エナちゃん
エナちゃん
作者 雨湯うゆ🐋𓈒𓏸
https://kakuyomu.jp/works/16818023212054866932
島根県邑南郡南部の伝統と因習、エノケという胞衣桶と「あの神」にまつわる儀式に潜む恐怖を描いた話。
ホラー。
神秘的な日本の伝統と信仰、特に地方の独自習慣「エノケ」という謎の儀式と、それに関連する神秘的な神々を中心に展開され、読者に深い恐怖と興奮を与える作品。
難解で読み応えがあり、雰囲気や描写もすばらしい。
「1.エノケ」の主人公は、たたら製鉄を調べる女性民俗学者。一人称、私で書かれた文体。「2.一軒家で見つかった日記の抜粋」は、日記を書いた十五歳の佐山。一人称、僕で書かれた文体。「3.エナオケ」では、たたら製鉄を調べる女性民俗学者で一人称「私」と、島根県の大学佐山 康二先生で一人称「私」で書かれた文体。「4.エナちゃん」では、たたら製鉄特集のために島根にある大学に訪れた一企業内記者、一人称「僕」で書かれた文体。自分語りの実況中継、ですます調で書かれている。
「5.種々の記録」は、それぞれ記事などに書かれた文体。
女性神話と、それぞれの人物の想いを知りながら結ばれない状況にもどかしさを感じることで結ばれるタイプの中心軌道に沿って書かれている。
おそらく、佐山康二は島根県の邑南郡に近い地域で育つ。彼の家には変わった因習があり、幼少期から正月前に犬を殺して棒に巻きつけ飾るという「赤不浄」を嫌い「黒不浄」を好む『あの神』、八幡神を祖として、火の神の信仰も受けつがれるタタラ神を迎えるための儀式行事を行っていた。
佐山少年は、ペットショップで買ってきた犬に名付けては出血させず殺すことを父親から言いつけられていた。三回目以降は、自分と同じ年齢の数字を名前をつける。道徳にて、安楽死を希望する祖父と詩色ちゃんが言い争う話があり、彼はなぜ詩色ちゃんが正しいのかわからず、人の死は個々のものとする考えを持っていた。
佐山少年が十五歳のとき、島根県で開催される八幡まつり前の四月十二日ごろ、神降ろしの儀式に佐山家族や友人の磐野茅を使ったとされる事件が発生。その際、家族は串に縛り付けられた状態で、友人は胎盤をえぐり取られ、容疑者である佐山家長男十五歳男の自室に横たわっている状態で見つかる。胎盤はエノケに収められ、十キロ離れたアパートの一室で発見される。
佐山康二は大学で鉱山儀礼を専門とする教授(?)となる。彼は邑南郡の歴史や文化について研究を続けている。ペンネーム佐山康次の名で「えなちゃん」という本を執筆、邑南郡の文化や神降ろしの儀式について詳述する。彼の研究により、邑南郡の「数へ歌」や「胞衣桶」などの文化が明らかになる。
たたら製鉄を調べる女性民俗学者が邑南郡南部を訪れ、特に鍛冶場、火、鉄の神に関する信仰が強い地域である散居村の文化や信仰について調査しにくる。神職を担ってきた家系の彼の家に案内してもらう。
『あの神』の霊魂を沈めるため、この地に伝わる数へ歌を元に、屋敷林には桃・竹・松・千両の少なくとも四つは植えるべしと伝えられ、お金持ちはさらに六種加えて植え、新年を迎えた際、かつては木の種類が多いほどその年は良いと信じられ、これらの木の枝をそれぞれ折って火にくべ鉄を作られていた。
腐臭からエノケの名が出るも知らなかったため、「これ持ってはよ帰れ」と「エノケ」という物を渡される。
国の図書館で邑南郡の歴史に関する本を調査するもわからなずじまい。大学時代の佐山康二先生に相談し、エノケは胎盤を入れるための「胞衣桶」であることが判明。「あの神」=タタラ神について関連している話を聞く。
上司から調べて来いと言われた一企業内記者が、たたら製鉄特集のために島根県にある大学に訪れ、佐山康二先生の話を聞きに来る。
