Guideline

Guideline

作者 中尾よる

https://kakuyomu.jp/works/16818093081134227705


 キリスト教に疑問を持ち始めたプロテスタントの女性・橋塚みなみと、キリスト教に興味を持ち始める無宗教者の男性・多田信は信仰と疑問、それぞれの決断を通じて、女は教会を去り、男は入信する道を見つける話。


 現代ドラマ。

 ダブル主人公。

 信仰と自己探求をテーマにした深い物語。

 五感を使った描写が豊富で、物語に没入しやすい点も魅力的だ。

 生きる指針を考えるきっかけになるかもしれない。


 キリスト教に対する信仰や疑問を抱える二人の主人公、多田信とみなみの視点から書かれた文体。それぞれ一人称、「俺」「私」で、自分語りの実況中継で交互に綴られている。


 それぞれの人物の想いを知りながら結ばれない状況にもどかしさを感じることで共感するタイプの中心軌道に沿って書かれている。


 多田信は、仕事に疲れ果てた中年男性。彼は孤独な生活を送り、友人や家族との連絡も途絶えている。

 ある日、十年前に亡くなった同僚・橋塚正義のことを思い出し、彼の追悼行事の葉書を見つける。橋塚は正義感に溢れ、聖書を引用することが多かった人物で、多田信にとって頼りになる存在だった。

 多田信は橋塚のことを思い出しながら、ビールを飲み続ける。彼は自分の人生に意味を見いだせず、仕事でも成果が出ずに叱られる日々に疲れ果てている。橋塚が生きていたら、彼の助言を聞きたかったと考える。

 翌朝、橋塚の追悼行事の葉書を見て、彼は思い立って教会に向かう。教会で十字架を見つめると、母の腕に包まれるような安心感を覚え、涙を流す。そこで彼は、自分の道を見つけたと確信し、クリスチャンになる決意をする。

 教会で出会った牧師の松田に、クリスチャンになりたいと告げる多田信。彼は橋塚のように生きる道を見つけたのだ。


 橋塚みなみは、プロテスタントの家庭で育ったが、キリスト教に対する疑問を抱き始めている。

 幼い頃から通っていた小さな教会で、牧師の松田先生と話をする。彼女は就職が決まったことを報告し、聖書についての疑問を松田先生に尋ねるが、松田先生は「主の言葉をただ受け止めればいい」と答える。その後、父の十回目の命日が近づいていることに気づく。

 父の記念集会に母と共に参加し、父の思い出話をする中で、主人公はキリスト教の教えに対する疑問を抱き始める。母にキリスト教徒にならなかった理由を尋ねると、母は「キリスト教の考え方がよくわからない」と答える。

 主人公は、教会に行くことをやめる決意をし、母にそのことを伝える。母は「みなみの好きなようにすればいい」と軽く受け止める。キリスト教を信じていたからこそ今の自分があると感じつつも、新たな自由を手に入れる決意を固める。


