても、互いの姿は問題なく認識できていた。

 湖の周りを二周、三周と回っても、行方のわからない魔導騎士たちも、魔物も、なにも見つからない。湖にも変化はない。水面は凪いでいる。生き物の一匹もいない澄んだ水が、どこまでも深く続いているだけだった。


 今日は切り上げて基地に戻ろうかとなったところで、問題は起きたという。


「見つけた、と叫んで、ひとりがあらぬ場所に走り出したんだ。なにを見つけたのかと目を向けても、彼の先にはなにもない。誰もいない」


 なにを見つけた、と問いかけたとき、霧が濃くなっていることに気づいた。


「まずいかもしれない、彼を連れ戻そう、と隣を見たとき……もう、僕の傍には誰もいなかった」

「そのあとは……」

「僕も覚えていないんだ。魔物の気配を感じて、剣を抜いたところまでは」


 ベルンハルトが台詞を切った。自身の腰元を凝視している。


「……ベルンハルトさま、剣が」


 ベルンハルトの腰に残っているのは、空っぽの鞘だけだった。にわかに、ベルンハルトの顔に焦りが浮かぶ。

 当たり前だ。魔導騎士が魔導騎士たるゆえんは、剣にはめ込まれた魔石を媒介に、魔法を振るって魔物を祓うからである。そして魔石がなければ、彼らは魔法を使うことができない。魔導騎士の剣がなければ、彼らの本領が発揮されることはない。


 いや、たとえ魔石がなかろうと、剣さえあれば戦うことはできた。

 しかし、いまのベルンハルトは。


「レミィ、とにかくここを離れよう」

「は、はい」


 頼りにしていたセレヴェンスもいない。彼のことだから、きっとレミレルーアとベルンハルトのことを捜し回ってくれているのだろうが、合流できなければ意味がない。


 揃って立ち上がったレミレルーアとベルンハルトは、真っ白になったあたりを見回した。


「私とセレンさまはあちらから来たので、真っすぐいけば、抜けることができるはずです」

「うん、急ごうか」


 頷いたベルンハルトがレミレルーアの手を放しそうになったので、レミレルーアは慌てて、逆にベルンハルトの手首を掴み返した。

 びくり、とベルンハルトの肩が跳ねる。


「少しでも離れたら、たぶん、先ほどのセレンさまと私のように、あっという間に分断されてしまいます。手は離さないでください」


 この場でひとりになってしまったら本当に終わりだ。必死に訴えると、ベルンハルトはひどくうろたえた様子で承知してくれた。なにか勘違いされているような気もしないでもないが、この場で言及できるほどの余裕はない。


 レミレルーアはベルンハルトの手を引いて、セレヴェンスと共に入ってきた――と思わしき方角に足を踏み出す。


 それが間違っていたのか、また惑わされたのかはわからない。


 レミレルーアの踵が沈んだ。ざぶん、と水音。足にまとわりつく冷たい感触。

 たぶん、惑わされたのだ。だって、霧が晴れていたわずかな時間、傍に水の気配なんて微塵もなかった。


「レミィ!」


 ベルンハルトが腕を引くよりも、水のなかで、レミレルーアの足首になにかが巻きつく方が早かった。レミレルーアのからだが水しぶきを上げて、あっという間に沈む。すごい力だ。抵抗する隙も与えられない。

 ローブが水を含んで、レミレルーアの下半身にまとわりついた。重い。それに、足を掴んだなにかがローブにまで手を伸ばしている。さらに強い力で引っ張られる。空いている手で岸を掴んだが、うねった下草がぶちぶちと千切れるだけだった。


 どきりとした。差し迫った命の危機が、突然現実味を帯びたようだった。心臓が強く鼓動を打つ。全身の血が沸騰していた。このままレミレルーアが湖に沈んでしまったら、どうなるのだろう。足を掴んでいるものはなんだ。魔物か。それなら、引きずりこまれたあとのレミレルーアは――。


(こわい、死にたくない)


 沈んでいくレミレルーアに引きずられたベルンハルトが、膝をつく。


 それで、レミレルーアははっとした。

 まずい。このままでは道連れだ。恐怖と焦りで埋め尽くされようとしていた頭が、冷静さを取り戻す。


「ベルンハルトさま、手を放してください!」

「でも、レミィ」

「私と一緒に沈んでしまったら、ふたりとも助かる可能性がなくなってしまいます」


 ユティアーヌが襲われた場所がここだというのなら、ユティアーヌを襲った魔物は、いまレミレルーアを捕まえているこれに違いない。レミレルーアとベルンハルトがまとめて消息を絶ってしまえば、討伐のチャンスはふたたび潰えてしまう。ふたりを捜しにきた人間が、また犠牲になる。負のループだ。


 レミレルーアは、腹の底から湧き上がってくる恐怖を押し殺して、ベルンハルトを見据えた。彼の茶色い目にはありありと怯えが浮かんでいる。レミレルーアをここで見捨てることはしたくないが、このままではふたりとも助からないのはわかる……自分の取るべき最良の行動がなにかわからない、取った行動が正解を引き当てるかもわからない、そういう迷いが生み出した怯えだった。


 それがかえって、レミレルーアを冷静にさせた。


(大丈夫、セレンさまが近くにいる。見つけることさえできれば、助けてくれるわ)


「手を放して――」


 言っている間にも、レミレルーアのからだはどんどん沈んでいく。


「助けを捜してください。セレンさまなら――う」


 レミレルーアを捕まえたなにかが、また新たにレミレルーアの腰に絡みついた。ぐっと絞るように腹を圧迫されて、言葉に詰まる。


 そこでようやく、「わかったよ」とベルンハルトが呟いた。


、人を呼んでくるから!」


 基地に、戻って。

 レミレルーアが絶句するのと同時に、ベルンハルトの手が離れる。


 対抗する力をなくした水中の魔物が勢いづいた。レミレルーアを引きずりこもうとする力が強くなる。レミレルーアは必死に岸にしがみついたが、無情にも、響くのは草が千切れる音だけだ。


(基地じゃなくて、近くにいるセレンさまに)


 走り去るベルンハルトの靴が見える。視界がぶれる。霧に満ちた地上が消えて。

 どぼん、と頭まで湖に沈んだ。

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