一説には中国大陸からの渡来人という「あの神」に関する話を聞き、仕事歌として伝わる、たたら歌、ばんこ節、数へ歌があることを紹介。『一で矢竹 二で任都の桃な 三で・・・』と言ったようにこれが十まで続き、最後まで言い終わると『えなちゃんが春に根の中かえった』で締められる。十種のうち三種が木本植物で、竹を含む七種が草本植物という、何か意味があるのかもしれないが、韻だけを考えたような歌としか思いようがなかった。『あの神』の神降になんらかの関連性がある可能性があると語る。
「『えなちゃんが春に根に帰る』とは?」の問いには、「わかりません」と答え、別れ際に「かわいそうに」と記者に告げて佐山康二は、構内へ帰っていった。
怖いミステリーがホラーである。
ホラーのラストには、主人公が助かるか命を落とすかの二種類がある。本作は前者と思われる。
ホラー作品である本作は複数の視点から語られている。
それぞれが全体のパズルの一部を形成しているため、読者は物語全体を理解するために各部分をつなぎ合わせることが求められる。
ただでさえ散りばめられたパズルのピースを解き明かして一つの答えにたどり着かなくてはならないのに、複数の視点を一人称で書かれているところに、全体像の把握を困難にさせているやっかいさがあると考える。
しかし、それが怖さや怪しさ、不気味さを作り出すものであり、本作の味でもある。
神秘的な伝統と信仰、その中に潜む恐怖を描いた本作。
物語の中心には「エノケ」という名の胞衣桶があり、特定地域の伝統的な習慣で、胞衣を埋めるためのもの。
この「エノケ」が、異なる視点から描かれている。
一、民俗学者の視点
彼女は「エノケ」についての研究を行い、その起源と意味を探っている。彼女は「エノケ」が「あの神」の信仰と深く結びついていることを発見する。
二、佐山少年の視点
彼の日記には、彼の家族が「エノケ」を作る伝統を持っていることを明らかにしている。彼の家では、正月前に犬を殺し、その死体を棒に巻きつけて飾るという独特の行事が行われている。彼はこの行事が「あの神」を迎えるためのものだと理解している。
三、佐山康二先生の視点
佐山先生は「エノケ」が「あの神」の神降の儀式に関連している可能性を示す。また、「エノケ」が一定の方角に埋められていたこと、「春」が陰陽五行説における「東」を表すことの関連性を指摘。「エノケ」が「あの神」の関わる鉱山での出血を伴わない不審死と関連していることを示す。「あの神」は死(黒不浄)を好み、出産や生理(赤不浄)を嫌うとされている。
四、記者の視点
記者はたたら製鉄特集のために、情報を求めて佐山先生を訪ねる。
「あの神」にまつわる説や、仕事歌の中に「あの神」も出てくる事を知り、数へ歌にある『えなちゃんが春に根に帰る』に興味を示す。
五、記事
物語の背景となる「エノケ」と関係する事件や事実を提供。仕事歌や数へ歌など、物語の他部分と組み合わせて解釈すべきもの。佐山康二先生の所有する書籍と思われる。
それぞれの視点が異なる解釈と理解を提供し、全体像を描き出す。
だが、物語の真の意味は、これらの視点を組み合わせて解釈する読者に委ねられているだろう。
「私が是れを知った所以は、とある神――ここではその名を口にする事が憚られるため、以降は『あの神』と呼称しますが――これについてフィールドワークで島根県と広島県の県境、つまるところの邑南郡南部の方に訪れたのがきっかけです」ではじまる謎と、登場人物たちに起こる様々な出来事の謎が、どう関わり、どのような解決と結末に至るのか、難解ながらも非常に興味がそそられた。
邑南郡地域と民間信仰を詳細に描き出すことで、謎とともに新たな洞察を得ていく展開が、面白さを生んでいる。
