二、それは誰にも止めらぬ

「王がご逝去なさった」と言う知らせは、瞬く間に王城に広がった。そしてすぐに城下に、町に、村に……攞新国の国土にくまなく広がる。

 国の皆が、心優しき王の逝去に嘆き悲しんだ。悲しみという濃藍色一色に染まり、誰もが王の死を悼んでいた。


 しかしたった一人だけ、悲しみではない青色に染まっていた男がいた。


「くそっ! くそ、くそ、くそっ!」

 肩を怒らせ、荒々しい足で床を踏みつけながら、自室を猛々しく闊歩しているのは、逝去した王の長男・秀光である。


「私が次代ではないと言うばかりか、次代は香凜こうりんにあると? ! ふざけるなっ!」

 唾をピッピッと吐き散らして、彼は目の前にある器や本を乱暴になぎ払った。


 器はガシャンガシャンッと甲高い悲鳴をあげて粉々に割れ、本はバサバサッと乱雑に着地する。

 しかし秀光は「砕け散った物達なんぞには用はない」と言わんばかりに、己の内で高ぶる怒りを発散させ続けた。


「香凜は赤子と言うだけではない、 

 バキバキッ、みしみしっと彼の靴の下で、すでに粉々にされた物達が更に悲鳴をあげる。


「だと言うのに、王位に就くと? ! 男を、それも父である私を退けて? !」

 そんな馬鹿げた話があるかっ! と、秀光は雄叫びの様な怒声を張り上げ、残っていた器を力いっぱい壁に叩きつける。

 見事に焼き上げた均整な器が、刻まれ込んだ職人の命が、呆気なくバラバラと散った。


 それでも彼の怒りは鎮まらない。

 そう、彼は図らずも耳にしてしまったのだ。麒泉の儀で知るはずの話を……最後の頼みに応えた雷煆の告白を。


 あの部屋の「内」には、王の侍医と麒麟の雷煆。そしてベッドに横たわった前王しかいなかった。

 しかしそのすぐ「外」に、彼はいた。居てしまったからこそ、父の死の悲しみを超過した怒りが、轟々と沸き立ち続けているのだ。


「何故、私ではないのだっ!」

 投げ捨てる物がなくなった手が、ダァンッと机を荒々しく叩きつける。


「……秀光様、どうか、どうかお鎮まりを」

 怒り狂う彼に、おずおずと側近の男が宥めに入った。

「今は父君の死を悼む事の方が」

「黙れっ!」

 秀光は自らの怒りに水を差した男をバシッと力強く張り倒す。


 側近は床に倒れ伏したが、「も、申し訳ありませんっ!」とすぐに身を縮めて叩頭した。


 しかし秀光の怒りは、陳腐な土下座程度では収まらない。


「おい! 私はあんな赤子よりも、この国の王に相応しくないのか!」

「そ、そんな事はありませぬ。秀光様は実にご立派な殿方であらせられます」

「では、何故選ばれない! この私が、王の長男である私が! 何故選ばれないのだ!」

 秀光は弱々しい否定に瞬時に噛みつくと、「あああっ!」と狂乱し始めた。頭をガシガシと掻きむしりながら抱え、床に散乱した欠片の上を右往左往する。


 側近は「そう言われましても、麒麟様がお選びになるものですから」と、弱り果てた言葉を吐き出しかけた……が。彼はグッとそれを奥に押し込めて、無言を貫いた。


 実に、懸命な判断である。


 激昂し、冷静と理性を失った男にはどんな言葉をかけても無意味だ。ましてや「その怒りを向けるべき相手が間違っているのではないか」と言う諫言は、命の危機に瀕するであろう。

