松ぼっくり祭壇

松ぼっくり祭壇

作者 福田

https://kakuyomu.jp/works/16818093084497378540


 パンデミックの影響を受けた社会で、僕と颯は公園で文学や哲学の読書会を開く日々を送っている。彼らは『創世記』のアブラハムとイサクの物語を通じて信仰と倫理について議論し、その後『松ぼっくり祭壇』という美術作品を見に行く約束をする。教師からの不適切な指導から強迫性障害に悩まされながら中学受験を乗り越えた彼は、水泳中に受けた不吉な啓示「『松ぼっくり祭壇』が捧げられる」が心に残る。水泳を通じて心の傷から解放される瞬間や夢の中で友人との関係を再確認する中で、自分自身を受け入れることや成長することについて考えていく。美術館で『松ぼっくり祭壇』が爆破されたニュースを知り、その影響で友情と恋愛について悩む主人公は、新たな感情と向き合う決意を固める。自分自身や周囲との関係を見つめ直し、新しい一歩を踏み出していく話。


 現代ドラマ。

 私小説、純文学。

 パンデミックの影響を受けた若者の内面的葛藤と成長を描いた作品。

 カクヨム甲子園にはこれまで、新型コロナウイルス流行によるパンデミックの影響を扱った作品はいくつも応募されてきた。その中でも本作は、群を抜いて目を見張る。

 パンデミックという社会を背景に、個人の成長と葛藤を深く掘り下げている。主人公が他者との関係性を見直していく過程は非常に興味深い。哲学的要素とアート、心理描写と幻想的要素を上手く融合させながら、松ぼっくり祭壇の爆破事件と関連させて強いメセージを打ち出そうとしているところが非常に感慨深かった。

 こういう作品は、文學界、新潮、群像、すばる、文藝に応募して芥川賞を狙ってもいいのではと邪推してしまう。


 主人公は、男子中学生。一人称、僕で書かれた文体。エピローグは松ぼっくり祭壇を作った芸術家。一人称、私で書かれた文体。自分語りの実況中継で綴られている。


 男性神話と女性神話の中心起動に沿って書かれている。

 パンデミックの影響で心に傷を抱える主人公が、洗面台の前で咳き込みながら自分の心を「プラスチック」と例え、その可塑性を感じることで、過去の痛みが癒えないことを実感している。鏡に映る自分の顔を見つめ、ニキビで凸凹した肌に不安を抱きつつも、自分をかっこよく見せようと試みるが、自己評価の低さに悩まされる。

 今日の天候は曇りで、昨日の雨によって市民図書館の本を濡らしたことを思い出し、弁償することへの憂鬱な気持ちが広がる。いつ図書館に行くべきか考えながらも、行動する気力が湧かず、罪悪感に苛まれていく。「傷つけるくらいなら傷つけられた方がいい」と思う一方、実際に傷つけられることへの恐れや被害妄想も抱えている。

 公園の東屋のテーブルは、昨日の雨で湿っていたが、座るには支障がない程度だった。主人公は『創世記』をテーブルに置き、友人の颯と共にこの公園での読書を楽しむ準備をする。彼らは中学生でありながら、文学や哲学に興味を持ち、難解な本を選んで読むことが日課となっていた。

 颯は「今回は特に難解そうだな」と呟き、解説書を買うべきだったかと悩む。主人公は宗派による違いを考慮しつつ、まずは原文を読むことが大事だと返す。彼らはこの公園が好きで、静かな環境で思索を深めることができる場所として重宝していた。

 颯はキルケゴールについて言及し、主人公もそれに応じてアブラハムの信仰について語り始める。彼らは聖書の内容に対して深い興味を持ちながらも、特定の宗教に対して強い信仰心を持っているわけではなかった。しかし、彼らの心には何か宗教的なものが宿っており、それが彼らの思考や生き方に影響を与えていると感じていた。

 アブラハムが息子イサクを捧げるという場面について話し合う中で、信仰と倫理の対立について考えを巡らせる。颯はキルケゴールがアブラハムの信仰を高く評価した理由を説明し、主人公もその意義について思索する。しかし、主人公は素朴に「イサクは可哀想だね」と発言し、その後も信仰と倫理についての複雑な感情を抱え続ける。

 二人は松ぼっくり祭壇というアート作品について話題を広げ、美術館への訪問を約束する。颯は少し悩みながらも、結局行くことに同意し、来週の土曜日に行くことに決まる。

 中学校でのある日の会話は、友人たちとの楽しい知的探求の時間だった。創世記や美術館の話題を通じて、実存主義や不条理文学についての興味が広がり、谷川が話を引き出してくれた。その中で、物理学者アラン・ソーカルが送った「めちゃくちゃな論文」の話が出た。谷川は、その論文が自然科学の専門用語を適当に並べたものであり、それが実際に学術誌に掲載されたことを説明した。彼は「ソーカルも逆に大喜びしただろうね」と笑った。

 この話題から、金魚掬いの思い出へと話が移った。夏祭りに行かなくなったことを思い出し、子供の頃に金魚をたくさん掬って帰ったことを懐かしむ。しかし、その楽しさの裏には、動物を生贄にする残酷さもあった。友人は「将来、金魚掬いって禁止になると思う?」と問いかけると、谷川は「ピーター・シンガーは読んでないからなー」と返した。

 このやり取りから、知識と倫理についての議論が始まる。「もし金魚掬いが禁止されるなら、今からやめるべきかな?」という問いに対して、谷川は「知識には責任がある」と語り、哲学者としての立場を持つべきだと主張した。彼は知識を持たない人々には啓蒙が必要だとしつつ、多様な立場のバランスが重要だと考えた。

 その後、パンデミックによる影響でお祭りが無くなったことを思い起こし、メルケル首相とアガンベン哲学者の対比から人々がどのようにバランスを取るべきかについて考えを巡らせる。彼らは、知識や倫理、社会的バランスについて深い洞察をしていく。

 パンデミックの影響で社会が潔白さを求める中、小学生高学年だった主人公は、担任から熱心に手を洗うのを褒められ、クラスみんなの前でその話をされる。主人公はそのことを誇りに思い、清潔であることや善良であることに強い意識を持つようになる。

 一方、担任はトイレで手を洗わない児童Aに対して厳しく指導し、その児童はクラスから孤立していく。担任の執拗な指導は児童Aに対する差別的なものであり、他の児童たちも同調してしまう。主人公はその状況を見ながら、自分の潔白さをさらに誇りに思う一方で、内心では不安を抱えるようになる。

 やがて、手の清潔さを過度に気を使うようになり、強迫性障害の症状が現れ始める。手を洗い続けたり、トイレで泣き叫んだりする日々が続き、生活は困難になる中でも中学受験に挑むことに。無事に中学生になるも、精神的苦痛と共に性の芽生えも経験し、「精神と性器の汚れ」という新たな悩みが彼を襲う。この頃、主人公は初めて自殺を意識するようになる。