火や鍛冶場、特にたたら製鉄を司るとされ、地元の民間信仰に深く根ざしている、邑南郡地域の特定の神「あの神」について調査している民俗学者が、地元の住民から「エノケ」と呼ばれる匣を渡されるところから始まる。この匣は、胎盤を保存するためのもの。知らなかったためか、匣を渡された後、追い出されてしまう。「当然意味もわからず、ただ何か粗相でもしたのかと思い、すみませんと連呼だけしていました」ところから、人間味を感じる。
話を聞きに来たら追い出されて、可哀想なところに共感する。中を開けると、「中にはなまじ黒く染まった胎盤がありました」とあり、いったいなんなのだろうと、驚きと恐怖と好奇心で、興味を惹かれるところで一話が終わる、この引きがいい。
キャラクターの内面と動機を深く掘り下げ、彼らが直面する恐怖と緊張を強調されているところが良いところだろう。これにより、読み手は登場人物の経験と感情に共感し、物語に深く没頭できる。
「1」は、敬体であるですます調で書かれ、「2」は日記で常体。「3」以降も常体で書かれ、佐山康次著作『えなちゃん』では、敬体になっている。
おそらく、敬体で書かれている「1」は、民俗学者が佐山康二先生を訪ねた際、自分が体験したことをメール綴った文面なのではと考えた。こんな体験しましたよ、と。
でも文面にエノケが出ているのに「3」で、「この匣の名前、譲り受けた時に言われたのかい?」と佐山先生が聞いていることから、メールで送った内容ではないだろう。
「1」は読者に向けた、壮大なナレーション。
メールにはそれを抜粋した内容、邑南郡地域の特定の神「あの神」について調査しに行ったところ、気分を害されたのか匣を渡されて追い出されてしまったことを書いて、調べても匣がわからないので教えてほしい、という文言だったと推測する。
長い文が多く、五行以上続くところが多く見られ、描いているお話の内容の込み入った難しさが文面からも受け取れる。それでも、読みやすくしようと句読点を入れ、文の間に会話を挟み、長い会話文も、読みやすくしようとしているのがわかる。
日記に注釈が付けられていて、補っているところから、書籍に掲載する際、著者がつけたものと考えられる。
登場人物の状況や心情を表す際、人物の動きによって示した書き方がされており、読みがいのある文章となっているのもいい。
五感の描写について、視覚的情報はもとより、聴覚や嗅覚、触感、味覚を刺激する情報が意識的に書かれている。
とくに嗅覚、においの描写がいい。
「正直なところ私は、ひどく後悔しました。屋敷の中を支配する異臭が私の粘膜という粘膜に芳しい刺激を与えてきて。酸性の臭い、腐臭に近いのかもしれない。とかく気持ちの悪い臭いでした。私が鼻に手を当てていることに気がついた彼は、何もおかしなことが無いかのような顔で言います。正直なところ私は、ひどく後悔しました。屋敷の中を支配する異臭が私の粘膜という粘膜に芳しい刺激を与えてきて。酸性の臭い、腐臭に近いのかもしれない。とかく気持ちの悪い臭いでした。私が鼻に手を当てていることに気がついた彼は、何もおかしなことが無いかのような顔で言います」
においの描写が難しいのは、視覚や聴覚とは違って個人差があるため伝えづらい。匂いは想像しやすい香りを選ぶのがポイントで、臭さも同様。また、匂いそのものを伝えるより、雰囲気や空気感を伝えることが大事になってくる。また、複数の香りが混ざり合う様子を表現すると伝わりやすくなる。
本作では、民俗学者のしぐさや表情、家主である相手とのにおいの感じ方の差を視覚情報と絡ませて描くことで、立体的に感じやすくしている。
実にこだわりのある書き方をしていて、上手い。
