5.初恋の思い出と口づけ

 目の前にセレヴェンスの顔があった。


「せ、セレンさま!?」


 驚いてのけ反ったレミレルーアだったが、たくましい腕に阻まれる。

 セレヴェンスに横抱きにされていると気づいたのはそのときだ。レミレルーアは慌ててばたばたと脚を動かした。頬が熱い。いや、頭のてっぺんから首までまるごと熱い。男に抱き上げられるなんて初めての経験だった。しかもこんなに密着して。


「あの、ご、ご迷惑をおかけしました! 大丈夫ですから、下ろしてください!」


 セレヴェンスは答えなかった。レミレルーアが下ろされることもない。

 セレヴェンスが、レミレルーアを抱えたまま歩きだした。彼の頭の向こうに、レミレルーアが落ちてきたらしい裂け目が見える。


「ここ、どこですか?」

「魔物の巣だ」

「まもののす!?」


 どうりでやたら綺麗にくり抜かれた空間になっているわけである。さほど広いわけではないが、穴の高さから見て、自力で登ることができないくらいには深そうだった。


「だ、大丈夫なんですか、思いっきり入っちゃってますけど!」

「家主がいない」


 とりあえずは大丈夫だと言いたいらしい。穴の真下から完全に抜けて、セレヴェンスはごつごつした土の壁に背を預け、座った。


「あの……下ろしてくれませんか……」


 レミレルーアは抱えられたままだ。セレヴェンスの胸を押し返したが、逆にがっつりホールドされてしまった。白い髪がぱらぱらと降りかかってきて、レミレルーアの頬を叩く。


「下ろし……」


 聞き入れてはもらえないようである。諦めたレミレルーアは、ぽかっと口を開けた巣穴の入り口を見上げた。


「ベルンハルトさまはどうしたんですか」

「戻った」

「基地から助けを呼んできてくれるってことですか」


 セレヴェンスが頷いた。

 だんだんこの男のことがわかってきた気がする。極端に口数が少ないが、きちんと受け答えはしてくれる。そして、会話をする意思がないわけではない。


「どうした」

「え?」

「話していただろう」


 レミレルーアが落ちる前のことだ。レミレルーアたちがすっかり足を止めてしまっていたから、内容は聞こえないまでも、なにかあったと察したのだ。


 レミレルーアは、苦笑いで誤魔化そうとして――。


「……実は」


 口を、開いてしまった。


 月のきらめきのような瞳が、静かにレミレルーアを射抜いた。なにを考えているのかわからない。でも、不思議と落ち着く目だった。


「実は、ベルンハルトさまに言われたんです」


 この人になら、話してもいいかもしれない。そう思った。セレヴェンスは聞いた話を他人に漏らしたりはしないだろう。

 それに……とても真摯に、話を聞いてくれる、気がする。根拠はないけれど。


 だからレミレルーアは、気がついたら洗いざらいをぶちまけていた。ベルンハルトに片想いしていること、両想いだと思っていたのに彼と婚約したのは妹だったこと、ベルンハルトに優しくされるたびに辛くて、でも嬉しいと思ってしまうこと。


 そんな自分が嫌いで、頑張って気持ちを押し殺していたのに。

 ベルンハルトが、レミレルーアのことを好きなのだと、今しがた判明したこと。


「辛いのか」


 すべてを聞き終えたセレヴェンスが発したのは、たった一言だった。


 それで十分だった。

 レミレルーアの視界がみるみるうちに滲んで、セレヴェンスの姿がかすむ。


「い、いまさら……好きって」


 言われても困る。

 だってベルンハルトはユティアーヌを選んだ。


 どうしていまになって、レミレルーアが聖女として隣に立つことを認めたのだろう。

 どうして代わりでしかないレミレルーアを「僕の聖女」なんて言いきるのだろう。

 いままでレミレルーアに向けていた笑顔が、気遣いが、言葉が、すべて好意によるものだったのなら。


 どうして彼は、レミレルーアを選んでくれなかったのだろう。


 大粒の涙が、レミレルーアの頬をすべり落ちた。生温かい雫は、留まるところを知らずに、次から次へとこぼれてくる。


「……たし、が、もっと早く……告白、していれば」


 きっと、こんなに苦しまずに済んだのだろう。後悔したって遅い。


「ごめんなさい、こんな話……セレンさま、興味ないのに」

「いや」


 否定の言葉は、驚くほど優しい響きを持っていた。


「私は……話すのが、あまり得意ではない。おまえが自分から話してくれるのは、ありがたいよ。好きなだけ心のうちを零せばいい。ぜんぶ聞くから」


 それは初めて聞く、セレヴェンスの長い台詞だった。


 レミレルーアの頭の奥が、ちり、と音を鳴らす。


(昔、似たようなことを……誰が)


   ◇ ◇ ◇


 一度口を開くと際限なくしゃべり続けてしまうのは、レミレルーアの悪い癖だった。


 その日もそれで叱られて、せっかくのパーティーなのに、庭の隅っこで丸くなって泣いていたのだ。膝を抱えたまま、顔を埋めていた。


 だから隣に人が来ていたことなんて、全然気づかなかった。

 そっと、背を撫でられるまでは。


 驚いたレミレルーアが顔を跳ね上げると、真っ先に目に入ったのは、艶やかな黒髪だった。丹念に梳ったように繊細な髪は、その少年の肩のあたりではらはらとなびいていた。


 なにを考えているのかわからない。

 同情するでも、一緒になって悲しむのでもなく、ただその金の瞳でじっとレミレルーアを見つめて、黙って背中を撫でていた。


 そのときもレミレルーアは、しゃくり上げながら、ぽろりと零したのだ。


「う、うるさいって……お父さまにおこられちゃったの。わたしは、しゃべりすぎなんだって、もっとおしとやかにできないのかって、それで」


 涙と一緒にぼろぼろと吐きだして、やはり途中で気づいて口をつぐむ。父が怒ったのはこういうところだった、と。相手のことも考えずに勝手に言葉を重ねて、嫌な思いをさせるのだと。


 でも、レミレルーアの隣にしゃがみ込んだその少年は違った。

 わずかに口元を緩めて、笑ったのである。


「もっと、聞きたい」

「え?」

「ぼくは、じょうずに話せない。いつも怒られるよ。もっと愛想よくしなさいって。でも、どうすればいいかわからない」


 だから、きみがたくさん話してくれるのは嬉しい。好きなだけ話してほしい。ぜんぶ聞くから。


「ぼくは、たくさんしゃべるきみが好きだよ」


 あのとき、そうやってレミレルーアを肯定してくれたのは。

 

   ◇ ◇ ◇


 セレヴェンスの指が、レミレルーアの頬を撫でた。


 ぐい、と涙をぬぐわれる。

 頬の感触をたしかめるように何度も往復して、そのまま手のひらで、レミレルーアの顔を包みこんだ。


 見上げたその端正な顔に、微笑みが乗っていた。

 あのときレミレルーアに寄り添ってくれた少年の笑顔が、重なって見えた。


「セレンさま、もしかして……ンっ」


 視界を金と白が埋め尽くした。

 互いの唇が触れていたのは、ほんの一瞬。


「あいつを好きでいるのが辛いなら、私を好きになればいい」


 とろけそうな声音だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る