人魚になりたかった半魚人の話

人魚になりたかった半魚人の話

作者 結城 絵奈

https://kakuyomu.jp/works/16818093084703703021


 深海に住む半魚人の少女が、美しい人魚に憧れを抱き、禁忌を破って人魚のラデンと密会を重ねるが、人魚の悲しい運命を知り、自身の価値観が揺らぐ。村での経験や友人との交流を通じて少女は自分の姿を受け入れ、半魚人としての幸せを見出していく。大人になった少女は、人魚と半魚人の関係を正しく伝えるため、古い絵本を描き直す。最後に懐かしい人魚の姿を再び目にし、駆け出していく話。


 ファンタジー。

 ミステリー要素あり。

 児童文学、少年少女小説。

 人魚との交流を通じた自己受容の成長物語。

 独特の世界観と詩的な文体、丁寧な心理描写が魅力的。

 伏線の張り方もよく、興味を引く構成になっている。

 半魚人の視点から見る海中世界が新鮮で興味深い。

 カクヨム甲子園には毎年、人魚を題材にした作品が書かれ応募されてきている。本作のように半魚人を主人公にした作品はなかったので、これまでにない斬新さがある。

 また教訓もあり、考えさせられるところがあるのもいい。


 主人公は半魚人の少女、アナタ。一人称、わたしで書かれたですます調の文体。自分語りの実況中継で綴られている。現在過去未来の順に書かれている。

 

 男性神話の中心軌道に沿って書かれている。

 深海に住む半魚人の少女が、人魚の美しさに憧れを抱いていた。彼女の村では人魚は危険だと教えられていたが、少女は人魚への興味を捨てきれなかった。村の絵本で人魚の話を知り、さらに興味を深める。半魚人の醜い容姿に悩み、人魚のような美しさを手に入れたいと願う。寄り目の友達と人魚の話をし、自分たちの醜さを嘆く。他の種族から蔑まれていることを感じ、自分の体を傷つけようとするほど悩むが、半魚人として生まれた運命を変えることはできないと悟る。

 半魚人の主人公は、ワカメ当番の日に新しい場所を探索する。巨大なワカメを見つけ、その頂点を目指して海の上へと泳ぐ。海の終わりに近づいたところで、砂浜のような場所に辿り着く。そこで人魚の群れを目撃し、魅了される。一匹の人魚ラデンと会話を交わし、名前の概念を知る。しかし、人魚との接触は禁じられていたことを思い出し、急いでワカメを採って村へ戻ろうとする。

 半魚人の少女が、村の掟を破って人魚のラデンと密会を重ねる。少女は自身の醜い容姿を嫌い、美しいラデンに憧れる。村では人魚が危険だと言われているが、少女はラデンの優しさを信じる。しかし、村から失踪した半魚人の噂や、ラデンの不自然な言動から、少女は徐々に不安を感じ始める。村でのリレー大会の計画を聞きながら、少女は自分の幸せな環境に気づくと同時に、ラデンの正体について疑念を抱き始めた。

 村のリレー大会直前、ワカメ当番の主人公は人魚のラデンに会いたい一心で海に潜った。いつもと違う海の様子に気づかず、ラデンとの待ち合わせ場所に向かう。そこでラデンを見つけられず、さらに進んだ先で人間の姿のラデンと怒る男を目撃する。主人公はラデンを守ろうとナイフを投げ、気を失う。

 目覚めると、ラデンと共に海中にいた。ラデンは人魚の過酷な運命を打ち明け、泣き崩れる。誰か一人の人間に愛され結婚しなければ海の泡となって消えてしまうという。主人公はラデンの苦しむ姿に歪んだ魅力を感じるが、すぐに我に返る。ラデンは別れを告げ、ナイフを渡して去っていった。それが最後の対面となった。

 半魚人の少女が人魚に会い、長い間村を離れた後、村に戻る。村人たちは大騒ぎとなり、少女は叱られるが、正直に人魚との出会いを話す。村人たちは話し合い、人魚は危険ではないと結論づける。

 時が経ち、少女は大人になる。彼女は人魚の危険性を描いた古い岩の絵本を書き直す作業をしている。寄り目気味の友達が手伝いを申し出る中、絵本に描かれた半魚人が友達の姉であることが判明する。

 大人になった彼女は絵本に人魚が危険だと描かれている理由を考える。実際には半魚人が人魚を殺す可能性があると推測するが、この真実を村人たちには話せない。

 食事の時間になり、ウロコの大きな友達に呼ばれる。彼女は自分の醜い体への嫌悪感を抱きつつも、もはや人魚を羨まない。家族や友人、村人たちの大切さを実感する。

 人魚のラデンとの思い出を振り返り、ラデンの孤独や苦しみを想像する。主人公は自分の醜さを受け入れ、村人たちを大切にし、ラデンの分も精一杯生きようと決意する。

 食事後、無意識のうちに海へ向かう。巨大ワカメをたどって浅瀬に近づくと、懐かしい後ろ姿を見つける。長い黒髪と銀色のウロコを持つその姿を追いかけて、彼女は走り出す。


 三幕八場の構成になっている。

 一幕一場 状況の説明 

 深海に住む半魚人の少女が、人魚の美しさに憧れを抱いていた。村では人魚は危険だと教えられていたが、少女は興味を捨てきれなかった。半魚人の醜い容姿に悩み、人魚のような美しさを手に入れたいと願っていた。

 二場 目的の説明 

 ワカメ当番の日、少女は新しい場所を探索し、巨大なワカメの頂点を目指して海の上へと泳いだ。海の終わりに近い砂浜のような場所で人魚の群れを目撃し、魅了される。一匹の人魚ラデンと会話を交わし、名前の概念を知る。

 二幕三場 最初の課題 

 少女は村の掟を破り、ラデンと密会を重ねる。自身の醜い容姿を嫌い、美しいラデンに憧れを抱く。村では人魚が危険だと言われているが、少女はラデンの優しさを信じていた。

 四場 重い課題 

 村から失踪した半魚人の噂や、ラデンの不自然な言動から、少女は徐々に不安を感じ始める。村でのリレー大会の計画を聞きながら、自分の幸せな環境に気づくと同時に、ラデンの正体について疑念を抱き始めた。