さらに聴覚では、「失礼ですが、少々。腐肉のような匂いが」と訪ねるも相手は理由をいうでもなく「さいですか」といったあと、「『 』彼はしばらく無言を貫いて、そして笑いました。皺に塗まみれて溺れるような顔で、けたたましく緩やかに歪めて笑いました」と、無言の描写がされている。
なにも言わないので聞こえてこないけれど、視覚描写で相手の表情を加えることで、より無言を強調している。
五感をより描写するには、他の感覚との組み合わせが大事になってくる。それを、ここぞという場面で描写している。
ほかの聴覚の刺激、「辞典よりも分厚いレンガ本を軽快な音を立てて捲っていく」ところは、変にオノマトペを使っていないところが良い。物語の世界観にあった表現が良かった。
味覚も同様。「その問いに私は一拍置いて、茶を啜った。興奮して過剰に糖を消費したのだろうか、いつもより玄米茶が甘く感じる」 基本味を組み合わせて表現し、食感や温度も含めて描写、味わった後の余韻や口中の変化も描く。
佐山先生がお茶を飲むとき、「一拍置いて、茶を啜っている」とある。湯飲みを持って熱かったのだろう。触感の刺激を描写して、一拍置いてから啜る。どんな味だったかは、「興奮して糖分を消費したのだろうかと説明してから、「いつもより甘く感じる」と、味わった余韻を描くことで際立って伝えている。
とにかく、本当に五感描写が上手い。
物語は非常に詩的で、多くの描写と詳細が含まれているが、混乱を招きやすいところがある。
主人公が誰で、登場人物が誰なのか、明確に紹介してもらえると理解の助けとなる。物語中の対話は、キャラクター間の関係性を明らかにし、物語を進行させる重要な役割があるもの。だが、本作では誰が話しているのかが時々わかりにくくなる。
「エノケ」や「あの神」「匣」など、神秘的で重要な役割を果たす要素のものの背景情報や詳細な描写、調査を進める過程で遭遇する困難や恐怖、不安を具体的に描いて強調されたなら、物語世界に没入でき、より怖さを感じるかもしれない。
登場人物の目標を明確にし、性格や価値観、過去にどのような行動を取ったか、直面している問題や葛藤を描写することで、読者は次にどんな行動を取るのか予測しやすくなる。
少しずつ「エノケ」や「あの神」について明らかになっていくことは予想がつくが、登場した記者が、数へ歌から「えなちゃん」にふれる流れは、予期せぬ展開ではあった。
けれど、興奮と驚きを引き立てて怖さを増長させているかといえば、足らない気がする。
「5」で紹介されている文献で、「エノケ」や「あの神」にまつわる事件や事実が紹介された内容は、驚きと恐怖のものであったが、真相らしきものにたどり着いた点からみれば、予測されたものだったかもしれない。
とはいえ、である。
記者と別れ際、佐山先生が「かわいそうに」と言ったのはなぜなのか、モヤモヤする。
はじめ読んで文脈から推測したときは、この深い問題に巻き込まれ、重大さを理解していないことを悲しんでいるのかもしれないと思った。あるいは、関係ない人間が関わり合わなければいいものを、首を突っ込んでしまったことで、これから起きる困難や危険を予見しての言葉なのかもしれないと考えた。
だけど、そうではない。
それがわかったとき、予想外の興奮と驚きに襲われた。
因習に潜む恐怖を描いた作品では、予想内で終わり、スッキリしないままだったが、わかったことで予想外な展開に、本作の出来の良さに恐怖すら感じた。
本作に登場する胞衣桶は、日本の伝統的な習慣に関連した特別な容器。昔、赤ちゃんの胞衣、つまり胎盤や臍帯を納めて土中に埋めるために使用されていた。
構造は、薄い板で作られた桶の形をしており、胞衣桶の外側には、めでたい意味を持つ絵が描かれていた。一般的なモチーフには鶴、亀、松、竹など。別名「押し桶」とも呼ばれていた。
胞衣を容器に納めて埋める習慣自体は非常に古く、胞衣を埋納する習慣の起源は、縄文時代中期の埋甕にまで遡る。