 ある日、下校中に寄り道して海沿いの公園で同じクラスの佐藤と出会います。佐藤との会話から、担任への不満やクラスの雰囲気について共感し合い、主人公は初めて自分以外にも同じように感じている人がいることに気づきます。彼らは悪口を言い合いながら盛り上がり、この交流が主人公の心に変化をもたらし、強迫症の治療も進展し始める。

 金曜日、主人公は夏の水泳の授業を受けている。泳いでいる間だけはパンデミックの影響を忘れられ、強迫症が軽減されたものの、トラウマの余韻が時折彼を苦しめる。プールに入ると、彼は心の中の傷や忘れたい記憶から解放され、心地よい水の感触に包まれる。泳ぎながら、彼は自分の無邪気さが残っていることに安心感を覚える。思春期の入り口に立つ彼は、自分だけでなく仲間たちも同じような思いを抱えていることを理解していた。特に友人の颯を見つけると、二人は目を合わせて笑い合い、颯が変顔をすることで一瞬の楽しさを共有する。彼らは「はしゃぐこと」を強いられた世代であり、その小さな楽しみが何よりも大切だった。

 プールの中で泳ぐことで、彼は強迫症状を無意識に隠し、自由を感じる。水の抵抗と浮遊感を楽しみながら、彼は全てを受け入れることができる瞬間に達する。祖母からの愛情や世界の不完全さも愛おしく思えるようになる。その時、彼は強迫症やトラウマが静止していることに気づく。思考空間を飛び回っていた強迫観念が指先に止まり、「啓示」と呼べるものとして彼に訪れる。「松ぼっくり祭壇」が捧げられるという考えが浮かび上がるが、それは以前の妄想とは異なり、押し付けがましくなく自然に心に染み込んでくる。しかし内容には恐怖も伴い、「何か悪いことが起こる」予感が強くなる。

 主人公はこの啓示にどう向き合うべきか悩む。果たして自分はこの妄想に服従するべきなのか、それとも抗うべきなのか。その葛藤の中で、彼は自己受容や成長について深く考えることになる。

 その夜、僕は奇妙な夢を見た。『ソラリス』のクリス・ケルヴィンとして、ソラリス・ステーションに着陸する場面だった。なぜ『ソラリス』なのか。僕は友人の颯と共にこの作品を熱心に読んでいた時期があり、ソラリスの海の神性、その不完全さに心を奪われていたからだ。この夢は、僕の精神にその影響を色濃く残している。

 スタニスワフ・レムの『ソラリス』は、神秘的で不気味な物語である。科学者たちが惑星ソラリスを調査するために宇宙ステーションに派遣されるが、そこでは異常な現象が続き、彼らは精神的に追い詰められていく。心理学者クリス・ケルヴィンもその一人であり、彼は次第にその現象に呑み込まれていく。

 夢の中で、僕はクリス・ケルヴィンと自分の人格が溶け合っている感覚を覚えた。ソラリス・ステーションを歩きながら、颯と出会う。ソラリスの現象とは、存在しないはずの人間が現れることだ。それは心の暗部から引き出された思い出が具現化したものだった。

 その時、もう一人の人物が現れた。颯より少し背の高い女性、年齢は四十から五十歳くらいで、颯の母親に似ていた。しかし、彼女は既に亡くなっているはずだった。颯と彼女は手を繋ぎ、無表情でこちらを見つめている。彼女がナイフを持っていることに気づき、心中しようとしているのではないかという恐怖が襲った。

「だめだ!」と叫びながら、僕は颯を抱き寄せた。その瞬間、颯の母は自らの首を切り裂いた。赤黒い液体が飛び散り、僕は硬直したまま颯の手を強く握り続けた。颯は母親の元へ駆け寄ろうとするが、それを止めることはできなかった。手を離した瞬間、颯もまた自らの首を切り裂いてしまった。

 目が覚めると、それは悪夢だった。涙が流れ落ちていた。携帯を見ると、朝の七時三十七分。颯からメッセージが届いており、「今日は美術館に行く予定だった」と思い出す。

 夢の内容が頭から離れない。颯は母親を亡くした時、どんな気持ちだったのだろうか? 彼女との関係や悲しみについて深く理解していなかった自分を反省する。他者の傷を理解すること自体が傲慢なのかもしれないと思った。

 メッセージには「テレビのニュース見た? このツイート見て」という内容が添付されていた。そのリンクを開くと、美術館で『松ぼっくり祭壇』が爆破される事件について書かれていた。驚愕と共に、そのニュースが新たな一日への始まりを告げていた。

 美術館での爆破事件が、朝の報道番組で速報として伝えられた。事件は今日の午前六時に発生し、美術館が開く前に突如として祭壇が爆破されたという。幸いにも怪我人はいなかったが、周辺の展示物には被害が出た。警察は調査を進めているものの、爆破方法については一切不明という噂も流れている。このような状況に対し、情報の真偽を疑う声もあり、特に「一切わからない」という情報が本当に信じられるのか疑問視されている。

 事件に対する動機については様々な憶測が飛び交っており、気候変動対策を批判するためのアートを用いた抗議活動や、現代アートの商業性を批判するテロリズム、さらには宗教的な理由などが考えられている。しかし、どれも決めつけることはできず、偏見になることを避けるために思考を巡らせる。

 この日、美術鑑賞は中止となり、友人との公園での再会の提案もあったが、その気分ではなく断った。LINEのホーム画面には友人・颯とのツーショットが映っており、その写真を見つめながら、友情と恋愛の境界について考えさせられる。颯との関係は単なる友情でありながらも、周囲から恋愛関係と見なされることに不快感を覚える。

 一方、昨日見た夢の中で颯を抱きしめた感覚が鮮明に思い出される。入学式以来触れたことはほとんどないが、英語検定合格時のハイタッチや模試での喜びを分かち合った瞬間が重なり、その感覚は心に残っている。夢の中で感じた温もりが、電気的でありながら液体のようでもあるむず痒い快楽として蘇り、自身の欲望に気づく。興奮と好奇心から自慰行為をする。

 主人公が「松ぼっくり祭壇」の爆破事件に心を乱し、部屋をろうろしながら妄想を書き留める。彼は「松ぼっくり祭壇が爆破された後、突如として松の木が世界から消えた」という設定で物語を書き出す。公園にあった松の木や松ぼっくりが、初めから存在しなかったかのように消失し、日本中、さらには世界中で混乱が広がる。ニュースは連日報じ、人々は神の意図を疑い、笑い飛ばす一方で恐怖を感じる。