 五場 状況の再整備、転換点 

 リレー大会直前、少女はラデンに会いたい一心で海に潜る。待ち合わせ場所でラデンを見つけられず、さらに進んだ先で人間の姿のラデンと怒る男を目撃する。少女はラデンを守ろうとナイフを投げ、気を失う。

 六場 最大の課題

 目覚めると、ラデンと共に海中にいた。ラデンは人魚の過酷な運命を打ち明け、泣き崩れる。少女はラデンの苦しむ姿に歪んだ魅力を感じるが、すぐに我に返る。ラデンは別れを告げ、ナイフを借りて去っていった。

 三幕七場 最後の課題、ドンデン返し 

 村に戻った少女は叱られるが、人魚の無害さを伝える。時が経ち、大人になった少女は、人魚と半魚人の関係を正しく伝えるため、古い岩の絵本を描き直す。

 八場 結末、エピローグ 

 過去を振り返り、自身の醜さを受け入れ、村の人々を大切にしながら生きることを決意する。最後に、再び海に出て、懐かしい人魚の姿を見つける。


 人魚の謎と、主人公に起こる様々な出来事の謎が、どう関わり、どのような結末に至るのか気になる。


 冒頭の書き出しは、現在からはじまっている。

 遠景で、「人魚のウワサを知っていますか」と読者に問いかけ、近景で「この海の上の方に住んでいて、見た者を惑わす美しい容姿をしているという、例の生き物です」と説明。心情で「実際に見たことはありませんでしたが、当時のわたしはその人魚というものに強い憧れを抱いていました」と語る。

 まず、主人公は何者なのか?

 人魚が海の上の方に住んでいると表現しているので、海の中、底に暮らしている存在だと想像される。

 人魚に憧れてを抱いていた主人公。

「それがまさかあんなことになるなんて。果たしてわたしのしたことは間違いだったのかどうか、今となってはもう分かりません」

 何事かをしでかしたのだ。

 そして、その結末が良かったのかどうかがわからないという。

「夢は夢のままに終わる方がよかったのかもしれません」

 つまり、あこがれは憧れのままで良かったと思っているので、主人公は人魚に出会ったのだ。

「それでもわたしはこの岩に、こうやって本当に起こったことを描き記しているのです」

 人魚と出会い、なにかが起きた。

 そのことを岩に書き記しているという。

 はたしてなにがあったのか。

 主人公は何者なのか。

 導入の客観的状況の描き方としては、疑問と興味を抱かせて、読者を誘っていて、読み進めたくなる。良い書き出し。


「わたしたち半魚人は、深い海の底にある村でかたまって暮らしています」

 あっさり、主人公が何者なのかわかってしまう。

 主人公の存在よりも、人魚となにがあったのかが、大きな謎なのだ。

   

 半魚人が海底の村で暮らし、家族や村の人達と仲良く暮らし「村はとてもいいところです。泳ぐと冷たい海水が体を撫ぜ、とても気持ちがいいのです。おいしい食料も豊富で安定しています。近くには大きな洞窟があり、眠りたいときや休みたいときはいつでも利用できます。そして何より、村のひとたちは皆フレンドリーで優しいのです」過ごしやすいところだという。

 人間味があってて、共感を抱く。


 食事は「ワカメや食用の魚」であり、「食用と食用じゃない魚の見分け方は簡単です。しゃべらない魚はみんな食用なのです」と説明されている。ここが伏線になっていたのだ。

 魚を取るのは大人の仕事で、子供はワカメ採りだという。

 主人公は少女であり子供なので、魚は取らない。

 ワカメを採ることだけに目を向けさせている。

 親や大人に採取を褒められ、その流れで寄り目気味の友達も「すごいね! そういえば、あたしのお姉ちゃんもワカメを採るのが上手なんだよってママが言ってた!」と出てきて、「寄り目気味の友達のお姉さんは、とても優秀なので遠く離れた場所で何かの訓練をしているそうです」と説明。

 会ってみたいという子どもに対して、周りの大人達は、「なぜか凍りついたような表情をしました」とあり、なにかあることを伺わせている。


 食事の風景が描かれている。

「大きな岩のテーブルに獲れた魚を並べ、みんなで捌いて少しずつ取り分けて食べます。食事前、わたしはよく、みんなで食べる魚のみずみずしい食感を想像してずるりとヨダレを垂らしたものです。もちろん、ワカメを食べるのも楽しみでした。弾力のあるワカメをコリコリ噛みながら、わたしはみんなの会話に耳を傾けます」

 初見だと、楽しく食事をしているのが伝わる。実際、素直に食事を楽しんでいるのだけれども、読み終わった後に読み直すと、違った印象をおぼえる。

 食べたいという本能が現れているのだ。

 こういうところもまた、共感するところだろう。


「相変わらずかな。洞窟から出てくる元気もないようで」「まあ、でもそれより、娘に色々と吹き込んでいるみたいで。正直そっちの方が困るんだよなぁ」

「寄り目気味の友達のお母さんは心の病気らしく、休憩所である洞窟から一歩も出てきません。よく寄り目気味の友達やそのお父さんがお見舞いに行っているところを見かけます」

 なにかあったのだろう。心が病んで閉じこもり、自分の娘にあれこれ吹き込んでいてそれが困るらしい。

 人間社会でもあるような問題が出てきて、こういうところも人間味を感じ、共感を抱いてしまう。


 大人たちは人魚に対して、過剰に反応するらしい。 

「なんでもその美しさの虜になると、騙されてとんでもない目に遭うのだとか。とにかく小さな頃から、人魚は危険だと繰り返し繰り返し言われてきました。その割に大人たちは人魚にかなり執念を持っているように見えました。わたしのお母さんもよく、人魚の美しさをうっとりとして語っていました。わたしはずっと前からこの矛盾に疑問を持っていました」

