8.曖昧な思い出と真実
静かな寝息が聞こえる。
レミレルーアはテントの天井を見つめながら、安らかに眠るほかの聖女たちを恨めしく思った。もう毛布を被ってからずいぶん経つのに、一向に眠気がやってこない。
ずっとずっと、胸の内にもやが巣くっている。
基地に戻ったベルンハルトは、今後レミレルーアが霧の森の調査に加わらないことを各方面にばら撒いてしまった。こうなると、レミレルーアが無理に霧の森へと入ろうものなら、周囲に白い目で見られることになってしまう。ましてやレミレルーアは代理だ。「代理の立場で出しゃばるな」とまで思われるかもしれない。
聖女というのは、魔導騎士に従うものだ。
浄化の力が、魔物に対抗できるものではないということが大きい。こうして任地まで出てきているとはいえ、聖女たちはあくまで、魔導騎士に守られるべき存在なのだ。だからその騎士に「危険地帯へ入るな」「基地で待っていろ」と言われたら、素直に聞き入れるのが常なのである。
(ベルンハルトさま、あんな人だったかしら)
しかし、それと自分が聖女に命じたことを周囲に言いふらすのとは、意味が変わってくる。言うなれば、騎士の意にそぐわないことをすれば、即座に周りに広まっておまえの評判が落ちるぞ、と脅すようなものだ。
ベルンハルトがそんなつもりで言ったわけではないということはわかっている。レミレルーアが納得しないことを見越して、どうにか抑えこむために取った手段なのだろう。
わかっているのに、もやもやする。ユティアーヌの代理としてニュアージュの地に来てから、なにかが少しずつずれ始めている予感がした。特にベルンハルトのことは。
(思えば、こんなに長くベルンハルトさまの傍にいるのは初めてね)
だからだ。ベルンハルトの、今まで見えていなかった部分を、目にするようになっている。それに違和感を抱いてしまう原因も、だいたいの予想がついていた。
(……私の、初恋の、きっかけ)
レミレルーアは無意識に、思い出のなかの少年を具現化して、今のベルンハルトに当てはめてしまっている。だからイメージと現実の乖離が生じて、複雑な気持ちを抱えてしまうのだ。
どうして思い出のなかのベルンハルトと、現実のベルンハルトに差が生じてしまうのか……その答えも、ほとんど出かかっていた。
(無理! 寝られない!)
レミレルーアは飛び起きた。荷物を漁って、ローブの上から羽織る外套を引っ張りだす。隣で寝ている同僚を起こさないように気をつけながら、テントを抜けだした。
夜風なら、このぐちゃぐちゃに絡まった思考を解きほぐしてくれるだろうか。
寝間着に外套だけを羽織った格好で、人気のない広場に足を向ける。焚き火の火もすっかり鎮まっていて、明かりといえば頭上から降り注ぐ月の光だけだった。
宵闇のなかでも存在感を放つ白い髪が、その月明かりを反射してきらきらと輝いていた。丸太のベンチに腰かけて、火の気のない焚き火の跡を見つめている。
「セレンさま?」
「……どうした」
突然声をかけられても、セレヴェンスは驚かない。静かに背を伸ばして、レミレルーアを振り仰いだ。
「ちょっと、眠れなくて」
「ハルバスか」
なにもかもお見通しらしい。それとも、彼の耳に届くほど……人とほとんど言葉を交わさない彼の耳に入るほどに、ベルンハルトの話が広がっているのだろうか。
「やりすぎたな」
眉毛の一本すら動いていなかったが、セレヴェンスの顔に落ちた影のせいか、心なしか落ちこんでいるように見えた。
(なんか……ぺたんと垂れた犬の耳が? 見えるような)
気のせいかもしれない。
「セレンさまのせいではないです。ベルンハルトさまが過保護すぎるんですよ。ユティがあんな目に遭っているので、それも当然かもしれませんが」
彼がレミレルーアを好きだから、という理由は意識して排除した。基地に戻ってきてから、レミレルーアは本人にその話を一度も持ち出していない。
(聞かなかったことにはできないわ。ユティの今後の人生に関わってくるもの。ことが落ち着いたら、きちんと話し合って……)
話し合って、どうする。
ベルンハルトとユティアーヌの婚約の話がなかったことになる結果しか招かない。ベルンハルトはともかく、ユティアーヌは自身の婚約者を慕っている。
(でも、ユティには……ユティを愛してくれる人と結ばれてほしいわ)
恋愛結婚ができる人ばかりではないことは、レミレルーアだって承知している。しかし、大事な妹の婚約者にほかに好きな人がいて、それがほかならぬレミレルーアだというのは……ユティアーヌにとって、あんまりな気がした。
(私がいくら考えたところでどうにもならないわ……どうしてこんなことに)
レミレルーアがベルンハルトに恋をしなければ、また違ったのだろうか。
「ルーア?」
突っ立ったまま、不意にむっつりと押し黙ってしまったレミレルーアに、セレヴェンスが首を傾げた。
「……すみません、考えごとを」
「そうか」
彼は座したベンチを手の甲で軽く叩いた。隣に座れ、ということらしい。
レミレルーアは誘われるがまま、彼の隣に腰かけた。少し近すぎたかもしれない。肩が触れ合う距離だった。離れようかとも思ったが、それはそれでセレヴェンスを避けるようで失礼なことだ。落ち着かない気分を呑みこんで、レミレルーアはそのまま尻を落ち着けた。
(……そうだ、セレンさまに確認するなら、いましかないわ)
思い出の答え合わせだ。
レミレルーアはずっと、幼い頃に黙って背を撫で、泣きじゃくる自分を慰めてくれたのは、ベルンハルトだと思っていた。
「セレンさま、聞いてもいいですか?」
金の瞳がレミレルーアを見る。彼は答えも頷きもしなかったが、レミレルーアは許可ととらえた。
「セレンさまの以前の髪の色を教えてください」
「……知ってどうする」
「確かめたいことがあるのです」
セレヴェンスが目を逸らした。沈黙が落ちる。レミレルーアは根気強く待った。逸れた金の瞳を見つめたまま、セレヴェンスが口を開くまで。
「黒だ」
それはほとんどささやき声だった。
(やっぱり)
そんな気はしていた。心臓が早鐘を打ち始める。ひとつ、答えに近づいた。
だから、次の質問を口にするには、多大な勇気が必要だった。その破壊力は、ベルンハルトの告白の比ではないだろう。
「セレンさま、私たち、小さい頃に――」
「やめておけ」
レミレルーアの唇に、人差し指が置かれた。ごつごつして、冷たい指だった。セレヴェンスが、ふたたびレミレルーアを見つめている。
彼の目の奥に漂っていた光は柔らかかった。
「それはおまえの人生を否定する」
(ああ、やっぱり、そうなのね)
セレヴェンスの言葉が、レミレルーアに確信を抱かせる。
彼はわかっていた。レミレルーアがなにを問うつもりだったのか。それに対する答えも持っていた。
その答えが、レミレルーアの今までを……ベルンハルトに片思いをしていた心を、否定することも。
レミレルーアは、唇を塞いだ指を握って、剥がした。
「だから昨夜は、覚えていないのかって言ったんですね」
レミレルーアが恋をした少年は。
レミレルーアが話すのが好きだと、つたない言葉で一生懸命に伝えてくれた少年は。
艶やかな黒髪と、太陽の光を反射したブラウンの瞳は。
「セレンさま、だったんですね?」
レミレルーアは、決定的な言葉を口にした。
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