11.霧深き森と幻覚
陽が沈んでからの霧の森は不気味だった。
その名に違わぬ霧の濃さ。じっとりした空気が肌を撫で、手を伸ばすと指先がかすんでもう見えない。自分以外の人間なんてなおさらだった。隣を歩いているはずなのに、ふとした瞬間に見失いそうで、レミレルーアはセレヴェンスの腕を掴んだ。触っていないと不安だった。
幸いなのは、足元の草が余計な動きをしないことだろうか。昼間はあんなに足に絡みついてくるようにねっとりしていたのに、霧で湿ったからか、なにかはわからないが、今は絨毯のようにぺたりと広がっている。
昼間とはまったく様子が違う。別の森に迷いこんだのかと思うほどだった。
(昼と夜ってだけで、こんなに……)
騎士たちが、なにがなんでも夜までに調査を切り上げてくる理由がわかった。これは、迷子になるどころの話ではない。
(足手まといにならないようにしないと……!)
魔物に出くわしたらすぐに身を隠す。足を引っかけて転ばないようにする。自分の居場所をセレヴェンスが把握できるようにする。戦えないレミレルーアは、とにかく気を張っていなければいけない。
「ルーア、気配は」
「ベルンハルトさまたちの? む、向こうです!」
「やはり」
驚いて、張ったばかりの気がほつれた。澱みから気配を追うなんて、咄嗟に口からこぼれた方便なのに、セレヴェンスは律儀に役目を与えてくれようとしている。
(セレンさま、気遣いがすごい……無意識にやってるの?)
と、突然腕を引かれた。レミレルーアはつんのめるようにしてセレヴェンスの胸に飛びこむ。わぶ、と間抜けな声を上げたところで、固い金属音が響いた。
鋭いものが風を切る。
醜い悲鳴が短く聞こえて、なにか重いものが地面に落ちた。
「せ、セレンさま?」
「怪我はないか」
「ない、ですけど……」
セレヴェンスの腕のなかでからだを回転させて背後を見れば、小さな腕を何本も生やした蛇のような長い体躯が、ゆっくりと傾いでいくところだった。傍らに、首が落ちている。
「まもの」
レミレルーアは絶句した。セレヴェンスが一瞬で仕留めたことにではなく、自分が魔物の気配に一切気づかなかったことに、である。さっと顔から血の気が引く。
「ごめんなさい、私」
「気にするな」
たぶん、セレヴェンスは本当に気にしていないんだろう。負担にも思っていない。レミレルーアを引き寄せて魔物を斬り捨てるまでの動作が、呼吸をするように当たり前でなめらかだった。
だからレミレルーアは、ずんずん沈んでいく自分の気持ちを抑えこんで、小さく礼を言う。
「……あの、浄化をやらせてくれませんか! 調査から戻ってきたきり、一度もやってないですよね」
以前、あんなに大量の澱みを抱えていたセレヴェンスのことだ。彼からしたら今日一日で溜めこんだ澱みなんて微々たるものだろうが、いまのレミレルーアにできることといったら、これ以外にない。
「頼む」
セレヴェンスが頷いてくれたので、レミレルーアは触れた彼の腕から浄化の力を流しこんだ。
◇ ◇ ◇
魔物に出くわし、襲われ、時には進路を切り開くために自ら突っこむ。セレヴェンスはレミレルーアを連れていても遠慮はしなかった。レミレルーアも、「ここにいろ」と言われたら黙って立ち止まったし、セレヴェンスが戻るまで息を押し殺して身動きひとつしない。「伏せろ」「走れ」「掴まれ」――セレヴェンスの指示が簡潔でわかりやすいのもあって、戦うことに関してはからっきしのレミレルーアでも、驚くほど素早い動きができた。
「ここだ」
あまり前に出るなよ、と制止されて、レミレルーアはセレヴェンスのうしろでぴたりと足を止めた。
相変わらず霧が深いので、ほとんどなにも見えない。木々が生えている様子がないので、どうやら開けた場所らしい。そして、レミレルーアが追っていた、人が抱える澱みの気配が間近にあった。
しかし、ひとつやふたつではない。あちこちに散らばっている。そんなにたくさんの人がいるようには思えないが……。
セレヴェンスがぽつりぽつりと、説明してくれた。
ここが、ユティアーヌが魔物に襲われた場所。そしてベルンハルトが調査に来た場所。木々がなく開けているのは、湖があるからだ。
「ここだけは、霧が晴れない」
昼夜関係なく、湖を中心に、常に霧が立ちこめている。
「惑わされる者も多い」
「惑わされる?」
セレヴェンスは黙って霧の向こう……湖がある場所へと目を向けた。つられてレミレルーアもそちらを見る。
底なしの穴を覗いたときのような、前後の感覚が失われる奇妙な心地がした。一歩前に出たら、呑みこまれて影もかたちも残らないかもしれない。地面がかき消えて真っ逆さまに落ちていってしまうかもしれない。根拠のない不安がこみ上げてくる。
レミレルーアは、その真っ白な空間のなかで、あり得ないものを聞いた。
(……子供の笑い声?)