平城京や秋田城跡などの遺跡から、八世紀の奈良時代の胞衣壺が発見されている。この時期に埋納方法が確立されていたとされる。
胞衣桶の使用が一般的になったのは、中世から近世の時期だと考えられる。胞衣桶には松竹や鶴亀などの縁起の良い絵が描かれ、壺や大桶、絹布、布などで幾重にも包まれて処理されていた。
歴史的事例として、仙台藩伊達家の胞衣桶が発見されており、これは青銅製の外容器と共に出土している。この事例では、桶の内部に絹で包まれた内容物が入っていた。
つまり、本作に登場する邑南郡地域に伝わったのもこの頃だったのだろう。
本来の胞衣桶の使用は、日本の伝統的な出産習慣や信仰と深く結びついており、新生児の健康や幸福を願う意味が込められていたと考えられている。
それが「赤不浄」を嫌い「黒不浄」を好む『あの神』、八幡神を祖として、火の神の信仰も受けつがれるタタラ神と結びつき、独自の形で受け継がれていったと思われる。
登場する数へ歌は、江戸時代の「いろはかるた」の一部。いろは歌の各文字を頭文字にして、ことわざや教訓を表現するものである。
具体的には、「一で矢竹 二で任都の桃な 三でさして 四でしばし 五で胡麻の爆ぜ 六で筵の鳶 七で七草や 八で奴婢 九で九つの頭 十で遠遠とう」と続く。
「矢竹」は、真っすぐで強い竹を表し、正直さや強さを象徴。
「任都の桃」は、中国の故事に由来し、特別な場所や状況を象徴。
「さして」は、指し示すこと、または何かを差し出すことを意味する。
「しばし」は、しばらくの間、短時間を表す。
「胡麻の爆ぜ」は、小さな音や些細な出来事を表現している。
「筵の鳶」は、低い地位から高い地位へ上昇することを意味する。
「七草」は、正月七日に食べる七種の若菜を指し、季節の変わり目や健康を象徴し。
「奴婢」は、召使いを意味し、身分の低い者や謙虚さを表す。
「九つの頭」は、多くの考えや意見を表現している。
「遠遠とう」は、遠くまで続くさまを表し、永続性や広がりを象徴。
これらの句は、日常生活の知恵や教訓を簡潔に伝える役割を果たしていた。数字と関連付けることで、覚えやすく、遊びながら学べるように工夫されている。
ただし、本作品に登場したものと同じかは、わからない。あの地域では解釈が異なっているのでは、と考える。
このホラーミステリーの謎を解くために、いくつかのポイントを考慮する必要がある。
神降ろしの儀式が、家族や友人を巻き込んだ事件の中心に十五歳の佐山少年がいた。「あの神」は赤不浄(生理や出産)を嫌い、黒不浄(死)を好むとされている。神降ろしの儀式が、何らかの形で死を伴うものであった可能性がある。
エナオケは胎盤を納める桶で、昔は土中に埋められていたもの。このエナオケが「えなちゃん」と関連しており、「えなちゃんが春に根の中帰った」という歌詞が、胎盤が土に帰ることを示していると考えられる。
事件が四月十二日に発生したことが重要だろう。通常、正月に行われる神降ろしの儀式が、なぜこの時期に行われたのか。春は陰陽五行説で「東」を表し、何かが来るのを防ぐために村が整備されていると感じられ、この時期に特別な意味があるのかもしれない。
タタラ神の祖である八幡神のまつりは、島根県では四月十四日から行われる。その前に神降ろしの準備をしていたのかもしれない。昔は春に、製鉄を行っていたのかもしれない。そのため、神降ろしの儀式が行ったと邪推してみる。
佐山少年が神降ろしを行った理由はなにか。
「神降ろし」の儀式が何を目的としていたのか、どのように実行されたのか。なぜ家族や友人を巻き込んだのか。必要があったのか。それとも他の動機があったのか。例えば、彼が何らかの精神的なプレッシャーやストレスを抱えていた可能性は?