 一般的に人魚は、岩場で歌い、船乗りを騙しては船を岩礁に誘い込んで沈没させるという存在。また、人魚姫のお話やアニメもあり、その美しさに興味をいだいている。

 私達人間と同じ様な感覚を大人がしているので、素直に読めるし、子供の主人公が疑問が持つのも頷ける。

 半魚人の生活を喩えにして、人間社会の問題や矛盾を描こうとしているのでは、と思いながら読み進めていく。


 主人公も人魚に興味を持ち、村では必ず絵本を読むことになっているという。

「わたしたちの暮らす海底の一番端に、絵の彫られたごつい岩がいくつも並んでいるところがあり、それを絵本と呼ぶのです。岩に描かれている絵は、大昔に半魚人の先祖が描いたものだそうです。その絵は順番に読んでいくと一連のお話になっています」

 碑文みたいなものかしらん。

「半魚人の子どもがいて、ある時ワカメを採りに出かけた。海流の勢いに流され、海の上の方に来てしまった。そこでとてもきれいな人魚に出会った。半魚人の子は人魚の美しさに惑わされ、人魚に誘われるがまま着いていってしまった。その後、半魚人の子が村に戻ることはなかった」

 半魚人の子供はどうなったのか。

「さあ、それはあんまり恐ろしいから、おじさんの口からは言えないな。とにかく、人魚とは決して関わってはいけないよ。特に、人魚がいる海の上の方には絶対に行っちゃいけないよ。いいね?」

 目の濁ったおじさんの話から察すると、戒めとしての絵本なのがわかる。

 大人が子供に読み聞かせるおとぎ話や童話、絵本のようで、生きていくためには約束があって守らなくてはいけないのだと、社会のルールを教えているところは、人間社会と同じだと思えるところにも、共感する。


 してはいけない、といわれると余計気になるのは半魚人も同じらしい。

 想像するときの描写が良い。

「寄り目気味の友達は夢見るようにそう言って、うっとりと両目を閉じました。わたしも同じようにやってみます。目の前を真っ白な泡がぶくぶくと覆います。その泡が徐々に海に溶け、現れたのは目を見張るほど美しい生き物です」

 動きを示す書き方がされているので読者も追体験でき、同じ場面を想像でき、一緒になって目に浮かんでくる。

 

 きれいな人魚に憧れるのは、半魚人は醜いからだとある。

「上半身は普段見かける魚と似たような見た目をしています。海底で暮らすのに適した顔はお世辞にもきれいとは言えません。あのおじさんほどではないにしろ、みんな目が濁っています。ぬめぬめした体からはゴリゴリしたウロコが生えていて、それが鈍い色を放っています。エラがうにょうにょ海水を吸い込む姿もなんとも気持ちが悪いのです。そして、わたしたちが泡を吐くたびに、あたりには質の悪いワカメのような異臭がするのです」

 ワカメを多く食べるからだろう。また、歯を磨くという習慣もないだろうから。磯臭さみたいなものがあるだろう。

「一方下半身にウロコはなく、代わりにつるつるした足があります。太くて重いそれが魚体から生えている姿は醜くてなりません。二本の足を使ってパタパタ泳ぐのですが、これがまた泳ぎづらくてなりません」

 カエルみたいに平泳ぎの泳ぎ方ならどうだろう。

 

「それでもわたしたちはちゃあんと知っていました。わたしたち半魚人が他の種族からどんな目で見られているかということを」

 子供らしさがよく出ている。

 

「食用じゃない魚は、時々わたしたちの村へ交易をしに来ます。例えば河童なんかはよく見かけます」

 河童がいるらしい。半魚人も人魚もいるのだから、河童がでてきても、なにもおかしくない。食用じゃない魚とは、妖怪の類なのかと納得する。


「彼らの顔にはわたしたちを見下しているのがありありと出ているのです。いつも片方の水かきで嗅覚器官を抑えているのも、わたしたちの悪臭が嫌だからに決まっています。本当はこんな気持ちの悪い種族と関わりたくはないけれど、取り引きのため仕方なく来ているのだ、と顔に書いてあるのです」

 主人公が見たとおり、具体的な描写がされている。おかげで、どんな様子で取引しているのかが想像でき、なるほどと納得できる。

 思い描いている場面を、読者が想像しやすいように描かれているところが上手い。


「食用の魚でさえわたしたちよりずっときれいなのです。それが、人魚は他の生き物全てを凌駕するほどの美しさを持っているというではありませんか。うらやましくてうらやましくてたまりませんでした」

 子供の素直な気持ちが描かれている。

「わたしたちが他の種族に嫌われているのも、寄り目気味の友達のお母さんが病気なのも、きっと全部全部この醜い容姿のせいなのです」

 説明して感想をそえる。主人公の気持ちは読者に伝わり、なるほど、そうなんだと思える。「わたしのお母さんもよく、人魚の美しさをうっとりとして語っていました」のも、醜さと美しさからなのだろうと思えてくる。

 先に、納得行く一つの答えを示すことで、読者も主人公と同じ思いになっていく。なぜなら、他とくらべて醜いとか劣っていると、切実な悩みを抱えていて可哀想だなと思い、共感を抱くから。

 

「悔しくて地面をジタバタ蹴り飛ばしたこともあります。自分の上半身と下半身の境目に小石を投げつけたこともあります。だらしなく垂れている自分の胸ビレを噛みちぎろうとしたこともあります。片方の足でもう片方の足をボコボコに殴りつけたこともあります。けれど、いくら悔しがったって泣いたって、人魚のような美しい見た目を手に入れることは叶いませんでした。だってわたしは半魚人に生まれる運命だったのですから」

 具体的な行動の説明をして、感想をそえる。

 醜い自分が嫌いで、でもどうしようもないと諦め、事実を飲み込んでいく。悲しさや辛さがにじみ出て、その思いが読者にもひしひしと伝わってくる。

  