桐の向こうにぼんやりと浮かび上がる、ふたつの影。こんな不気味な場所なのに、まるで屋敷の庭園で遊んでいるような弾んだ声が聞こえてくる。やがて姿を現したのは、手に手を取って駆けるひと組の少年少女だった。
「――え」
ベルンハルトと、レミレルーアだ。幼い頃の。間違いない。しかし、あんな風にふたりで遊んだ記憶はない。それなのに、目の前のふたりは手を繋いで笑みを交わして、駆け回っている。こんな気味の悪い森で。
違う。
森ではない。足元に手入れの行き届いた芝が広がっている。刈りこまれた低木と、見覚えのある屋敷。ディミエ家だ。レミレルーアはディミエ家の庭園に立っていた。やわらかに降りそそぐ陽のもとで、幼い無邪気な声がこだまするのを聞いて――。
「ルーア」
強い声で呼ばれて、目元を塞がれた。あたたかい。セレヴェンスの手だった。
「気をつけろ」
レミレルーアの目を覆ったセレヴェンスの手は、そのまま頬をすべって顎を掴んだ。
上を向かされて、レミレルーアの視界に金の瞳がねじ込まれる。
子供の笑い声は、もう聞こえなかった。
「セレンさま……」
レミレルーアが名前を呟くと、セレヴェンスの目に安堵の色が浮かんだ。
「すみません、もう大丈夫です。惑わされるって、こういうことなんですね」
ただの霧ではない。幻覚まで見せてくる。
「人によって見るものが違う」
ユティアーヌを守っていた騎士たちが、いまだに見つかっていない理由がわかった気がした。そこに見えた人が本物の行方不明者なのか、行方不明者を見つけたいという願望が見せた幻覚なのか、判別がつかないのだ。
「ここは得意ではない」
「セレンさまもですか?」
「ひとりで入るとなにもできん。しかし……」
しかし、のあとに続く言葉が、なんとなく想像できた。できてしまった。
(誰も、セレンさまと一緒に調査に入りたがらないからだ)
レミレルーアは普通に接しているので忘れがちだが、セレヴェンスは、世間では穢れた騎士なんて言われて、恐れられている。それは一度にたくさんの魔物を討伐してたくさんの澱みを抱えて帰ってくるからで、その上に、多すぎる澱みに怯んだ聖女たちが、彼にろくな浄化を施さず放置していたからなわけだが。
レミレルーアは、顎を掴んだままのセレヴェンスの手を、ぎゅっと両手で握った。
「今日は私がいますから!」
なにが現実でなにが幻覚なのか、すり合わせることができる。絶対にベルンハルトを連れて帰ろう。
「そうだな……早速だが」
あれが見えるかと聞かれて、レミレルーアは振り返る。
「……ベルンハルトさま!」
セレヴェンスが示した先には、わずかに晴れた霧。ぽっかりと空いた場所に、まるでレミレルーアとセレヴェンスに見せつけるように、ベルンハルトが倒れていた。
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