 その後、物語はエスカレートし、「松」という言葉に反応して、特定の牛丼屋チェーンや赤塚不二夫の漫画作品までが消えてしまう滑稽な状況が展開。人々は、神のいたずらであるかのように感じ、困惑する。

 しかし、事態は深刻化し、「松」という名前を持つ人々が次々と行方不明になっていく。主人公にとって特に気がかりなのは、友人である颯の苗字が「松田」であること。彼は颯に改名を提案するが、颯はそれを拒否。彼には母親の姓を守る理由があり、その母親は病弱で新型ウイルスによって急逝した過去があり、颯は母を弔うために改名しないことを決意している。

 颯は、公園でその思いを語り終えると主人公の手を取り、誰もいない公園の地面に倒れ込んで青空を見上げながら心を通わせる。その瞬間、颯は主人公にキスをする。唇が離れた後、主人公が目を開けると、そこには颯の姿はなく、ただ青い大空だけが広がっているだけだった。

 主人公は、颯に対する強い欲望を抱きながらも、自慰行為の後に突如として襲ってきた吐き気に苦しむ。彼はトイレに駆け込み、何度も嘔吐を繰り返す中で、自分が書いた小説の中で颯を「殺してしまった」ことに気づく。それは、自らの欲望への制裁であり、自分自身の手によるものだった。

 洗面台で口をすすぎ、歯磨きをしながら、数か月前に友人の佐藤と再会した時のことを思い出す。佐藤は当時の担任教師について語り、メンタルクリニックに通っていたこともあったが、井口さんは多大なサポートを受けていたと語る。佐藤は、「井口さんにとってその恩師は大切な存在だった」と言い、主人公もその複雑な感情に戸惑う。

 彼は「ニーチェの言うように全てはパースペクティブに過ぎなくて、ポストモダンが主張するように世界はやっぱり相対主義で、一つの正解なんて結局ない」と考えるが、それだけでは解決できない何かがあると感じる。

 窓の外を見ると、青空とグレーの街並みが広がり、特に目立つ牛丼屋の看板が彼の視線を引く。

 主人公は家の鍵を手に取り、公園へ行くことを決意する。颯にも連絡を入れ、一緒に牛丼を食べてから公園へ向かう計画を立てる。彼は松の木や松ぼっくりが残っているその場所で、新たな感情と向き合う準備を整えている。

 芸術家は幼いころ「松ぼっくり祭壇」という独自の概念を思いつく。芸術家にとって松ぼっくりは、ただの自然物ではなく、母を亡くした悲しみの象徴であり、神聖な存在だった。彼は母を弔うために何か特別な方法を探し求めていたが、伝統的な浄土真宗の儀式には納得できなかった。

 ある日、公園で出会った美しい松ぼっくりに心を奪われる。冷たい風が吹き、足元には松の落葉が積もっている中、彼は一際目立つ巨大な松の木に引き寄せられ、その根元で「神聖」な松ぼっくりを見つける。その瞬間、松ぼっくりが浮遊する奇跡を目撃し、それを母の魂だと感じた。興奮と感動に満ちてその松ぼっくりを抱えて家に帰り、父に向かって「これ、お母さんの魂なんだよ!」と叫ぶ。

 父は驚きつつも、その松ぼっくりを仏壇に飾ることに同意し、その仏壇を「松ぼっくり祭壇」と名付ける。この祭壇には弔いの思いが込められており、パンデミックによって適切な弔いができなかった人々への思いも含まれている。

 インタビューの後、主人公はタクシーに乗り込み、幼少期の「奇跡」を振り返る。その体験を他人に話すことはできず、自分自身でも解釈しきれない感情が渦巻いていた。母の死とその奇跡が結びついていることを認識し、それが呪いであるとも感じていた。

 運転手から自分が芸術家であることを指摘されると、眠りを邪魔されて不快感を覚えつつも、「大丈夫? あんたの作品。さっきニュースでえらいことなってたよ」と知らされる。その瞬間、「卵が割れた」という直感を得る。


 三幕八場になっている。

 一幕一場 状況の説明

 主人公はパンデミックによる心の傷を抱え、洗面台で咳き込みながら自分の心を「プラスチック」と例える。彼は過去の痛みが癒えないことを実感し、鏡に映る自分を見つめる。

 二場 目的の説明

 主人公は市民図書館で濡れた本を弁償することへの憂鬱な気持ちを抱えつつ、行動する気力が湧かず罪悪感に苛まれている。自己評価が低く、「傷つけるくらいなら傷つけられた方がいい」と思いつつも、実際に傷つけられることへの恐れも抱えている。

 二幕三場 最初の課題

 主人公は友人の颯と公園で『創世記』を読む準備をするが、難解な内容に対して不安を感じている。颯は解説書を買うべきか悩むが、主人公は原文を読むことが大事だと返す。

 四場 重い課題

 彼らはアブラハムの信仰について話し合い、信仰と倫理の対立について考える。主人公は「イサクは可哀想だね」と発言し、その後も信仰と倫理について複雑な感情を抱え続ける。

 五場 状況の再整備・転換点

 松ぼっくり祭壇というアート作品について話題が広がり、美術館への訪問を約束する。颯は少し悩みながらも行くことに同意し、来週土曜日に決まる。

 六場 最大の課題

 パンデミックによって祭りが無くなったことや、小学校時代に担任から手洗いを褒められた思い出が主人公に影響を与えている。彼は手の清潔さに過度に気を使うようになり、強迫性障害の症状が現れ始める。

 三幕七場 最後の課題・ドンデン返し

 主人公は海沿いの公園で佐藤と出会い、担任への不満やクラスの雰囲気について共感する。この交流が彼に変化をもたらし、強迫症状も改善され始める。しかし、夢で颯とその母親との恐ろしい出来事を見ることで再び心が乱れる。

 八場 結末・エピローグ

 美術館で『松ぼっくり祭壇』が爆破される事件が発生し、そのニュースによって主人公は友情と恋愛の境界について考えながら、公園へ行く決意を固め、新たな感情と向き合う準備を整える。

 芸術家は幼少期に体験した「松ぼっくり祭壇」にまつわる奇跡的な出来事を思い返す。この祭壇は母を亡くした悲しみの象徴であり、松ぼっくりは神聖な存在として心に刻まれている。爆破事件によって自ら創作した物語への責任感や恐れを抱きながらも、芸術家は過去の痛みや欲望と向き合い、新たな感情や自己受容へと進む決意を固める。


