2忌避と一度も浄化されなかった澱み
セレヴェンスを恐れるささやき声が、地面を這うように広がっていく。
「おい、誰か浄化してやれよ……」「いやよ、澱みがうつったらどうするの」「誰かいねぇのかよ。でないとあいつ、あのままここ歩き回るぞ」「あなた浄化の力強いでしょ、行きなさいよ」「いやよ、近づきたくないわ。穢れた騎士なんて」……本人に聞こえるのもおかまいなしである。
あまりにも醜い押しつけ合いに、レミレルーアははっと我に返った。
(……え、嘘。誰も行かないの?)
澱みがうつるなんて迷信だ。でなければ、魔道騎士たちを浄化して回っている聖女たちは、とっくに澱みに汚染されている。
わかり切ったことだろうに。
思わず足を踏みだした。
「どこにいくの?」
ベルンハルトに腕を掴まれる。
「放っておけません」
「だめだよ、相手は穢れた騎士だ」
彼の口からそんな言葉が飛び出たのが信じられなかった。レミレルーアの頭に、かっと血がのぼる。
「そんなこと言わないでください!」
噛みつくように声を張って、ちょっとだけ後悔した。
ベルンハルトの瞳に浮かんでいるのは、セレヴェンスへの嫌悪感などではなく、レミレルーアへの心配だったからだ。
(っいやいやいや、だめよレミレルーア! しっかりしなさい!)
ここは折れてはいけない場面だ。ベルンハルトがユティアーヌと婚約してから、彼の意思を大袈裟に尊重するのはやめようと誓った。気持ちをなくすことはできないが、線引きならできる。きちんと線引きしていれば、いつか気持ちも落ち着くはずだ、と。
「澱みは人にうつりませんし、私は大丈夫です。それよりもここで彼を見捨てた方が、私は気分が悪くなります。今日は休息日でしょう。ベルンハルトさまは出動しませんし、私が力を惜しむ必要はありません。いいですよね?」
重ねて頼めば、ベルンハルトは困ったように笑って……レミレルーアの手を離した。
「レミィがそう言うなら……わかった、行っておいで」
「ありがとうございます!」
よかった、わかってもらえた。レミレルーアはぱっと笑顔を浮かべて、セレヴェンスのもとに駆け出した。
セレヴェンスはレミレルーアが目の前に立っても、表情ひとつ動かさなかった。ただ黙ってレミレルーアを見下ろした。ただでさえ背が高いのに、鍛え上げられたからだと、腰に引っ下げた大剣が、威圧感に拍車をかけている。
「セレヴェンス・グラディオールさま。あなたの澱みは、私が浄化します!」
「……レミレルーアか」
「えっ」
どうして名前を知っている。
しかし、それを問う間はなかった。セレヴェンスが背を向けて、歩いていってしまったのである。少し離れたところで足を止めて、ちらりとレミレルーアに目を向けた。
どうやら、ついてこいということらしい。
レミレルーアはほんの少し躊躇って、ベルンハルトを振り返る。彼が頷いてくれたので、ぺこりと頭を下げて、駆け足でセレヴェンスの背中を追う。
セレヴェンスが向かったのは、基地の隅に追いやられたようなテントだった。それなりに広いのに、畳まれている寝袋はひとりぶんしかない。セレヴェンスがひとりで利用しているようだった。
適当なところに腰を下ろしたセレヴェンスの顔に、はらりと髪が被る。ごつごつした指でそれを耳にかける仕草は、一枚の絵画のようだった。
それも当然だ。
(……綺麗な人だな)
セレヴェンスという男はたいへん優れた容姿をしている。睫毛は長くてきらきら輝いているし、すべての顔のパーツがここぞという場所におさまっていた。普通なら、聖女たちが我も我もと押し合い圧し合い、浄化の担当をしたがるはずだ。
それがないのはやはり、ここまで絶えずたれ流しながら引きずってきた澱みと、彼の髪色が原因だろうか。
ふん、と気合を入れたレミレルーアは、セレヴェンスの前に膝をついた。迷わずその手に触れると、セレヴェンスがぴくり、と少しだけ反応する。
「怖くないのか」
「なにがですか」
何度も言うが、澱みは人にうつらない。髪の色のことなら、ただ魔力を使いすぎて色が抜け落ちただけだ。痛ましいとは思えど、恐怖する理由なんてどこにもないだろう。
レミレルーアは目を閉じて、浄化の力をセレヴェンスに流しこんだ。
ぶわっと光が膨らむ。風に吹かれたように、レミレルーアとセレヴェンスの髪が舞い散る。
レミレルーアは顔をしかめた。
浄化の力が押し返される感覚がある。
それはつまり、レミレルーアの力が負けるほど濃い澱みが、セレヴェンスのなかに溜まっているということだ。
(手ごわい……ユティアーヌにしたのと、同じくらいの力が必要かもしれない。本当にこれ、ぜんぶ、今日だけで?)
うっすらとまぶたを開いたレミレルーアは、セレヴェンスが装備している剣を見た。
柄の部分にはめこまれている石は、魔石と呼ばれるもので、もとは魔物の核だったものだ。人間は、魔力は持っていても、それを魔法として出力することができない。魔法を使うためには、媒体として魔石が必要なのだ。
セレヴェンスの剣の魔石は、澄んだ水色をしていた。割れたりもしていない。普通の魔石だ。それなのに、どうしてこんなに大量の澱みを抱えているのだろう。
外での、周囲の聖女たちの反応を思いだす。嫌な予感がした。
(まさか……いや、あり得ないわ)
誰にも浄化されないまま連日戦い続けていたのではないか、なんていやな考えが頭をよぎった。
レミレルーアの手が無理矢理引きはがされたのは、次の瞬間である。
「もういい」
え、と間抜けな声が口から洩れた。
だってレミレルーアは、まだ半分も浄化できていない。
「問題ない。十分だ」
「いや、問題しかないですけど! まだ終わってませんって」
「おまえの力は強いな」
こんなにからだが軽くなったのは久しぶりだ、とつけ加えられたセリフで、レミレルーアは天を仰いだ。いやな考え、的中である。
(ほ、本当に……今まで誰も、セレヴェンスさまの澱みを浄化してなかったのね!)
澱みを溜めこむというのは、臓腑を侵される死病にかかるのと同じくらい影響がある。放っておけば死に至る。だから聖女がいる。
それなのに。
「セレヴェンスさま、最後まで浄化しましょう! このままじゃ」
「構わん」
一刀両断だった。言うや否や、セレヴェンスは立ちあがって、テントの出口に向かってしまう。
「セレヴェンスさま!」
「セレンでいい」
少しだけ振り向いたセレヴェンスの口元には、ほんのりと笑みが乗っていた。この状況で、この人はなんで笑っているのだ。怒りが沸々と湧いてくる。
「つ、次からは私を呼んでください! 私がセレンさまの浄化をやります!」
「おまえはハルバスの聖女だろう」
答えはそれだけだった。ぱさりとカーテンが閉じる。
テントのなかには、レミレルーアだけが取り残された。
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