攞新国紀〜亡命王女が女王と成るまで〜

椿野れみ

零章 一、王の側で

 東和の海にある攞新らしん。そこは、四神の頭首・麒麟きりんが仕えるべき主と見定めた者を王に立て、安寧たる平和と豊かな国力を民と共に紡ぐ国である。


 そんな平穏な国に、一大事の危機が訪れようとしていた。現王の身が滾々と病に蝕まれ、崩御の時がいよいよ迫ってきたのである。


 胸からひやりとする小さな塊が緩やかに引き上げていく。


 薬のせいか、睡魔のせいか。広がる霞を綺麗に拭えぬまま、私は目の前に居るはずの侍医に視線を向ける。


「……王様」

 酷く痛切な声が小さく吐き出された。これは、私の胡乱げな眼差しを受け取ったばかりの事ではなかろう。


 私は弱々しく唇を結び直してから「そうか」と、答えた。


 嗚呼、なんと私らしくない声だろうか。と哀しく思うと同時に、私は痛切に理解する。


 じわじわと消え失しているのは生来の覇気ばかりではなく、この命の灯火までもである、と。


 私は「苦労であったな」と、長年勤勉に仕えてくれた侍医を労ってから「雷煆らいかはおるか」と、小さく尋ねた。


 侍医の口から悔しげで、苦しげな嗚咽が聞こえると同時に「ここに」と、淡麗な声が耳に心地良く入る。


 もう焦点も合わなくなった目では、彼の姿は朧気にしか見えないが。相も変わらず、彼の容貌は若々しく、そして実に見目麗しいものなのであろう。


 紺碧の長髪は流麗に流れ、華奢な腕が通す服は実に見事な錦糸が艶やかな胡蝶と華を紡ぐ黒の狩衣。白磁の様に色白で、老若男女を虜にする程の容姿。


 スッと切れ長の目に填められた金色の瞳を見てしまえば、人ではないと思い知り、我が身を恐怖で強張らせてしまうものだが。すぐにとろんと穏やかな心地になって、固まる全てがボロボロと呆気なく瓦解していくのだ。


 実に不思議な話であろう。しかしながら、それは彼が麒麟であると考慮すれば何ら不思議ではないのかもしれない。


「……雷煆」

 私は訪れた気配を近くにたぐり寄せる様にして、彼の名を呼ぶ。


 するとすぐに「我はここに」と、先程よりも近くで声が飛んで来た。


 雷煆は常に冷静沈着で、的確且つ端的に物を発するのだが。今の声は、どこかいつもと違っている様に聞こえた。


 私は雷煆が居るであろう方に顔を向け、小さく相好を崩す。

「まさか其方が、そんな泣きそうな声をするとはな」

「我をなんだとお思いか。主がこうも弱り伏せった姿を目にすれば、否が応でもこうなりましょう」

 悲しみの中に沸き立つ怒りを感じると、私は「すまない」と弱々しい笑みと共に零した。


 雷煆は何も言わない。


 私はそう分かっていたからこそ「雷煆よ」と、先に話を進めた。

「……今こうして私が色々と案じている事は、どれもこれも民と臣下が一致団結し解決出来る事であろうな。それ程にこの国の者達は強い。故に、私も安心して罷る事が出来ると言うものだ。しかしながら一つだけ、ただ一つだけ、不安がある」

 私はそれをここに残したまま逝くつもりはない。と、消え失せる力をかき集めてきっぱりと告げた。


「雷煆よ、次なる主はいるであろうか」


 そう、唯一と言っても過言ではない心配はそこにある。


 私の後継が、すでにこの国に居てくれるのかどうかがたまらなく不安なのだ。


 雷煆が「主」と見定めた者が居なければ、長きに続いて築かれてきた平穏は崩され、民が辛苦に塗れ、須く闇の底へと堕ちてしまう。


 それだけは何としてでも阻止したい事なのだが……主と見定めるのは、私ではない。臣下でもなければ、民でもない。


 全ては、この目の前に居る麒麟・雷煆によるのだ。


 私は固唾を飲む。嚥下能力がなくなった気管が時間をかけて、トンと下に唾を落とし込んでいった。

 ゴクリと弱々しく鈍い音が弾けた、その時だった。


「すでに」


 私の弱り果てた鼓膜でも、ビリビリと震わせる様な力強い声が降りかかる。


「ご安心召されよ、我が主」


 二言目に紡がれたおおらかな宥めで、内にある大きなしこりが収縮していくが。消え失す手前でピタと止まり、ぽこっと小山がそびえ立った。


 私は「雷煆」と吐き出し、金色の瞳があろう場所へ眼を向けて問う。


「次代の名を……教えてはくれまいか」


 弱々しく吐き出される問いかけに、沈黙が降りた。


 これは私の声があまりにも弱々しいから、彼の耳に届かなかった。と言う訳ではなかろう。彼は前王の死後一週間にある麒泉りんせんの儀まで、次代の名を口にはしないのだ。


 後継者争いをなくす為に、王と見立てた者の支持を煽ぐ為に。そして王と見立てた主の威信と権威を強める為にそうするのだ。


 だから私も、その時に初めて自分が王に選ばれたと知ったのだ。


 私は「いやいや」と、降りていた沈黙を穏やかに破る。

「すまぬ、忘れてくれ。今際の際の戯れ言よ」

 次代が居ると分かっただけで大満足だ。と、内の自分と雷煆に向かって告げる。


 すると「今はまだ……」と、彼の口から静々と言葉が紡がれた。

「生まれて三月の赤子にございます。故に、しばしの間は我と四神が守り、支えて参りましょう」

 その答えに、私の目がじわじわと大きく見開かれていく。


 生まれて三月の赤子、その特徴が当てはまるのは一人しかいない。


 病に冒される二ヶ月前に抱いた孫の事、私の長男である秀光しゅうこうと、その四妃・白攣姫はくれんきの間に生まれた子の事だ。


 私の頭では、外の世界を知って三月ばかりの孫が戴冠し、雷煆や四神を側に従え、民を守っていく姿を思い描く事が出来ない。まだあの子は守られる側の可愛い赤子だ。


 しかし雷煆の目には、そうは映っていないのだろう。


 すでに見えているのだ。あの子が他の誰よりも民の為に動き、国を守る王になる、と。


 私は「そうか、そうか……」と朗らかな安堵を零す。

「実に喜ばしい。うむ、これで心残りは一つもなくなった」

 独り言つ様に安穏と紡ぐと、スウッと意識が安心に引っ張られ始める。


 朧気な視界も徐々に白の世界に染まり始め、何とか捉えていた雷煆と侍医の輪郭ですらも溶け始めた。


「……皆、今まで、よく仕えてくれた。本当に、感謝する」

 私は皆の感謝を口にしてから、最後に雷煆の方を見据えて告げる。


「雷煆よ。私の居ぬこの先も、どうか……頼む」

「……おまかせを。我が主」


 力強いながらも温かな声音で紡がれた誓いを最後に、私は胡乱な彼方へと誘われた。

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