 松ぼっくり祭壇の謎と、主人公に起こる様々な出来事の謎が、どう関わり、どのような結末に至るのか気になる。


 遠景で「パンデミックの傷は、まだ癒えない」と思考を示し、近景で「傷の窪みは戻らない」と感情を説明。心情で「僕は洗面台に向かって咳き込む」と行動を描く。

 世界観をまず伝え、パンデミックの余波を引きずっている状況から、それに伴ってできた傷のくぼみは戻らないとする。

 そして主人公は咳き込む。

 どこか悪くしたのが想像される。

 可愛そうだと共感を抱く。

 咳を四回し、ため息を付き、心の話をする。

「心はプラスチックみたいな可塑性を抱いているのだなと思う。いや、そうか、プラスチックの語源がそもそも可塑性なのだった。だったら心も『プラスチック』と呼べばいいじゃないかと思う」

 主人公は難しい表現をする子だと、印象をつけている。

 面白い表現。

 プラスチックの心を持つ主人公は、プラスチック製の歯ブラシを歯に押し付けてゴシゴシと擦る。

「鏡に映る自分の顔はいくらかニキビで凸凹としている」

 傷の窪みとつながりを連想させる。

 見た目を気にしていることから、どこかで傷の窪みと関連しているのかもしれない。

 傷の窪みとは、のちに出てくる強迫症のことかもしれないし、母親をなくした颯のことかもしれない。


「僕はいつも、傷つけるくらいなら傷つけられた方がいいのかもしれないと思う。しかし、実際に傷つけられたらそんなこと言ってられないぞと叱られるのではと変な被害妄想をすることがある」

 主人公の考えに共感をする。

 誰もが争いを好んでいない。でも、実際傷つけられたら反撃はするだろう。

 撃っていいのは撃たれる覚悟があるものだけ、という。

 ならば、撃たれていいのは撃つ覚悟があるものだけかもしれない。

 

「僕は本当の苦しみを知らないのだろうか。いや、僕は散々苦しんだはずだった。もうこれ以上ないと思うくらいに泣き叫んで、家族に迷惑もかけた。しかし、それもみんな経験していることなのかもしれない。精神科の待合室のあの静寂を孤独に耐えたことがあるのかもしれない。それなら『みんな苦しかったね』じゃだめなのか」

 主人公には、なにかつらいことがあったのだろう。

 生きるとは、誰の心にも辛いを抱え、背負っていくものだから「みんな苦しかったね」といいあえればたしかにいい。だけれども、アニミズムが豊かで母性的包含であった時代は過ぎ、不正的切断の個を尊重する時代の世では、なかなかそうはいかない。

 なにより、誰もが精神科の待合室のあの静寂を孤独に耐えたことがあるわけではないから。主人公が体験したこととはちがう辛さを、他の人は体験していてため、みんな苦しかったねと大枠で合意できたとしても、個々に立ち返ったときは「違う」となり、わかりあえず傷つけ合うかもしれない。


 主人公と颯が公園で『創世記』を読んで哲学的対話をしながら、信仰と倫理について深い考察を展開している。

 こんな中学生は稀有であろう。

 でも、プロローグでプラスチックが可逆性だとか、アンチルッキズムの時代とか、理屈をこね回しているモノローグからはじまっているので、友人と哲学的対話をするのは受け入れられると考える。そもそも、中学生くらいから自己アイデンティティーを意識するので、特異なことではないだろう。


 颯が引用する創世記のアブラハムとイサクの話は、信仰が倫理に優先することを示すもの。アブラハムは神の命令に従い、息子を捧げることを選ぶが、これは倫理的に非常に問題がある行動。この対話を通じて、彼らは信仰と倫理の間で葛藤を探求していく。


 主人公たちはキリスト教徒ではないものの、宗教的な物語や教義に対する興味を持っている。彼らは「何か巨大な物語」を信じて生きることが重要だと感じており、思春期特有の精神的探求につながっている。

 この点は、彼らが文学や哲学を通じて自分たちのアイデンティティを模索していることを示しているだろう。


「世界は液体だ。諸行無常は響いているし、万物は流転する。そもそも、あまりにも複雑で僕らの視力じゃ捉えきれない。だからビニール袋に包み込む。そうすれば持ち運べる。やっとそれについて語れるようになる。迷わないで済むようになる」

 この表現はわかりやすい。

 目に見える形のたとえを用いることで、読者にもわかりやすく想像させてくれる。要素還元主義のように一部を見て全体を知るような。

 世界を知るには、一部で見て全体を見、全体を見て一部を知るという総合的なものの見方をしなくてはいけない。一部を見てすべてを知った気になるのは危ういのだ。


 二人のやり取りは単なる雑談ではなく、深い哲学的な問いを扱っている。彼らは「イサク可哀想」と感それでもじつつも、その背後にある信仰の逆説についても考えている。「息子のイサクは可哀想だね」と発し、「やっぱりそう思う?」と颯は答え、「信仰が大事なのはわかるし、人間には重要なものの二者択一を迫られることはたくさんあるけどさ、だけど、そこでないがしろにされたもののことも僕は考えちゃうんだよな」主人公の言葉に颯は同意する。

 彼ら自身の価値観や信念を再評価する機会となり、自己理解を深める助けになっている。

 いまの時代の考えで物事を推し量っているようにも見える。いまほどの科学知識も倫理も持ち合わせていなかった時代には、いまとは違う考えや思想があっただろう。

 それでも、可哀想だね。


 最後に出てくる松ぼっくり祭壇というアート作品は、主人公がちが探求しているテーマと結びついている。

 人間や動物を捧げる行為に対する疑問から、松ぼっくりという代替物が提起されることで、宗教儀式や信仰のあり方について考えさせるきっかけとなる。

 このようなアートとの関連性は、彼らの思考をより具体化し、視覚的にも表現されるテーマとなっている。

 松ぼっくりについての考察は、読後に回す。


 主人公たちは信仰と倫理について深く考え、自分たちの価値観を形成していく過程を描いているのだ。

 文学やアートとの関連を持ち出し、彼ら自身のアイデンティティや存在意義についても探求し、読者にも同じ問いかけに直面したときに、自身の信念や価値観について考える機会を与えているのだろう。

 

 主人公が「金魚掬いは将来禁止になるかもしれない」と言い、金魚が遊び道具として扱われることが動物虐待につながる可能性を示している。遊びが動物に与える影響について考えるきっかけとなっている。

 谷川が「知識には重みがある」と述べ、知識を持つことが倫理的選択に影響を与えるという。動物に対する扱いや倫理的な問題について考える際には知識が重要で、それに伴う責任もあるといっているのだ。


 メルケルとアガンベンが持ち出されている。

 アンゲラ・メルケルはドイツの元首相であり、パンデミック中に移動の自由を制限する必要性を訴えた。彼女は移動の自由が歴史的にどれほど大切な権利であるかを理解しており、その制限には慎重であるべきだと強調した。

