一章 一、興和村の紅怜

 攞新国の西南に、なだらかな丘陵と棚田が広がる、興和こうわと言う村がある。

 秀光の圧政で苦しむ村の一つでありながらも、興和と言う名通りに、住んでいる皆で協力し合い、皆で心を豊かに紡ぐ村であった。


 そんな穏やかな人々が暮らす村の中で、太陽の様に皆を照らし温める存在が一人いる。


 大雑把に肩辺りで切り揃えた黒髪、中性的で麗しい顔立ち。まだ伸びしろがありそうな背丈で、細い体つき。その身体を包むのは、質の悪い麻の着物。けれど、そんな粗悪さを霞ませる程の朗らかで明るい雰囲気。


 その者、名を……

「あぁ、紅怜こうれん! おはようさん! 今日も早いねぇ!」


「おはよう、みつばぁちゃん!」

 紅怜は自分に挨拶をしてくれたみつばぁに、ぶんぶんと大きく手を振った。


 鈴を転がす様な声でとても可愛らしく、愛らしい相貌も相まって弾ける笑顔が一段と輝く。

 それだから、みつばぁの顔も更に柔らかく綻んだ。


「朝早くから麓を降りて、全部の家を回るのは大変だろうに。今日も来てくれてありがとうねぇ」

「アタシの事なんて気にしないでよ、みつばぁちゃん。それにちっとも大変じゃないんだから! 村の皆の笑顔を見ると元気になるし、皆と喋ると幸せな気持ちになるからね!」

 えへへっと朗らかに笑いながら答える紅怜。


 そんな彼女にみつばぁは目を少し潤ませ「本当にお前さんは優しい子だねぇ」と呟いた。そして「これ、持って帰りなさいな」と、手にしている籠から丸々と立派に太ったトウモロコシとシュッと細長いキュウリを二本ずつ手渡す。


 紅怜はずいと前に出される野菜達に、「いやいや!」と困惑と焦りを滲ませながら答えた。

「貰えないよ! だってこれ、年貢の一部になるやつでしょ? それにアタシ、知ってるんだよ。また年貢の量が増えて苦しくなるって」

「良いの、良いの!」

 みつばぁは彼女の遠慮を朗らかな笑顔で遮り、強引に野菜達を渡らせた。


「子供がそんな事を気にしなさんな! 育ち盛りなんだし、たんと食べてたんと大きくなんなさいや!」

 ずしりと手に来た重さに、紅怜は眉を八の字にして受け取りながらも「ありがとう、みつばぁちゃん」と喜色を浮かべる。


「稽古の後、父さんと一緒に食べるね」 

「うんうん、そうしなさいな」

 紅怜はみつばぁの朗らかな笑みをまっすぐ受け止めてから、「じゃあアタシ、行くね!」と走り出した。


 ゆっくりと夜を塗り替える太陽が、そんな彼女の朗らかさを彩る様に煌々とした日光を差し込む。


 紅怜は眩い光を背に、タタタッと畦道を元気よく走った。


 彼女の草履が前へ前へと軽快に進む度に、パッパッと砂利が高らかに飛び跳ねる。道ばたに生えた草花が、彼女の風に揺らされ、「おはよう」と心凪ぐ音を奏でた。

 空を悠々と泳いでいた鳥達も、朗々と走る彼女と並走する様にして飛び始める。


 自然が彼女に付いて行き、彼女はそんな全てを連れて走って行く。


 そうして次から次へと興和の村にある家を渡り、村人と言葉を交していくのだ。

 彼女の笑顔が弾けた場所には次々と笑顔が咲き、連々と穏やかな幸せが紡がれていく。


 興和の名を付けたのは彼女ではないが、彼女はまさしく「興和」そのもの。故に、帰路につき、自身の家の戸を開く時には、彼女の両手はいっぱいに塞がっていた。

「父さん、ただいまぁ!」

 腕一杯、手一杯の彼女は戸を開けてもらおうと声を張りあげる。


 そうしてガラッと開かれる木の戸と同時に、彼女はヨタヨタと内へ進み、「よっこらしょぉ!」と貰った物達を置いた。


「おぅおぅ、これまたすげぇ量じゃねぇかぁ」

 安穏とした物言いながらも、紅怜の目の前にいる男・牙琥がくは若干引き気味な顔で言う。


 ちょこんと後ろで一つに結って、小さく纏めている白銀色の髪。目鼻立ちは整っているが、夜更かしを続けているせいで疲労と老いが露わになっている顔。シュッと華奢な容姿だが、質の悪い麻で覆われた衣服が隠しているのだ。がっしりと逞しく付いた、彼の筋肉を。


「悪いから良いよって言ってるんだけど。皆、良いから良いからってくれるんだ」

 申し訳ないよね。と、紅怜は肩を落としながら答えた。


「父さん、アタシ、やっぱり返してこようかな」

「皆、お前にやりたくてやってるんだろぉ? その優しさを無下に突っ返される身になってみろぉ」

 牙琥はぶっきらぼうに言い返すと、「だからこう言うのは、素直にもらっとくもんだぁ」とカツカツと手にしている煙管の灰を打ち捨てた。


「例えこれが後の自分達の苦しみに繋がったとしても、お前に物をやった奴等は後悔なんざねぇだろうよぅ」

「……そうかなぁ」

 紅怜は、目の前に広がった貰い物達を前に、うーんと考え込みながら言う。


「ガキにはまだ分からねぇかぁ」

 牙琥は懐からマッチを取り出し煙管に火を入れ、憮然としている紅怜に向かって、ふうと煙を吐き出した。


 紅怜は吐き出された紫煙に「辞めてよっ」と小さく怒鳴りつけ、ぶんぶんっと手を大きく振って煙をかき消した。

「父さん! アタシ、もう十六だよ!」

 もう立派な大人! と、頬を膨らませて荒々しく訴える。


 だが、牙琥は「まだ、十六だろぉ」と、依然飄々としたまま打ち返した。


「成人は十五でしょ。だからもうアタシは大人ですけど?」


「俺にとっちゃあ、十五も十六もケツの青いガキだよ」


「……まぁ、ね。父さんみたいな人にはそう見えちゃうかもね。でもさ、父さんも見た目以上に老けてるお爺ちゃんだから、年相応には見えないよ。今何歳だっけ? 四十二?」

 見えないねぇ! と、紅怜はケラケラと笑う。


 すると目の前から「お爺ちゃん、だぁ?」と、地を這う程に低く、ビリビリと覇気を纏った物々しい声が発せられた。


 だが、紅怜はそんな声に一歩も怯む事なく「うん」と、朗々と言葉を継ぐ。


「もう髪はすっかり白髪だし、顔も皺とシミが増えたしね」

「白髪?……俺の髪を白髪呼ばわり……この髪をぉ……言うに事欠いて、白髪、だとぉ?」

 牙琥はブツブツと独りごちてから、鋭く光らせた眼をユラリと紅怜の相貌へ向けた。


「俺の見た目をイジるなんざぁ、良い度胸だなぁぁ?」

 表出ろぉ。と、牙琥はくいっと戸の近くに立てかけられた木刀を顎で指す。


「今日は手加減しねぇぞぉ」

「上等よ! 今日こそ一本は取ってみせるんだから!」


 紅怜はふんっと荒々しく鼻息を吐き出してから、自身の木刀をサッと手に取る。そして猛々しく表へ飛び出し、後から煙管を吹かしてやって来た牙琥に向かってダッとかかった。


「やーっ!」

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