 メルフェンでファンタジーな世界観の中に、これでもかこれでもかというほど、謎を散りばめながら、半魚人の辛さを伝えて話が進んでいく。しかも、いくつも読者に共感をさせる書き方がなされているので、気になって先へ先へと読み進めていけるところが良かった。

 ここまでが、主人公たち半魚人のことを説明した導入部分。次からが本編といってもいいかもしれない。


 ワカメ当番の日、他の子は遊んでしまい、主人公は一人で真面目にワカメ探しに行く。一人行動に孤独、寂しさを感じ、ここでもまた共感していく。

 ワカメ当番の他の子たちの描写をもう少し加え、主人公の性格をより際立たせてもいいかもしれない。


「思えばあの場所は、わたしの日常と非日常を繋ぐ境目だったのかもしれません」

 物語は過去回想で書かれているので、すでに大人になった主人公が在りし日の子供の頃を思い出して進んでいく。だからこういう書き方が、たまにされている。説明的だけれども、読む側はわかりやすい。

 ちなみに本作品の読者層を子供を想定しているかもしれないが、内容から考えると年齢は高め。小学高学年から幅広く大人までを対象とした、児童文学といえる。

 なので、なくてもいいかもしれない。

 あっても問題ないけれども、せっかく物語世界に入り込んでいるのに別視点が入ると集中が切れてしまう可能性がある。

 ただ本作は、共感を抱かせるしかけが多いので、大丈夫かもしれない。読者によるかしらん。


「緑色が光に透かされて、とてもきれいに見えました。そして、美味しいワカメの条件であるいい匂いがします。あの磯の香りはやはり、このワカメから出ていたのです。ワカメはてっぺんの柔らかいところが一番おいしいのです。わたしはその巨大ワカメの頂点目指して、どんどん上へと泳いでいきました」

 おいしいワカメの匂いとは、どんな匂いかしらん。

 ワカメのてっぺんの柔らかいところが美味しいとある。

「弾力のあるワカメをコリコリ噛みながら、わたしはみんなの会話に耳を傾けます」とあったけれど、コリコリしたワカメは美味しくないのかもしれない。


「かなり上まで来たところで、わたしは海の終わりを悟りました。頭の上でちゃぷちゃぷ揺れている水はもうだいぶ薄くなっていたのです。このまま行けば、海を突き抜けてしまいそうです。海の外はどうなっているのでしょうか。水はないのでしょうか。食用の魚やワカメはあるのでしょうか。海の外にはどんな世界が広がっているのでしょうか」

 約束で海の外へは行ってはいけなかったので、はじめてきたのだろう。

「好奇心が先走り、わたしは巨大ワカメのことなんてすっかり忘れてしまいました」子供らしさがよく現れていていい。


「ふと、両足が地面についていることに気づきました。海底からは相当離れたところまで来たはずなのに、不思議です。海の上の方にも、海底は存在するようです。わたしは上へと泳ぐのをやめ、地面を横へと歩いていきました」

 浅瀬に来たから、足がつくようになったのだろう。生まれてからずっと、海で過ごしてきたから、浅瀬があることもはじめての体験だったのだろう。


 比較して描かれていくのがいい。

「海流は穏やかで、冷たい村と違いとてもあたたかです。ほんのり甘い匂いもしてきます」

「わたしの村がある海底はどこも暗いのですが、その場所は上の方から明るい光が通り込んでいました」

 比較して、海の外は「夢の中にいるようだった」としてから、岩場で休み、自分の醜さに嘆き、「人魚みたいに、きれいになれたらいいのに。なれないのなら、この泡になって消えてしまいたい」と思っていると、人魚の群れを目撃。

 眺めていると、彼女たちがいなくなり、残念な気持ちになる。

 そこに、一人の人魚が近づいてくる。

 比較をうまく用いながら、気持ちを上下させ、徐々に大きく揺さぶってから「お隣いい?」と声をかけてくる。

 気持ちの高め方が上手い。しかも高揚や衝撃の描写が人魚の美しい描写と組み合わせていて、会話が進む。

「事態を飲み込めないわたしは何も言えませんでした。ずっと憧れてきた人魚が、本物の人魚が、目の前にいるのです。しかも、わたしに話しかけているのです。間近で見たそれは想像していたよりもずっと素晴らしく、声も海より遠く透き通っていました。憧憬と羨望と緊張にまみれて、おかしくなってしまいそうでした」

 憧れていた人に話しかけられたらそうなるよね、と、凄く納得できる書き方がされている。

「憧憬と羨望と緊張にまみれて」は言葉が硬いかもしれない。

 主人公は半魚人の子供なので。ただい、過去回想で大人の半魚人が、子供時代を思い出しているのだから、熟語を用いて表現することはできる。けれども、簡単な言葉を使って表現しても良いのではと考えてしまう。

「なにが起きているのか飲み込めないわたしは何も言えませんでした。ずっと憧れてきた人魚が、目の前にいるのです。しかも、わたしに話しかけてきたのです。想像していたよりもずっと素晴らしく、声も海より遠く透き通っていました。夢のようだけれども夢じゃない出来事に、おかしくなってしまいそうでした」みたいに。


 髪の毛の描写が良い。

「頭からは真っ黒なワカメのようなものが繊細にゆらゆらと流れています。よく見ると至極細い線が数えきれないほどたくさん集まってできていました」

 半魚人の主人公が知っているもので喩えながら説明している。そういうふうにみえるのかと、読んでいても納得できる書き方だ。


 人魚が名前を尋ねてくる。 

「人魚の中でも、それぞれの個体を見分ける必要があるの。だから人魚にはひとりひとり違う呼び方があるのよ。で、私はラデンと呼ばれているってわけ」

「初めて聞く概念に、わたしは興味を覚えました。そんなこと、大人たちは今まで誰も教えてくれませんでしたから」

 概念なんて、難しい言葉を使えるなんて。

 ひょっとすると、半魚人の子供の語彙力は高いのかもしれないと思えてくる。

 主人公は、「じゃあ、わたしの名前はアナタ。ラデン、さっきからわたしのことをアナタって呼ぶから」という。

 あなたがなにを意味しているのかが、主人公はわかっていないから、名前に使ったのかもしれない。

「アナタと話せてよかったわ」と字面だけみると、普通の文だけれども、人魚のラデンは主人公と話せて良かったと思ったのだとわかる。だから、ウインクしてまた会いましょうといって別れるのだ。