 ジョルジオ・アガンベンはイタリアの哲学者で、パンデミック中に人々が自由を簡単に受け入れている状況に警鐘を鳴らした。彼は移動の自由が基本的な権利であり、その制限が社会に与える影響について深く考えさせる意見を述べている。

 メルケルとアガンベンの対比は、自由と安全のバランスについて考える重要な視点。彼らは異なる立場から同じ問題(パンデミックによる自由の制限)について議論しており、それぞれの視点が社会における権利や自由について考えるきっかけとなる。

 メルケルは政策決定者として現実的な対応を求める一方、アガンベンは哲学的観点から人々が自由を失う危険性について警告した。この二つの視点は、現代社会における権利や自由について考える上で非常に重要である。

 パンデミック時に限ったことではない、ということだ。


「お祭りがなかったのはパンデミックがあったから」と主人公は語っている。

 社会全体が経験した制約や変化への意識が表れており、日常生活や文化的活動がどれほど大切であるかを再認識させるもの。

 自粛自粛で、すべてのイベントごとは中止に追い込まれたことは、同じ時代を生きてきたものにとっては、記憶に新しいだろう。


 金魚すくいや動物倫理から、知識と責任について考えさせられ、メルケルとアガンベンの対比を通じて自由と安全について深く考える機会を提供し、パンデミックによる社会的変化にもつなげることで、読者にも同様の問いかけを行っているのだ。


 エピソードの三では、主人公がパンデミックの影響を受けた社会での清潔さや倫理についての内面的な葛藤を描いている。

 いわば回想だ。


 パンデミック中、主人公は手を熱心に洗うようになり、清潔であることや善良であることが重要視される社会的圧力を感じ、社会全体が「潔白さ」を求める傾向にあった。

 そんな中、担任教師が手洗いをしない生徒Aに対して厳しく指導することで、主人公は社会の中での差別や孤立を目の当たりにする。

 ちなみに、小学生は生徒ではなく「児童」である。

 生徒Aはクラスメートからも疎外され、悪口を言われることでさらに孤立していく描写は、社会が「清潔さ」を重視するあまり、他者への配慮が欠けている状況を表している。

 主人公は、自分が善良で優秀だと思っていたが、実は他者を貶めることで成り立っていたことに気づく。この経験から、彼は全体主義的な環境での道徳的葛藤を感じ、自分自身の行動について悔いを持つようになり結果、主人公は手洗いや清潔さに対する過度なこだわりから強迫性障害に苦しむようになる。

 社会的プレッシャーが個人の精神的健康にどれほど影響を及ぼすかを描いている。


 奇しくも、パンデミックを経験することで、私達は戦争体験をしたのである。

 明治以降、諸外国に負けないために富国強兵野本国民教育という全員に同じもの、考え、価値観を与えて国難を乗り切ろうと全体主義の環境となった。それが戦時中の世界。

 ゆえに、パンデミックは第三次世界大戦といっていい現象だったのだ。過去の歴史を見ても明らかのように、戦争に行った兵士が心を病んでしまうのと同じく、パンデミックを経験したものは、大なり小なり心を病んでしまってもおかしなことではない。


 パンデミックの中、強迫性障害に中学受験と性の芽生え。

 過度のストレスで自殺を意識しても致し方ない。

 なにより、自由な交流が制限されているのは、相談もできない状況。内にこもりやすい環境なため、人は自意識と向き合うことになる。たとえるなら、鏡張りの部屋に閉じ込められたような状態。どこまでいっても自分しかいない。

 気晴らしができないのだ。


 佐藤との会話を通じて、主人公は自分だけではなく他にも同じように感じている人がいることに気づく。この交流は、彼が孤立感から解放される一助となり、道徳的な価値観について考えるきっかけとなり、「悪口」が倫理的な共有として機能することに気づく。社会的な圧力や差別に対抗するための一つの方法として描かれている。


 時代の変化は、つねに前時代の考えを否定することで成り立つ。戦時下の国民教育を否定して市民教育が生まれたように、政権が変わるごとに前政権の否定、悪口を演説するのと同じ。

 悪口をいうのはつまり、古い考えを否定し新しい考えを取り入れようとする現れなのだ。


 これらすべて、現代社会における個人と集団との関係について読者に考えさせている。


 創世記のアブラハムが神の命令に従うことは倫理的選択を象徴していた。彼は信仰と倫理の間で葛藤し、選択の結果に責任を持たなければならなかった。

 主人公もまた、清潔さを求められる社会で自分自身や他者に対する責任を考える必要が生じていた。

 金魚すくいに関する議論は、動物を遊び道具として扱うことが倫理的に許されるかどうかということ。

 主人公は、社会が求める「善良さ」や「清潔さ」に従うことが、他者への影響を無視することになる可能性に気づいた。


 主人公が学校で経験した厳しい指導や差別は、自由が制限される状況。

 生徒Aがクラスから浮いてしまう様子は、社会が求める「潔白さ」がどのように個人を孤立させるかを示しており、アブラハムが神への信仰によって自由を制限されることと共通している。

 金魚すくいについての議論も、楽しさ(自由)と動物への配慮(安全)とのバランスを取る必要性を示し、主人公は自分自身や他者に対する責任を考えながら行動することが求められていることに気づく。


 アブラハムの試練や金魚すくいについて考えることで、主人公は自己認識を深め、友人との対話や反省を通じて、自分が抱えている葛藤や社会的期待について理解を深めることで人間関係や社会との関わり方について深く考え、道徳的成長を遂げていくのだ。

 つまり、小学校での体験のトラウマを、哲学やアート、友人と議論することで、自分なりに受け止めて乗り越えようとしていたのだ。


 主人公はパンデミックや強迫症によって生じたトラウマに苦しんでいるが、水泳中ではトラウマが静止し、一時的な解放感を得ている。この瞬間、彼は自分自身や世界との関係について新たな理解を得るきっかけとなる。

「強迫は羽音を止めて、沈黙している」は、内面的葛藤から解放され、新たな視点(啓示)を得たことを示している。

 この啓示は、アブラハムが試練を通じて得た信仰の深まりとも関連しているのだろう。

 

 本作に夢として登場する『ソラリス』は、ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムによって一九六一年に発表された小説。

 神秘的な海に覆われた惑星ソラリス。この海は、単なる水ではなく、知性を持つ生物体で構成されており、惑星全体を覆っている。主人公のクリス・ケルビンは心理学者としてソラリス・ステーションに派遣。彼が到着すると、変わり果てた研究員たちが待ち受けており、彼らはソラリスの海が引き起こす奇妙な現象に苦しんでいた。

