4.禁忌の告白と魔物の巣
初めて入った霧の森は、不気味なところだった。
どの木々も、幹を奇妙にねじりながら空へと伸びている。下草は生き物のように足首に絡みつくし、苔なんかは足の裏にねっとりと貼りつく。魔物の魔力を糧として育った弊害だろうか。とにかく、すべての植物が気味の悪い変化を遂げているようだった。
ニュアージュに到着した翌日、レミレルーアとベルンハルトとは、ユティアーヌが襲われたという場所に向かっていた。
ふたりきりではない。レミレルーアもベルンハルトも、霧の森に入るのは初めてだ。ユティアーヌの件もあって、初心者だけで霧の森に踏み入るのはあまりにも危険だった。だからひとり、同行を頼んだのだ。
先導するのはセレヴェンスだった。
彼が基地にいる騎士のなかで一番の手練れだからである。頼んだのはレミレルーアだ。基地の者たちの彼に対する態度が気に入らない、レミレルーアのささやかな反抗だった。
レミレルーアがセレヴェンスの名前を出したとき、ベルンハルトは首を傾げて、なんだか奇妙な顔をしていた。てっきり渋られると思っていたのに、反対はされなかった。奇妙な顔をしたいのはレミレルーアの方である。
「気をつけてね、レミィ」
「大丈夫です! 転んだりしませんから!」
足元に気を取られていると、突然目の前に影が差した。垂れ下がった枝だった。びくりと肩を跳ね上げたレミレルーアの足が、つるりと滑る。
「わっ」
「おっと」
ベルンハルトがすかさずレミレルーアの腕を掴んだ。たたらを踏んだレミレルーアは、ギリギリで倒れずに済む。
間近でふたりの視線が交差した。
頬に熱がのぼってくるのを感じて、レミレルーアは顔を逸らす。
「ありがとうございます……あの?」
レミレルーアがしっかりと両足で立っても、ベルンハルトは掴んだ腕を離さなかった。
「ねぇ、レミィ」
「はい?」
「君はてっきり、僕のことが好きなんだと思ってた。僕も君のことが好きだから」
絶句した。
突然鋭いナイフで内臓を斬り裂かれたような心地だった。からだの中心が、すっと冷たくなる。
いま、ベルンハルトは、なんと言った?
「セレヴェンス・グラディオールが好きになったの? たしかに、彼はとても綺麗な顔立ちをしているけれど」
あとの台詞は、ほとんど頭に入ってこなかった。
「ベルンハルトさま、いま、私を……」
「うん、好きだよ」
今度は、心臓を正面から刺されたような衝撃が走った。
レミレルーアは、ベルンハルトから腕を取り戻す。それだけでは足りず、さらに一歩、距離をとった。
好きだ、なんて。
その言葉を、どれだけ欲していただろうか。レミレルーアは、ずっとベルンハルトが好きだった。
それなのにどうしてだろう。嫌な汗が吹き出してくる。喜ぶことができない。
それは。
「ずっと前から好きだったんだよ。もう、五年くらいになるかな」
それは、彼の言葉が、レミレルーアのこれまでの苦しみを、すべて否定するようなものだったからだ。
(五年も前から? だって、それなら、どうして)
ベルンハルトに嫁ぐのが、レミレルーアではなくてユティアーヌなのだろう。
さらに一歩、レミレルーアが後ずさったときだった。
踵が、地面に吸いこまれる。
地面が崩れて、暗い裂け目が姿を現した。
「――あ」
内臓が持ち上がるような浮遊感。レミレルーアのからだが傾いて――。
レミレルーアの心を表すように、真っ逆さまに落ちていった。
◇ ◇ ◇
レミィ、と叫ぶ声が聞こえた。
セレヴェンスが振り向けば、呆然と立ちすくむベルンハルトがいた。レミレルーアの姿がない。
「どうした!」
「……魔物の巣だ」
駆け戻ったセレヴェンスを、ベルンハルトが恐怖に染まった顔で振り仰いだ。足元に目を向ければ、なるほどたしかに、ぱっくりと口を開けた裂け目があった。
地中を棲みかとする魔物の巣だ。洞窟のように深く、暗い。おまけにひどく寒い。セレヴェンスも一度だけ、落ちたことがある。
魔力をみなぎらせて視覚を強化すると、光の届かない巣のなかに、レミレルーアが倒れているのが見えた。動かない。気絶しているようだ。
万が一のための縄を持っておかなかった自分の準備の甘さが悔やまれた。セレヴェンスかベルンハルトか、どちらかが基地に戻って助けを呼ばなければならない。
セレヴェンスは即座に身を屈めて、穴に飛びこもうとして――やめた。ここでレミレルーアの傍にいるべきは、自分ではないだろう。昨夜のレミレルーアの話を聞けば、彼女の心がどこにあるかなんて明白だった。
「ハルバ――」
「レミィ、ああ……どうしよう。僕が引き留めたりしないで、すぐに先に進んでいれば」
ベルンハルトが傍にいてやるべきだ、という考えは、彼の顔を見て即座に吹き飛んだ。レミレルーアを案じていることはわかる。助けられなかったことを後悔しているのもわかる。
――でも、それだけだ。
こいつは、嘆くばかりで、なにもしようとしない。
「私が降りる。おまえは助けを呼べ」
セレヴェンスの口が紡いだ言葉は、提案しようとしたのとは真逆のことだった。
「降り……降りるのかい、ここに?」
ベルンハルトの踵が、すっとうしろに引かれた。
それがまた、セレヴェンスの苛立ちをかき立てる。セレヴェンスはベルンハルトに返事もやらずに、魔物の巣へ飛びこんだ。セレヴェンスの鍛えたからだならば、これくらいの高さを降りることなどたやすい。着地と同時に膝を曲げて、衝撃を吸収する。
横たわるレミレルーアに顔を寄せて、息を確認した。そっと後頭部に触れるが、目立った外傷はなさそうである。セレヴェンスは、ほっと安堵の息をついた。
レミレルーアを抱き上げてから裂け目を見上げると、ベルンハルトはもういなかった。レミレルーアが落ちたときはもたもたしていたのに、いざ基地に戻れと指示すれば、逃げ足は速い。
(……情けない男だ)
ますます失望した。
レミレルーアは、あんな男のどこがいいのだろう。
レミレルーアの心そのものを否定するようで気が進まないが、セレヴェンスにはどうしても理解できなかった。だって、ベルンハルトの態度はどう見たって異常だ。
レミレルーアが彼を慕っているのは目に見えてわかったし、ベルンハルトの方も、レミレルーアを特別大切に扱っているように見えた。てっきりふたりは婚約でもしていると思っていたのに、ベルンハルトの婚約者は、数日前に霧の森で倒れたレミレルーアの妹の方だという。
(僕の聖女……だったか)
昨晩セレヴェンスを牽制したのだって、周囲の耳目を気にしてのことではない。ベルンハルトのあの目は、自分の女を取られまいとするものだった。
ベルンハルトは婚約者がありながら、別の女に恋人のように接している。
よりによってそれがレミレルーアなのが、気に入らない。
レミレルーアが自分のことを覚えていてくれたら、どんなによかったことか。すぐにでもあの、腐った性根を優しさでくるんで隠したような男から引き離してやるのに。
セレヴェンスは、思わずレミレルーアを抱いた手に力を込めた。
「……ん」
うっすらと、レミレルーアのまぶたが開く。
紫水晶が、セレヴェンスを映した。
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