 本作において、名前に付いて考えてみる。

 第一に、自分を知ることの大切さを描いているのだろう。

 名前は自分を理解するために重要で、自己認識を深める手助けとなる。

 第二に、理想と現実の違いのため。

 人魚に憧れる主人公が、自分の現実と向き合うことで、夢を追うことの難しさを描こうとしている。

 第三に、警戒心と教訓のため。

 村には人魚の美しさには危険があるから近づいてはいけないという教訓があり、魅力的なものには注意が必要だと伝えている。

 第四に、人とのつながりのため。

 名前やアイデンティティを通じて、他者との関係が大切であることを示している。

 つまり、「自分を知り、夢を追いながらも現実を見つめ、対人関係の重要性を理解すること」を意識することを促すためだと考える。

 これまでの主人公は、抱いた疑問に対してどうしたらいいのかという考えまでには至らなかった。でも人魚に出会い、名前を知り、知恵を得たのだ。

 アダムとイブがエデンの園で知恵の実を手にしたように。

 名前をつけるとは、自分と他者を区別するものであり、最初に行う詩的な行為である。

 これから主人公は、疑問と対峙し、考え、答えを見出していくようになっていく重要な場面だったのだ。


 ワカメを持って村に帰ると、親に怒られているところからはじまる。

「そうだよ。またあの時みたいなことになるんじゃないかってヒヤヒヤしたからね」

 目の濁ったおじさんのことばに、場が凍りつくという。

 なにか、過去にあったことがわかる。

  

 採ってきたワカメを食べる場面が書かれている。

「わたしも思い切ってそのワカメを口にすると、確かに爽やかな味がぷにゃぷにゃ口の中でとろけるような美味でした」

 柔らかいほうが美味しいのがよくわかる。

 コリコリしたワカメは美味しくなかったのかもしれない。でも茎ワカメは、それでそれでおいしい。子供だから柔らかいほうが良い、ということもあるかもしれない。


「そのワカメが評判だったおかげで、わたしはワカメ当番の時だけ特別に、巨大ワカメを採るために村の外へ出ることが許されました。わたしは嬉しくてぴょんぴょん飛び跳ねました。これでまたラデンに会いに行けるのです」

 ぴょんぴょん飛び跳ねるのが良い。うれしいのがわかる。

 形容詞で感情を書くよりも、登場人物の動きで示したほうが、読者は追体験できるのでより伝わるのだ。


 ラデンとの出会いは、異文化交流みたいなものだろう。

「食用の魚は、はらわたという苦い部分を抉ってから食べた方が良いこと。人魚に生えているものは手といい、頭のワカメは髪と呼ぶこと。海には冷たい海流と温かい海流があること。海の上にはリク陸があり、そこには別の生き物が住んでいること」

 一番美味しのは内臓といわれる。脂肪分があるから。あんこうの肝やカニ味噌、ウニなどの部位は肝臓で美味しい。だから、熊などが魚を食べるとき、まずお腹から。苦いのは胃と腸の部分。排泄物として出される部分が美味しくないのだろう。


「アナタの村って、みんな仲良しでとっても楽しそう。うらやましいわ」

 人魚の村は仲が悪いらしい。


 疑問をぶつけたときの、村長の描写が良い。「そう聞くと、村長さんは困ったように深くため息をつきました。その口から泡がぶくぶくと生まれます。ゆっくり呼吸をして、村長さんはおごそかな雰囲気で語りました」

 場面が目に浮かぶようだ。


 さらわれた半魚人がなにをされるかわからないが、最終的に殺されてしまうという言葉を聞いた主人公の「わたしは背ビレにぞくぞくとした寒気を覚えました」という身体の反応を描いているのもいい。感情が現れている。


 村長は村長で、行方がわからない半魚人がいるといったときの、

「すると穏やかだった村長さんは思いきり両目を開き、今までに見たことのないほど恐ろしい形相で言いました」「わたしは村長さんのあまりの目力とその事実に圧倒されて」という凄みが現れる変化の書き方が良い。

 際立たせてているのは、「村長さんはまた穏やかな表情に戻り、にこにこと言いました」とまた表情を変えるところがあるから。

 その結果、余計不審がるのだけれども。


「寄り目気味の友達は、あの洞窟のすぐそばにいました。心の病気のお母さんに会ってきたようです」

 ワカメ採りのうまいお姉さんがいた子である。

「あのねあのね、今、ママと話してきたのー! ママ元気そうだったからあたし嬉しい!」

 子供には母親が必要なのだろう。子供が元気だったから、母親も元気だったのかもしれない。

「またママがお姉ちゃんの話してくれたんだ。お姉ちゃんはすっごく賢くて、村のみんなの人気者だったんだって!」

「ねぇ、そのお姉さんって、会ったことあるの?」

「え? ないよ。あたしが生まれた時にはもう訓練に行ってたんだって」

「そっか。訓練っていつ終わるんだろうね」

「ねー。それ聞くと、みんな嫌な顔するんだよね……なんでだろ」

 なんでだろう。

 このときの友達の「若干悲しみが混じっているように見えました。悪いことを言ってしまったな、と思いました」説明して感想をそえ、主人公の心情が読者にも伝わる。 

 人間味があるところに、共感する。

 お姉さんに会いたいのだろう、ということが伝わってくる。


 本作は比較が上手い。

 村長の表情にしろ、なんでも話せる寄り目気味の友達にしろ、主人公はラデンという人魚に会ったことを隠し続けていくことで、心を痛めていく。

 ナイフを見つけたとき「村長さんに届けた方がいいかな?」という寄り目気味の友達に否定して、「わたしが預かるよ」という。

 反対の行動をしているから、預かるといえたのだろう。

  