 ケルビンは、彼らが抱える恐怖や混乱の原因を探る中で、自身もまた海の影響を受け始める。彼の元恋人ハリーが「客」として現れ、彼女との再会が彼に深い心理的影響を与える。ハリーは彼の記憶から再生された存在であり、その出現はケルビンにとって苦痛と喜びが交錯する体験となる。

 ケルビンはソラリスの海が持つ意図や意味を理解しようと奮闘するが、その過程で人間存在の限界や自己理解の難しさに直面。彼は「他者」とのコミュニケーションの不可能性や、記憶と感情がどのように人間を形成するかという哲学的な問いにも向き合う。 最後にケルビンはハリーとの関係を受け入れ、過去との決別を図る決意を固める。しかし、その選択がどのような未来をもたらすかは明示されず、物語は曖昧な余韻を残して終わる。

 テーマとして知的生命体との接触、人間以外の存在との理解やコミュニケーションの難しさ。記憶とトラウマ、過去の出来事が現在に与える影響。人間存在の意味、自己認識や他者との関係性について深く考察される。

『ソラリス』は、科学と哲学、人間心理を交錯させながら、読者に深い思索を促す作品。

 おそらく、本作にも影響を与えていると考えられる。


 主人公は『ソラリス』のクリス・ケルヴィンになり、颯とその母親が登場する悪夢を見る。この夢は、彼が抱えるトラウマや不安、そして他者との関係性についての深い葛藤を象徴しているのだろう。

 颯の母が亡くなっているにもかかわらず、その存在が夢に現れることで、主人公は颯の傷や悲しみを理解しようとする意識があらわれている。

 アブラハムは神から息子イサクを捧げるよう命じられ、その選択によって信仰と倫理の葛藤を経験した。

 主人公もまた、夢を通じて他者(颯)の痛みや悲しみに直面し、それにどう向き合うかという試練を受けている。


 金魚すくいに関する議論では、楽しさ(自由)と動物への配慮(責任)の間で選択を迫られ、主人公は自分が他者に与える影響について考えさせられ、自由を享受することが他者への配慮を欠くことになる可能性を認識している。

 夢で、颯と母親が心中しようとしている場面では、主人公は颯を守ろうとする。この行動は、彼が友人に対して持つ責任感や愛情を示しているのだろう。自分自身だけでなく、他者の痛みや悲しみにも敏感になり、その結果として行動だ。


 夢から目覚めた後、主人公は自分が抱えていたトラウマや強迫観念が静止していることに気づく。つまりこの瞬間は、彼が自己理解を深めるための啓示ともいえる。彼は他者(颯)の傷について考え、「いつか聞いてみよう」と決意するのだ。


 アブラハムも自身の信仰や倫理について深く考える機会を得て、結果として神との関係性が強化された。

 主人公も同様に、他者との関わりを通じて自己理解を深めていくのだろう。


 主人公が見た夢は、颯との関係や彼の母親の死に対する無意識の恐れや不安、彼が抱える内面的な葛藤を表しており、颯との関係をどう理解し、受け入れるかに影響を与えていく。


 夢の後、『松ぼっくり祭壇』が爆破されたニュースを聞く。この事件は、彼が感じている不安や混乱をさらに強調するもので、彼自身のトラウマや心の傷と結びつく。爆破事件は、彼が持つ「不完全な神性」や「ソラリス的な神」の概念とも関連しており、現実世界における不条理さを象徴していると考える。


 颯が母親の姓「松田」を守ることにこだわる理由は、彼にとって母親との繋がりや思い出を大切にするため。これは、主人公が自分自身の欲望や感情に向き合う過程とは対照的。


 主人公が考えた小説で、松ぼっくり祭壇の爆破によって、「松」という名前を持つ人々が行方不明になる事態は、社会全体に混乱をもたらす。主人公はこの状況から逃げることなく、颯との関係を大切にしようとします。これは、自由(自分自身の感情)と責任(他者への配慮)のバランスを取ろうとする試みといえる。

 赤塚不二夫の漫画で「松」がつくといえば、『おそ松くん』だろう。アニメ『おそ松さん』もあったことから、知っている人は知っている。作品自体、硬めの内容なので、ちょっとした柔和な部分が不意打ちのように挟み込まれているところは、読者へのサービスかもしれない。こういうのはいいなと思った。


 主人公は夢や爆破事件を通じて、自分自身や他者との関係、颯との友情や、その背後にある複雑な感情に対して、自分自身の欲望や感情に正直になっていく。

 颯とのキスシーンは、主人公が自分の感情を受け入れる瞬間を描いている。この瞬間、彼が抱えていた葛藤から解放され、新たな自己認識へと至る重要なポイント。

 この愛情表現は、彼自身の成長や変化の象徴。

 つまり、他者への理解や配慮を得て、自分自身の感情を受け入れることで成長していく姿を描いている。


 だが、主人公は颯への欲望を抱きながら、その欲望が彼に強烈な吐き気を引き起こす矛盾した感情に直面している。

 吐き気は、夢の中で颯を抱きしめた後「颯を殺してしまった」と感じた葛藤や罪悪感の現れだろう。

 創世記におけるアブラハムもまた、神への従順さと倫理的選択の間で葛藤した。

 主人公も同様に、自分の欲望と他者(颯)に与える影響との間で苦しんでいる。

 主人公は颯が抱える痛みや悲しみを理解しようとし、自分自身の欲望と向き合うことで、より深い友情を築こうとしている。これは、金魚すくいにおける自由(友情)と責任(他者への配慮)のバランスとも関連しているだろう。


 佐藤との会話では、担任教師についての新たな視点が提供される。担任が過去に病んでいたことや、その恩師としての役割が明らかになることで、主人公は人間関係や過去の出来事について複雑な感情を抱くこととなる。このような多様な視点は、主人公が他者を理解するためにも重要な要素となる。


 主人公がニーチェやポストモダン思想について考えることで、倫理的選択や価値観が相対的であることを認識する。しかし、それだけではダメだとも感じており、この思考は彼自身の道徳的成長につながっていく。彼は他者との関係性や社会的な責任について深く考えていく。

 最後に主人公が公園に行くことを決意する。

 自分自身や他者との関係を大切にしようとする姿勢が表れ。

 颯との再会や牛丼を食べる計画は、彼が持つ友情への希望や再生の象徴。また、公園には松の木や松ぼっくりが残っているという期待感も含まれており、過去の記憶や思い出を大切にする姿勢が伺える。


 主人公は自己認識を深めつつ、友情を大切にする姿勢を持ち続けることで成長し、公園へ向かう行動によって、新たな希望や再生への道筋が示しているのだろう。


 長い文は、十行くらい続くところもある。句読点を用いた一文は長くない。読点のない一文は、重々しさや落ち着き、説明や弱さを表している。短文と長文を組み合わせテンポよくし、感情を揺さぶるところもある。文体は比較的にシンプルで、短い文章を重ねて、テンポよく物語を展開している。時折、詩的な表現や哲学的な交錯が挿入され、深みのある物語を作り出している。