 三幕八場の構成で書かれている。

 一幕一場、状況の説明、はじまり

 主人公の「俺」は仕事に疲れ、孤独な日々を送っている。友人や家族との連絡も途絶え、過去の同僚「橋塚正義」を思い出す。

 二場、目的の説明

 主人公の「私」は教会で牧師の松田先生に聖書の疑問を尋ねるが、納得のいく答えを得られず、父の十回目の命日を迎える。

 二幕三場、最初の課題

「俺」は仕事で部長に叱責され、自己嫌悪に陥る。父の記念集会に参加するため、母と共に教会へ向かう。

 四場、重い課題

 記念集会で父の思い出を語り合うが、信仰に対する疑問が深まる。「私」は母にキリスト教徒にならなかった理由を尋ねる。

 五場、状況の再整備、転換点

「俺」は橋塚の追悼行事の葉書を見つけ、彼のことを思い出す。酔った勢いで橋塚に対する本心を吐露する。

 六場、最大の課題

翌朝、教会に向かい、十字架の前で涙を流しながら橋塚の言葉を思い出す。「俺」はクリスチャンになる決意を固める。

 三幕七場、最後の課題、ドンデン返し

「私」は母にクリスチャンをやめることを告げる。母は驚くことなく受け入れ、二人で新たな生活を始めることを決意する。

 八場、結末、エピローグ

「俺」はクリスチャンとして新たな道を歩み始める。「私」は信仰心を捨てても自分自身を見つめ直し、自由を感じる。


 Guidelineの謎と、主人公たちに起こる様々な出来事の謎が、どう関わり、どのような結末に至るのか気になる。

 本作は二人の主人公で交互に描かれていくが、クリスチャンだった橋塚正義の関係者として描かれているが、直接的に交わることはない。


 遠景でフェイクレザーが擦り切れた一人用ソファに身体を預ける多田信が描かれ、近景で体が動き、心情で三十年で薄汚れた天井と、十数年前に同僚が“女性は丸いテーブルが好きらしいぜ”と信じて買ったテーブルは晩酌用になっていると語る。

 主人公がどこにいて、どういう人間なのかがおぼろげなから語られている。

 友人や家族とはもう長い間連絡をとっていない独身の主人公は、何かと聖書を引き合いに出す橋塚正義という同僚を思い出し、彼が交通事故でなくなったときのことを思い出している。

 孤独で、一人、寂しくも可愛そうで共感していく。


 遠景で、チャーチベンチの門になぞりながら十字架を見上げる橋塚みなみが描かれ、近景で子供の頃は大きく見えたが自分の背丈と変わらないと説明され、心情では、元々小さい教会で、他県の十字架のきらびやかさに驚いたと語る。

 主人公がどこにいて、どういう人間なのか、おぼろげながらわかってくる。

 就職が決まったことを牧師の松田先生に報告していることから、大学生なのがわかる。子供の頃から聖書でわからないことがあると尋ねるも、

 「主が仰られたことを、あなたはただ受け止めればいいのです。そのようなことを追求しなくとも、主はいつも私たちを見ておられます」といわえ、何をいっても同じ答えしか帰ってこない気がして気持ちを押し隠していく。

 突き放されたような、孤独、寂しさを感じなんだかかわいそうに思えるところに共感していく。しかも、数日後には父の十回目の命日が来るとわかる。


 長い文。十行くらいで改行。句読点を用いて一文は長いことはない。短文と長文を組み合わせてテンポよくし、感情を揺さぶっているところがある。ときに口語的。シンプルで読みやすい文体だが、感情の描写が豊かです。内省的な描写が多く、登場人物の心の動きが丁寧に描かれているのが特徴。

 信仰と自己探求という深いテーマが扱われており、考えさせられる内容である。

 登場人物の感情が丁寧に描かれており、共感しやすい。五感を使った描写が豊富で、物語に没入しやすいのも良いところ。

 薄汚れた天井、ベージュの丸テーブル、教会の十字架、目の前に転がる缶ビールや枝豆の皮など、具体的な視覚描写が豊富。

 聴覚は鳥の羽音、炭酸の音、部長のため息など、音の描写も効果的に使われている。

 触覚は冷蔵庫の重み、冷房のひんやりとした感触など、触覚の描写もある。

 味覚はビールのほろ苦さ、枝豆の甘さなど。嗅覚は靴下の匂いなど少しある。


 主人公の弱みとして、多田信は孤独感、仕事のストレス、自己肯定感の低さがあげられる。特に橋塚の死後、自身の存在意義を見失いがちになっている。

 みなみは信仰に対する疑問、父親との関係、母親との距離感が彼女の弱み。

 子供の頃から抱いていた疑問を牧師に尋ねても、気にしなくていいと返される。父が亡くなったとき、「松田先生に“お父様は神の祝福を受けられたのです。安らかにお眠りになられますように”と言われたのを覚えている。例えそれが交通事故だとしても、それは神の祝福なんだろうか? 神の祝福とは、そんなにも痛くて辛いものなんだろうか」と疑問をいだいている。