 長い文は五行以上続くところもある。句読点を用いた一文は長くない。読点を使わない一文は、重々しさや落ち着き、説明 弱さなどを表している。

 一人称視点で物語が展開され、主人公の視点から直接的に語られており、主人公の内面により深く入り込むことができる。

 短い文が多用され、リズミカルでテンポの良い展開が特徴的。読みやすさと臨場感が増している。会話文を効果的に用いられており、生き生きとした印象がある。

 比喩表現や擬音語が豊富に使用され、独特の世界観や雰囲気を創出されている。海の世界観を描く際、これらの表現技法が効果的にいかされている。

 主人公の感情や思考が詳細に描かれ、内面描写が豊富。

 現実と幻想が交錯する独特の世界観が描かれ、回想も展開されている。想像力を刺激し、物語世界への没入感を高めている。

 独特の海底世界や半魚人の村の生活が詳細に描かれ、魅力的な世界観が構築されている。人魚と人間、あるいは半魚人との対比が効果的に表現され、未知の世界への冒険心を掻き立てているところがいい。

 主人公の内面の葛藤や心理が丁寧に描かれており、成長過程が感じられる。人魚への憧れと危険性という矛盾した感情が上手く表現されている。

 伏線が巧みに張られ、読者の興味を引く構成となっている。ラデンの告白シーンなど、印象的で感動的な場面が含まれているところがよかった。

 外見の美しさや違いを超えた友情や理解が描かれており、価値観の変化や成長が丁寧に表現されている。


 五感の描写について。

 視覚は、ぶにぶにしながら、ゴリゴリしたウロコ、緑色が光に透かされて、とてもきれいに見えました、キラリと光るもの、寄り目をさらにぎゅっと寄せて、透き通るような白い肌、長く流れる黒いカミ、銀色に輝くウロコなど。

 聴覚は、ウロコのこすれるような高くて繊細なその声、ぶくぶくと生まれる泡の音、低い声が海水に反響し、激しく泣き出してしまいましたなど。

 触覚は、冷たい海水が体を撫ぜ、足元にはサラサラした砂が広がっていて、すべすべした岩、足の指の間にその丸っこい方を挟みました、海水は全身を刺すように冷たかった、あたたかな海水、全身を包み込むような緩く生あたたかい海流など。

 味覚は、みずみずしい食感、コリコリ噛みながら、爽やかな味がぷにゃぷにゃ口の中でとろけるなど。

 嗅覚は、質の悪いワカメのような異臭、磯の芳香、いつもと違いおいしそうな香り、ほんのり甘い匂いなど。

 聴覚に関する描写を増やし、海底の音環境を表現すると良い気がする。


 主人公の弱みは、自身の容姿に対して強い劣等感を抱いており、自己肯定感が低いこと。これは人魚への過度の憧れとして表れ、現実を受け入れることに困難を感じている。

 好奇心が強すぎるあまり、危険を顧みない行動をとる傾向もある。状況判断力が弱く、村の掟を簡単に破ってしまうなど、判断力の未熟さが目立つ。また、状況を正確に把握できていないことも多い。

 他者の感情を深く理解することが難しく、社会性や共感能力に課題もある。これは主人公の行動や決断に影響を与え、周囲との関係構築に支障をきたす可能性がある。

 これらの弱みは、主人公の性格や行動を形作る要素となっており、展開に大きな影響を与えていく。

 子供だから、というのが大きく影響しているのだろう。


 ラデンにナイフのことを教えてもらう。

 そのとき、人間の説明が出てくる。

「ニンゲンというのは、海の上に住んでいる生き物の種名だそうです。言語を使うらしく、食用ではありません。以前ラデンに教えてもらいました」 

 食用ではないことがさりげなく説明にある。

 これもまた、伏線なのだろう。

 人魚のラデンがそう教えたのは、半魚人が何でも食べてしまう存在だと知っているからだろう。


「ラデンはニンゲンという生き物に妙に詳しいと思う時が度々ありました。しかもラデンは、ニンゲンの話をする時は決まって嫌そうな表情をするです。ちょうど、食用の魚のはらわたを食べてしまった時のような。その時も、ラデンは苦しそうにマユ眉をひそめていました」

 ここの表現が良い。半魚人らしい喩えだし、ラデンの人間に詳しいこと、彼女と人間になにかあることを示している。情報量が多い。

 ラデンの苦い表情を見ていると、わたしの中のどこかおかしな部分がくすぐられるようでした。


「あのおかしな感情が湧き上がったのは、確かあの時が初めてだったと思います。わたしがわたしではなくなり、何かに乗っ取られたかのようなあの感覚です。わたしはラデンの笑顔が好きなのに、一番大好きなはずなのに、なぜだかその時はそうは思えませんでした。人魚の美しく完璧なその顔が苦痛に歪むところを見たくてたまらなくなってしまったのです」

 主人公も主人公で、内面でいろいろなことが起こっている。

 どこかおかしな部分とはなにか。

「わたしがわたしではなくなり、何かに乗っ取られたかのようなあの感覚」のことであり、食用の魚と食用じゃない魚とう別していることにもつながっているだろう。

 そのあと人間に詳しことを問い詰めて、ラデンを困らせ、追い打ちをかけるように言葉をかけていく。

 ラデンが顔をおおうと、冷静になって謝る。

 相手が困っている顔を見て、さらに困らせようとするのは、いたずらやいじり、いじめにもつながり、本能的に攻撃している。別の言い方をすれば、相手の弱みを見つけたので襲おうとしている。エスカレートすれば、食べてしまおうという本能的欲求へとつながっていくのだろう。

 主人公が子供であり、成長段階にあるから、感情と理性のせめぎあいが起こっているのだ。

 このあたりの描き方は、よく描かれているなと感服する。


「えー、今回、河童の行商から海苔を入手することができました。こちらからは例のワカメを渡しました。彼らの口に合えば、次回は向こうでしか獲れないという大型の食用魚を……」