 一人称視点で語られ、主人公「僕」の内面を深く掘り下げている。哲学的な思考と日常の出来事が巧みに織り交ぜられ、知的好奇心を刺激する。会話と内省のバランスは良く、登場人物の個性が際立っている。

 とくに内面的な葛藤や感情の変化を丁寧に描写することに重点を置かれていて、主人公の心理状態や思考過程が詳細に描かれ、おかげで読者は彼の苦悩や成長を深く理解できる。

 叙情的な表現もみられ、感情や状況が詩的に表現されており、水泳やプールの描写には美しさがある。

 対話と描写のバランスもよく、颯との会話によって哲学的なテーマが自然に展開されている。

 同級生との会話を通じて、社会的圧力や倫理観、主人公の内面的な変化が浮き彫りとなって物語が進行していく。

 途中、夢と現実が交錯する幻想的な雰囲気がある。スタニスワフ・レムの『ソラリス』をテーマにした夢の中の出来事と、主人公の内面的葛藤を描いている。また、哲学的な考察と日常的な出来事が織り交ぜられている。

 現実の出来事と主人公の妄想や夢が巧みに織り交ぜることで、現実と非現実の境界線を曖昧にさせる効果を出している。

 なにより、パンデミック後の世界を背景に、青春期の知的探求心を鮮やかに描いている点が素晴らしい。

『創世記』や実存主義など、難解なテーマを中学生の視点で分かりやすく考察しているのも特徴で、友情や成長、社会の変化など、多層的なテーマを扱いながらも読みやすさを保っているところが、作者の技量の凄さでもある。

 主人公の強迫性障害やトラウマがリアルに描かれており、彼の苦しみを共感しやすい。また社会批判として、教師の差別的な態度やクラスメートとの関係性を通じて、学校社会の問題が浮き彫りにしている。そんな状況ありながらも、主人公が自分自身を受け入れ、成長していく過程が描かれている。

 夢と現実が交錯し、不気味な雰囲気を醸し出しているのも特徴。

 夢で『ソラリス』の世界観を巧みに取り入れ、主人公の心理状態と重ね合わせて描き、友情と恋愛の境界線の曖昧さを繊細に描いているところや、ニーチェやポストモダン思想への言及があり、深い思索を促しているところも興味深い。

 社会問題(気候変動、テロリズムなど)にも触れ、物語に奥行きを持たせているところもとよかった。

 松ぼっくりや吐き気など、象徴的な要素が多用されている。

 なにより、主人公の葛藤や欲望を赤裸々に描写しながら、複雑な心理状態が細やかに描かれている点が凄まじい。とくに性的欲望と罪悪感、喪失感と創造性の間で揺れ動く心理が巧みに表現されているのが優れた点といえる。

「松ぼっくり」や「祭壇」といった象徴的な要素が効果的に使用され、物語に深層的な意味を与えているところも注目したい。

 哲学的な問いかけは、読者に考えさせるテーマが多く含まれ、松ぼっくり祭壇という概念が新鮮で印象に残る。

 パンデミックや同性愛、芸術と社会の関係など、現代社会の問題に触れながら物語を展開しているところが、本作の凄さであり、ウリである。


 五感描写では、場面が生き生きと感じられるよう、環境音や触覚的な要素が豊かに描かれ、水泳中の感覚やプールの冷たさ、日差しの温かさなど、読者は主人公の体験を追体験しやすくなっている。

 視覚は「テーブルは昨日の雨で少し湿っていた。椅子も湿っているし、床はびちゃびちゃだった」と、雨上がりの東屋の様子を鮮明に描写。プールの水面や日差しなど、視覚的な要素が鮮明に描かれています。「プールの冷たさ」や「太陽が眩しい」「赤黒い液体が飛び散る」「颯より少し背の高い女性」「透明なコップと水。透明なはずなのにそれは歪みを見せていて」「空が青い。街はグレーに近い色をしている。しかし、同時に鮮やかにも感じられる」颯やその母親の姿、青空、窓から見える景色や松ぼっくりの美しさなど、詳細な描写が豊富。

 触覚は「プラスチック製の歯ブラシを歯に押し付けてゴシゴシと擦る」朝の日常を感じさせる。特に水中で感じる静けさは、内面的な解放感を表現している。「冷たいプールの表面」「水が身体を阻む」「手を繋いでいる」「強く抱き抱えた」「手の感触」「冷たい風が吹いていた」「手と手が絡み合う」手を握り合う感覚や抱擁の温もりが生々しく描かれ、落葉の感触や松ぼっくりへの触れ方など、身体的な感覚が強調されている。

 聴覚「ゴホッ、とかなり大きいのが四回くらい」という咳の音の描写が、主人公の体調を伝えている。風鈴の音や水の音など、周囲の音によって主人公の心情が強調されている。「だめだ!」と叫ぶ場面、「一歩進むたびに落葉の擦れる感触がした」プールでの水音、友人との会話や叫び声、周囲の音など。

 嗅覚はないが、雨上がりの公園の匂いを想像させる場面や、水泳後の爽快感を感じる香りも暗示されている。

 味覚はないが、知的探求を「味わう」と比喩的な意味で捉えることができる。


 主人公の弱みはパンデミックによる精神的な傷を抱え、自分自身や周囲との関係に不安を感じていること。また、信仰や倫理について深く考える一方、自分の意見に自信が持てないという弱さもある。

 強迫性障害による過度な清潔志向や他者への無関心もあり、他者の傷を理解することに対する傲慢さや無力感を抱えており、それが彼自身の内面的葛藤を深めている。結果、自らの欲望と罪悪感に苦しむ姿勢は、彼の成長を阻む原因となっている。さらに幼少期のトラウマから逃れられず、それが現在にも影響している。


 さてエピローグである。

 これまで語られてきた男子中学生とは別、松ぼっくり祭壇を作った芸術家が主人公だとして捉えた。

 これまでの物語は、男子中学生の少年が自分の内面的な葛藤や友情、欲望、トラウマについて探求してきた。彼は颯との関係を通じて成長し、他者への理解を深めていく過程が描かれている。


 対してエピローグでは、松ぼっくり祭壇を作った芸術家が登場。この人物は、幼少期に母親を亡くした経験から「松ぼっくり」に特別な意味を見出し、弔いの象徴として表現している。芸術家は、過去のトラウマや喪失感を持ちながらも、自身の経験を作品に昇華させようとしているのだ。