「成人してから洗礼を受け、キリスト教徒になったにも関わらず信仰深い方でした」とあり、父親はもともとキリスト教徒ではなかったのがわかる。


 おそらく、橋塚正義と多田信は対のような存在なのだろう。

「俺はここにいる必要があるのだろうか? 存在意義などないんじゃないだろうか。そうだろう。俺一人いなくなったところで誰も困らないし、悲しまない」

 そう考えたことが、おそらくあったのだと推測する。

 なにかのきっかけで教会を訪れ、「今まで感じたことのない光を十字架から感じ、俺は母の腕の中に包まれているような懐かしさと安心感に包まれた。ゆっくりと、俺の中の何かが頭をもたげ、気づいたら頬に生温かい液体が流れるのを感じていた。どうしてかはわからない。だが俺は確信めいた気持ちで思った。これが道だ、と」感じることがあってから、入信したのだろう。

 

「“信じるものは救われる”父はとても信仰深かったから。けれど、では信じなかったものは? かの有名なノアの方舟のように、いつかは排除されてしまうのだろうか。主にとっての人間とは、いったいなんなのだろう」

 実に最もな意見である。

 肯定しない人間は信用できないし、側にも起きたくない。疑わず、自分で考えず、盲信することだけを求めているのが神なのかと疑問を抱いてもしかたがない。


 母は、直感で「なんか感じ悪いな」と感じているのだろう。

 ちなみに、日本人は無信仰ではなく神道を信じていると思う。宗教とは浸透すると教義とかは廃れて形だけが残っていく。

 また浄土真宗は南無阿弥陀仏と唱え、阿弥陀如来にすがっている。阿弥陀様は信じようと信じまいと救ってくださる。

 仏教では「世間を空なりと観ぜよ」とお釈迦様は仰られ、お経の至るところに空を説かれ、般若経典の一つ『般若心経』の「色即是空」など有名であり。二世紀後半のインド人で大乗仏教学者、中観派の開祖、龍樹菩薩(ナーガールジュナ)は「世界は全て心のみで存在し、全てが幻、この世はフィクション」であると提唱。

 一つが全、全は一つという考え方は、全ての物や人間関係は、その存在が相互に依存して成立し、全てがフィクションであるという考え方を持っている。


 信者が教会に行って神へ祈りを捧げるとき、全能なる神と一個人の人間が一つにつながる。

 寺や神社に行って手を合わせるのも同じ。

 一つは前、全は一つ。

 自分と世界を一つに感じることで、自分が生きている、生かされているという実感を得られるのだ。

 子供を見ればよくわかる。

 いつでもワクワクしているのは、自分と世界を一つに感じて生きているから。

 なにかがわかったとき、自分と対象との結びつきを感じ、腑に落ちる。「なるほど」と、自分のものとして受けれ入れることができたとき、ワクワクして喜びを感じられるのだ。

 橋塚正義にとって、それが教会だった。

 彼になりたいと思った多田信は、入信した。

 多田にとって、橋塚が世界であり全だから。

 娘のみなみは、そう思っておらず、父親がキリスト信者だったから自分も入信してきただけだろう。彼女にとって全とは感じられず、母の方に全をみたのかもしれない。


 読後、ふと思い出す。

 よく言われることだが、外国人と日本人とでは精神的支柱が違う。キリスト教など信じている人達の方が、圧倒的にメンタルが強い。

 天皇崇拝をしていた時代の日本なら、精神面は強かったと思う。

 いまは平気で、無信仰、無神論者という。その割に、お寺や神社にお参りするし、葬儀や家の建てまし等の儀式には参加するし、お墓参りもする。

 なんのために生きているのか、存在意義がわからない、メンタルが弱いと思ったら、神社仏閣に足を運べばいい。

 近くにないなら、山や海、森や田畑、川や水、風や光、鳥や虫や獣や魚、自然に触れて褒めればいい。

 自分と世界が一つに感じられたら、なにかわかる。守りたいものに出会ったら、自分のできることを精一杯すればいい。

 生きる指針、ガイドラインは人それぞれ。

 多田の生き方も、みなみの生き方も間違っていない。

 一人では生きられないから、誰かに出会い、迷い、すがり、信じるのだと、本作を読んで改めて考えさせられた。

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る