 河童が海苔を作っているのかしらん。

 そもそも、河童は川にいるイメージなので淡水魚類に分類できるのではと邪推するのだけれども、人間のツテから海苔を仕入れているのかもしれない。

 河童側でしか獲れない大型の食用魚とはなんだろう。鯉やナマズ、雷魚かしらん。


 リレー大会が行われるとき、主人公の内面が語られている。

「わたしは、村のみんなが仲良くわいわいしているこの雰囲気が好きでした。家族がいて、友達がいて。みんな仲が良くて。わたしは幸せだったのです。本当はそのことに気づいているはずでした。けれどこの幸せに満足できなかったのはやはり、この醜い容姿のせいなのです」

 足るを知る、という言葉がある。

 主人公は満たされた環境にいるのだ。それはわかっているけれども、ないものねだりをして、醜い姿に満足できないでいる。

 友情や愛、名誉や誇りを大切に生きてこそ、人生は充実する。主人公はまだ子供で幼く、いままさに学んでいる途中だからこそ、迷うのだ。


 主人公は、ラデン自身の話を聞いたことがないことを思い出す。

「隙間なく敷き詰められた食用魚の内臓のように、色々な情報がかちかちとはまっていきます」

 食用魚の内蔵で喩えられることが多い。諺や格言は生活の中から生まれ、連想されやすいものを用いられることは多い。中でも食べ物は喩えられやすい。半魚人の世界はとくにそうなのだろう。

 食べ物は生死に直結しているからにちがいない。

 内臓は苦みがあるため、ここでの表現は、これまでの情報がジグソーパズルのピースのようにはめられて一つの絵が浮かび上がり、そのイメージが悪いものだと表現するために食用魚の内臓が用いられているのだ。

 世界観にあった言葉、表現を使っているおかげで、読者はより物語世界へ深く入っていける。


「自分の話をしないラデン。半魚人をうらやましがるラデン。ニンゲンに詳しいラデン。人魚は半魚人を、──殺す。この時わたしは、何か恐ろしいことが起きているんじゃないかと直感的に思いました」

 人魚が半魚人の村を襲いに来る、とでも考えたのかもしれない。


「今から思えば、あの時巨大ワカメは少し変でした。いつもと違いおいしそうな香りはしませんでした。海流も怒ったみたいにごうごう激しく、暖かかったはずの海水は全身を刺すように冷たかったのです」

 状況描写で、主人公の心情、これから起こる場面の予感を表しているだろう。

 そのときの心境によって、香りの感じ方は異なる。

 元気のいいときと沈んだ気持ちのときは同じ匂いを嗅いでも、まったく違うので、主人公の気持ちがいつもと違うことを表しているのかもしれないし、海流の寒暖差で変化しているのかもしれない。


「やっぱお前……人魚なんだろ。なぁそうなんだろ!? なんとか言ったらどうなんだよ! 口をきくつもりがないんなら、お前も捕まえて街の博物館にあるあのホルマリン漬けの半魚人みたいにしてやる……!」

 人間のセリフから、捕獲された半魚人がホルマリン漬けされて博物館に展示されていることがわかる。

 帰ってこない寄り目気味の友達のお姉さんかもしれない。


 海の外に顔を出したときの音の聞こえ方の違いが書かれている。

 でも、人魚のラデンを話していたときは岩の上だった気がする。そのときは、音の聞こえ方の違いは描かれていなかった。

 ここであえて描かれているのは、普段話しているような喋り方とは違い、すごい剣幕だったことを表したいのかもしれない。


「ニンゲンはまさに人魚の上半身と半魚人の下半身をくっつけたような見た目だったのです」

 裸だったのかしらん。

 水着を着ていたのかもしれない。

 服を着ているのなら、人魚と半魚人をくっつけた見た目とはならないはず。


 ラデンを助けようとしてナイフを投げた後、意識を失っている。

 海の外では長く呼吸できないのだろう。メインはエラ呼吸かもしれない。


 人魚の秘密がラデンから語られていく。

「人魚たちは『人魚の母』に支配されている。『人魚の母』の目的は人間との融合。海の外へ出るときは人間の体になれる。人魚はそれぞれ誰か一人の人間に愛されて結婚しなければならない。失敗したら海の泡となって消える」

 この世界の人魚の母とは、人魚姫伝説に登場する人魚の母親かもしれない。娘が人間と結ばれず、海の泡となって消えたため、すべての人魚に同じ苦しみを味あわせるために呪いを強いたのかもしれない。

 人魚界は人魚の母による独裁政治が敢行、自由が制限されているから、半魚人の村が羨ましいと思うのだろう。

 人間に愛されて結婚できた後、どうやって生活するのだろう。陸の上かしらん。そんなことをしたら、人魚が海から地上へ出てしまい、人魚人口は減少していくのでは。結婚したら、人間を海に引き入れるのかしらん。子供を産むことができたら海に戻れるのだろうか。


「私の周りの人魚たちはみんなピリピリしてて、いつもお互いを貶しめようとしてた。あの人は私のことなんてこれっぽっちも大切に思ってくれていなかった」

 人魚の世界も人間とおなじく、恋愛トラブルでギスギスしているらしい。

 半魚人と人魚という世界の違いもあるけれども、年齢差もあるのではと考える。

 主人公はまだ子供で人魚は大人、成人女性なのだ。

 泡にされるというのは、結婚適齢期や出産年齢のことを比喩しているのかもしれない。

 

 悲しむラデンを前に「かわいそうだと同情するよりも強く、永遠にこのまま苦しんでいてほしいという気持ちの悪い欲望がわたしを蝕みました。美しいものが無様に落ちぶれた姿をいつまでも見ていたい、わたしだけのものにしてしまいたい、食べてしまいたい。そうすればこの美貌を手にしてしまえる、そんな妄信がこびりついてしまいました」主人公の本能が目を覚ます。