 少年と芸術家は異なる人物だが、彼らの物語には共通するテーマがある。どちらも喪失や悲しみ、内面的な葛藤について考え、それに対する反応や成長が描かれていること。

 少年は他者との関係性を通じて自己理解を深めていくが、芸術家はその経験を作品として表現することで自己を再構築しようとしている。


 少年時代に抱えていた葛藤や欲望は、エピローグで表現される芸術家としての視点によって、過去の経験がどのようにアイデンティティや価値観に影響を与えるかを描いているのだろう。


 少年は内面的な葛藤や友情を通じて成長し、芸術家はその経験を作品として表現することで自己理解を深めていく。

 それぞれの物語は独立しているものの、全体として成長物語として一貫したテーマが展開されているのだ。


 男子中学生である主人公も、芸術家の存在によって変わったと言える。

 主人公はパンデミックの影響で心に傷を抱え、自己評価が低く、友人との関係や自分自身を理解しようとするなど、さまざまな不安を抱えていた。そこに芸術家が創り出した「松ぼっくり祭壇」というアート作品を通じて、彼は自己受容や感情の整理を進めることになる。

 芸術家は母親を亡くした経験を持ち、その悲しみをアートで表現している。

 この作品を知ることで主人公は、自身の感情や過去と向き合う手助けとなっていったのだ。芸術家の視点や創造性から影響を受け、彼自身も成長していく過程で、自分の感情や周囲との関係を見つめ直すことができるようになる。

 そんなときに美術館で起きた爆破事件は、芸術と社会の脆弱性を象徴し、主人公が直面する現実と内面的な探求が交差する重要な出来事ともなっている。

 このように、芸術家の存在は主人公の成長に大きな影響を与え、彼が新たな一歩を踏み出すためのきっかけとなっているのと考える。


 主人公は自分の存在意義や承認欲求と現実とのギャップに苦しみながらも、再び颯に連絡を取る決意を固め、二人で牛丼を食べ、公園へ行く計画を立てる。

 この公園には松の木や松ぼっくりが残っていることを思い出し、そこに向かうことで新たな希望や再生を見出そうとしているのだ。彼はこれからも、自己理解や他者との関係性について深く考えていくことを予感させていく。


 芸術家もまた、爆破事件のニュースを知って、「その時私は啓示のように直感した。今日もまた、卵が割れた」とある。

「卵が割れた」直感は、過去のトラウマや母の死を乗り越え、新しい自分に生まれ変わる準備ができたことを意味しているのだろう。これは彼の内面的な変化や成長を象徴しており、過去を手放し、未来に向かって進む決意の現れだと考える。


 一部の哲学的な議論が長引きすぎていて、物語全体のテンポを損なう可能性もある気もする。颯や友人たちについて、もう少し深堀りされていると、物語に厚みが増す。ただ、文字数を考えると、多くのキャラクターを深く描けない。難しいところである。

 あと、松ぼっくり祭壇について、もう少し具体的な背景情報を加えっれていると、読者により強い印象を与えることができるのではないだろうか。


 読後。

 非常に難解でした。

 タイトルの不思議さに引かれて、最初読んだときは、感想を書くには時間がかかると思い、後回しにしたことを覚えている。中間選考を通過したときは、やはり選ばれたかと思いながら、後回しにしてはいけなかったと反省した。

 タイトルの『松ぼっくり祭壇』について、思いを馳せてみる。

 松の木は日本文化において長寿と繁栄の象徴。

 松ぼっくりは松の木の一部なので、同様の意味を持つと考える。

 松の木は神道や仏教において神聖な存在とされ、松ぼっくりも精神性や清浄さを象徴する可能性がある。

 松ぼっくりを使用することで故人と自然との調和や一体感を、かさが開くイメージからは故人の精神的な成長や解放を、種子が新しい生命を生み出すことから故人の生命が別の形で続いていくことを、松の持つ神聖さや清浄さのイメージからは故人の魂の浄化を、常緑性から故人の記憶や存在が永遠に続くことを表していると思われる。

 また、松ぼっくりの「ぼっくり」は、「ふぐり」という言葉に由来し、睾丸を指す俗語。松ぼっくりは二つ並んだ形状が睾丸に似ていることから、男根の象徴として解釈されることがある。「まつぼっくり」は「まつふぐり」がなまったものであり、この言葉自体が少々恥ずかしい意味を持つことを示している。

 つまり、本作は男性性や父性性について扱っている作品だと考えられる。

 読む前から、俗語的な意味合いを含んだ内容の作品なのかと直感めいた印象を覚えたことを覚えている。

 たしかに、主人公は同性愛的な感情を抱いていることを作中でもえがかれているけれども、本作はそうした俗っぽさだけではなく、もっと大きな枠組みで捉えている。

 颯や芸術家も母親をなくし、内面的葛藤を描き、松ぼっくり祭壇という象徴で弔い、成長や思い出を表現している。

 幼少期の体験が成長にどのような影響を与えたかも描いている。これは幼い子供が母離れして大人になり、自立に対してどう向き合うのかを描いているともいえるし、アニミズム文化を持ち合わせていたかつての日本も、いまや個の時代となり、他者への寛容が薄らいでいる現状にどう向き合っていくのかを描いているとも捉えることができる。

 母をなくした、つまり母性がなく父性であり、父性は切断を意味している。

 世の中断絶し、思いやることが希薄になっている。グローバル化を目指して世界は一つになったかに思えたが、パンデミックを経て戦争が起きて、世界は西側とそれ以外に分断されつつあるのが現在の世界である。

 松ぼっくり祭壇が爆破されたことは、母性だけでは駄目だし父性だけでもよくないからこそ、古い考えである過去からとき放ち、新たな一歩を踏み出すことを意味しているのだろう。

 そうした現代の状況と関連させながら、主人公と颯との友情物語が中心に描かれており、その関係性が非常に複雑で興味深かった。

 主人公が抱く、颯への感情が友情と愛情の間で揺れ動く様子は、多くの人が共感できる部分思った。

 パンデミックの状況下で彼らが自分たちの感情や欲望をどう表現するかという課題は、現代社会にも通じるものがある。

 パンデミックの世を抜けたとはいけCOVIE19がなくなったわけではなく、世界は分断されたまま混迷を深めている状況下において、私達も彼らと同じ課題を突きつけられて生きている。

 松ぼっくり祭壇は、芸術家自身の成長や他者への理解を深める手段となっており、芸術は単なる表現ではなく、自己理解や他者との関係性を築く重要な要素だと教えられた気がする。

 全体を通して、相対主義や倫理的選択について考察されている点も非常に興味深かった。

 主人公は、自分自身や他者との関係性について深く考えることで成長していく。

 いまを生きる十代の若者はじめ、多くの読者にとっても重要な問題であり、私事として考えさせられる部分は多々あった。

 こういうものを高校生が書きまとめるとは、いやはや恐れ入った。

 


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