 王位を継げないとあっても、


 側近の男は口をキュッと真一文字に結び、目の前で狂乱する男を見守るしか出来ない。


「麒麟は何故私を選ばないのだ! 何故あんな赤子を主と立てる? ! 馬鹿馬鹿しい、あの化け物は間違っている! 間違っているわ!」

 彼は喚き散らす様に吐き出すと、唐突にピタと止まった。唾を吐き散らす事も辞め、物に当たり散らす事も辞め、右往左往していた足もその場でピシッと固まる。


 怒り狂っていた台風の「目」が現れたのか、あまりにも不気味な静止に側近の男はゴクリと息を飲んだ。


 すると秀光の口から「おぉ、そうとも」と、言葉が飛び出す。


 まるで誰かと会話をしていたかの様な言葉に。あまりにも冷ややかだが、あまりにも朗々とした声音に、側近の男の身体に戦慄が走った。

 だが、彼の恐れはそれだけで終わらない。

 秀光の目がゆらりと自身を貫き、ニタリと不気味な笑みを向けられたのだ。

 男の身体が、ゾクゾクッと総毛立つ。


 何だ、何だ。何をお考えなのだ、このお方は……。


 側近の男の心に、じくりと不気味な予感が蠢いた。その時だった。


「白攣姫と香凜を殺すのだ」

 側近の予感が、最も悪い形で的中してしまう。


「秀光様、どうか、どうかお考え直し下さいませ」

 艶やかに囁かれた命に、側近の男は肝を縮ませながら食い下がった。

「白攣姫様は貴方様の最愛の寵妃であらせられ、香凜様は生まれたばかりの子。貴方様の御子ではございませんか」

 どうか再考を。と、彼は低心頭に頼み込んだ。


 そんな彼の上に、サッと黒々しい影が落とされる。側近の男がおずおずと頭を上げると、暗闇を填めた様な真黒の瞳で自分を厳しく睨めつける秀光の顔が眼前にあった。


「寵妃であった、のだ。御子であった、のだ」

 秀光は淡々と告げる。


「しゅ、秀光様……あ、あった……とは……?」

 過去として語られた真意が掴めず、側近の男は訥々と訊ねた。


 すると彼の口から思いも寄らぬ言葉が、あっけらかんと飛び出す。


「白攣姫は麒麟の奴と不義密通をしていたのだ」

「は……?」

 あまりにも突飛で馬鹿馬鹿しい言葉に、側近の男の口がガパッと大きく開かれた、いや、落とされた。


 だが、そんな間の抜けた顔を前にしても、秀光は泰然と言葉を続ける。

「故に、香凜も私との間の子ではなく、麒麟との子よ。あの女は生まれも卑しく、地位も名誉もない。自身の美貌しか取り柄のない女なのだ。だから我が子を王位に就ける為に、麒麟を誑かした。そして麒麟も白攣姫の為にと、香凜を次代に取り立てたのだ」

 そうに違いあるまい! と、高らか且つ朗らかに彼は張り叫んだ。


「あの毒婦は、私を騙したのだ! うむ、それを許す訳にはいかぬな! 即刻奴等を捕らえ、母子ともに死刑に処すのだ!」

「そんな!」

 絶叫にも近い悲鳴が、側近の口から飛び出す。


 それも当然だ。

 何故なら、彼は……否、城中に居る者はよく知っているからだ。


 白攣姫は容貌の美しさだけにあらず、その心も美しく、清廉である事。とても優しく、とても温かな心の持ち主である事。そして秀光の一目惚れで妃に取り立てられた演者であり「入宮したからには……」と秀光ただ一人に、健気に仕えている事を知っているのだ。


「それはあんまりでございます、秀光様!」

「この私に意見するな!」

 秀光は臣下の絶叫を怒声で潰し、力強い暴力で不平を封じ込める。


 側近の男は「うっ!」と崩れるが、その場でガバッと頭を床に突いた。ジンジンと痛む頬を抑える事もなく、彼はただ必死に異常と化した彼を窘める。

「秀光様、どうか冷静になってお考え下さいませ! その様な事をすれば麒麟様の逆鱗に触れ、貴方様の御身が危うくなってしまいまするぞ!」

「黙れっ! 黙れ、黙れ、黙れっ!」

 秀光は更に激昂すると、目の前で小さく丸まる男を蹴飛ばした。


 彼の靴先が側近の男の腹部にしっかりと入り込む。

 その力に抗えず、側近の男の身体は向けられた力の向き通りに吹っ飛ばされた。


「あうっ」と醜い呻き声が零れたが、その呻きは誰の耳にも入らなかった……空気にすら拒絶されてしまった。


「これ以上何か言ってみろ、お前もあの毒婦に取り込まれた男として処刑するからな!」

 と、猛々しく浴びせられる怒声が、全てを飲み込んでいたからである。


 嗚呼、駄目だ。駄目だ、止められない。


 この男の狂気は、この男の激昂は……誰も、止められやしない。彼が王となるその時まで、止められやしないのだ。


 側近の男から、ツウと涙が零れ落ちる。それもまた、止められるものではなかった。


「人の世に麒麟達は必要ない! そうとも、これからは人の力だけで国を作っていくのだ! 良いか、皆にこの私が王となると伝えろ! そして麒麟と不義密通をしていた白攣姫とその娘香凜を捕らえて、処刑せよ!」

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