 そんなときに、人間に傷つけられたラデンの太ももにできた字を見て、冷静になる。主人公は、自身の醜さから身体をいたぶったことがある。それを思い出したのだろう。

 人魚のラデンと、半魚人の自分は同じだと思えたに違いない。

だから「ラデンにとって、美しいとか醜いとかそんなことよりももっと大切なものに気づかなかったことに対して、わたしは心底申し訳なく思ったのです」と思い至れるのだ。


 ラデンは泡になってしまい、これが最後かもしれないという。「そうだ、これ。もらってもいいかしら? もしかしたら、今の人魚の世界を変えられるかもしれないの」ナイフをもらって、去っていった。


 このナイフはなにを表しているのだろう。

 もともとナイフは人間のもの。主人公がそれを見つけて拾い、人魚であるラデンに渡した。異なる世界をつなぐ象徴となっている。半魚人と人魚の結びつきが生まれたのかもしれない。

また、 主人公がナイフを渡す行為は、ラデンに信頼と新たな責任を託すことを意味しているだろう。ラデンが自らの運命を切り開くための道具としていくことを示している。

 そもそもナイフには「未来を切り開く」意味あいがあり、ラデンがナイフを使うことで、彼女自身や人魚の世界に変化をもたらす可能性を示している。人魚の母を亡き者にしにいったかもしれない。

 主人公にとっては、ナイフを渡すことで自身の立場や過去の偏見から脱却し、ラデンの苦しみや背景を理解しようとする成長を表現している。

 ゆえに、この後主人公は、人魚に会ったことを村のみんなに伝え、「大人たちは話し合ったようで、人魚は危険ではないという結論が出」て、「昔半魚人を攫ったのは人魚ではなくニンゲンだった、と判断」される。

 大人になった主人公は、人間に半魚人が出くわしてしまう場面を岩の絵本に書いていく。

 寄り目気味の友達に「それよりもお母さんのこと、大事にしてあげてね」と気づかう言葉をかけて。


 絵本が作られた理由に、主人公は自身で答えを見つけ出す。 

「わたしの考えだと、人魚が半魚人を殺すのではなく、その逆だと思うのです。昔のひとたちは、我々半魚人が人魚を殺すだなんて絵本には描けなかったので、人魚が危険ということにしたのでしょう。わたしも時々感じた、傷ついた人魚を見ていたいというあの不気味な気持ち、きっとその本能が悲劇を起こしうるのです」

「それだけは村のみんなに話せませんでした」

 話せなかったのは、ショックが大きすぎるからかもしれない。

 悪いのは相手だと思っていたのに、自分たちだったとは。簡単には受けいるのは難しい。だから主人公は絵に書いて残すことにしたのだろう。

「未来の子どもたちへ。どうかあの感情に負けないで人魚と仲良くやっていってほしい。わたしは強くそう願いながら絵を彫りつけました」



「ラデンは海の泡にされてしまったのでしょうか。あれからわたしはラデンと過ごしたことを何度も思い出し、何度も悲しくなりました。ただ今は、自分の醜さを受け止め、村のみんなを大切にし、ラデンの分も精一杯生きようと思います」

 主人公が成長したのを感じる。


 最後がいい。

「かなり浅瀬に近づいたところで、見覚えのあるどこか懐かしい後ろ姿が見えました。長く黒いカミ髪に、銀色に輝くウロコ」

 人魚の特徴。

「夢でしょうか。右足で左足を蹴ってみます。ちゃんと痛むので、夢なんかではありません」

 はじめは自分を惨めに思って傷つける行為だった。でもここでは、嬉しい出会いが夢でないかを確かめるために蹴っている。

 夢じゃないと知る描き方が、主人公の喜びが伝わってくる。そのうえで「はっきりこの目に映った彼女を追いかけて、わたしは走り出しました」再会する喜びに満ち触れているのを感じられるのだ。


 読後。読後感が非常に良い。タイトルを見直すと、憧れた人魚の現実を知り、半魚人の過去と醜さをあるがまま受け止めて、大人になった主人公の成長を感じられた。最後に駆け出すところは、これまでもこれからも、迷いつつもしっかり歩いて生きていくことを感じさせられる。

 本作は、いろいろな教訓を伝えようとしていると思われる。

 主人公の半魚人は、美しい人魚に憧れていたが、人魚の内面の苦しみや孤独を知り、外見の美しさが必ずしも幸せには結びつかないことを学んだ。

 半魚人自身の「醜さ」を嘆いていたが、家族や友人との絆こそが本当の幸せであることに気づく。自分自身を受け入れ、周りの人々との関係を大切にすることの重要性を伝えている。

 人魚に対する村人たちの偏見や、主人公自身が持っていた人魚への憧れなど、先入観や固定観念が誤解を生むことがあることを教えている。

 主人公は人魚の友人ラデンの苦しみを知り、相手の立場に立って考えることの大切さを学んだ。

 主人公は半魚人の過去を振り返り、次の世代に伝えようとしている。過去から学び、より良い未来を作ろうとする姿勢を閉めてしている。

 主人公がときどき感じた「不気味な感情」(傷ついた美しいものを見たいという欲望)は、危険な本能であることだと認識し、抑制する重要性をも示していた。

 本作を通して読者に、自己を受け入れ、相手を理解し、偏見で物事を見ないようにすることなど、深く考えさせてくれるところがよかった。

 他の媒体、絵があると世界観がよりイメージしやすくなる気がしたので、背景や人物描写に深みがほしいと思った。

 読者層をどこに持ってくるのかで変わる。内容からすると、小学高学年か中学生からが対象の児童文学だと思う。ただ、作品のトーンから、気持ち下の年齢をも意識しているかもしれない。

 それでも文章の表現がやや難しいので、やはり読者層は上がる。

 カクヨム甲子園の応募作品なので、読者層に適していると考えられるし、なにより内容がよかった。

 再会したラデンとアナタは、どんな話をするのかしらん。楽しく笑いあえたら良いな。 

 




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