日記から、サイコパスな感じが見受けられる。
サイコパスであったのか。サイコパスは共感能力が欠如しているため、他人を傷つけることに罪悪感を感じないことが多い。
彼にとっては、新年に犬を殺して縛っては「あの神」を迎えるのと同じように、神降ろしの儀式をしただけかもしれない。
佐山少年は容疑者であり、犯人とは書かれていない。
彼が行っていない可能性も考えられる。
そもそも、佐山少年と佐山康二が同一人物なのかどうか、正直断定できない。そう思わせておいて、名字が同じだっただけ、という可能性もありえる。
仮に同一人物だとすると、一九九九年は十五歳なので、二〇二四年現在は四十歳。
『邑南蹈鞴類苑』(昭和九年刊行)に書かれている内容を、現代語に翻訳し、わかりやすく内容を説明してみる。
書かれている文章は、古い日本語で書かれており、出産や死亡に関連する民間信仰や習慣について述べていた。
「これは鍛冶の神とも見られますが、八幡神(武神)を原型として、火の神の信仰も受け継がれているものです。赤い不浄を嫌い、黒い不浄を好むため、胎盤は木の根元に埋めるべきです。あるいは、室内では、串(くし)を台に立て、死体を結び付けても構いません。
[胎盤を包む方法]
胎盤は、春の方角に七~八年埋めておくと、透明な玉が散るような水に変化します。これを竹や松に与えると、千両(高価な植物)や、全体的に高度に成長した植物になります。」
これらの習慣は科学的根拠に基づくものではなく、古い民間信仰や迷信を反映している。現代では、胎盤や遺体の取り扱いは医療や衛生の観点から適切に行われるべきものとなっている。
つぎに【匿】佐山家より回収された文書を、現代語に翻訳し、内容を説明してみる。
「『あの神』を迎えることができれば、夫は嫉妬深い女神に殺され、子は狂ってしまう。犬を殺すなら殺せ、捧げるなら捧げなさい。衣を脱いだら一つの匣、胞衣桶にそのまま置いて、結びの息を作りなさい、そのまま死になさい」
書かれている内容としては、某日刊新聞五五三九二号 (一九九九年 四月一三日)の、「十二日午後一時すぎ、邑南郡【匿】の【匿】方に、【匿】さんが訪れたところ、六畳の居間に、佐山詞子さん (四十八)佐山勇寿さん(四十九)次女・巳ちゃん(十二)の親子が畳に刺さる串のようなものに縛り付けられた状態で発見され、また磐野茅さん(十五)が胎盤を抉り取られて、容疑者である佐山家長男十五歳男の自室に横たわっている状態で発見された」の事件現場の状況に合致すると思われる。
「結びの息」という言葉は、古代の日本における信仰や儀式に関連する概念であり、特に神道や呪術的な文脈で用いられることがある。
結びの息の解釈には三つ、考えられる。
一つは、生命エネルギー。
「息」は日本文化において生命そのものを象徴する。呼吸や気の流れと深く結びついている。息は生きる力の源とされ、結びの息は、その生命力を結びつける行為と解釈できる。
二つめは、呪術的な意味。
結びの息は、特定の神や霊的存在と結びつくための儀式や呪文の一部として機能する。陰陽師が式神を呼ぶように、息を使って神聖なエネルギーを呼び寄せたり、結びつけたりする行為が含まれることがある。
三つめは、儀式的な行為。
結びの息は、特定の儀式や祭りにおいて重要な役割を果たしている。例えば、神を迎える際や、特定の目的のために行われる祈りや儀式において、息を用いて神聖な結びつきを強めることが意図される。
儀式としての意味としての「結びの息」として、因習でおこなれているように木の根元に東向きに埋めることを差しているのかもしれない。違うかもしれない。
そもそも、一九九九年四月に起きた事件で誰か殺されているのだろうか?
「親子が畳に刺さる串のようなものに縛り付けられた状態で発見」とあり、縛られているだけであって家族は死んでいない可能性がある。また、磐野茅さんは、「容疑者である佐山家長男十五歳男の自室に横たわっている状態で発見された」のであり、文章を普通に読めば、彼の部屋に横になっていただけ。死んでいたと書いていない。それに、「容疑者である佐山家長男」であって、犯人ではないし、何の容疑かも書かれていない。
胎盤とは、妊娠したときの赤ちゃんの土台となるもの。赤ちゃんの成長と健康を支える多機能な生命維持装置。
これらから言えるのは、友人の磐野茅は望まぬ妊娠をしたため中絶、堕胎したのだ。
「『あの神』を迎えることができれば、夫は嫉妬深い女神に殺され、子は狂ってしまう。犬を殺すなら殺せ、捧げるなら捧げなさい。衣を脱いだら一つの匣、胞衣桶にそのまま置いて、結びの息を作りなさい、そのまま死になさい」と書かれてある内容は、そのまま素直に読めばいいと思う。
ただし、「あの神」は望まない子を差していると邪推すると、「もし生まれたら不貞を働いたことで夫は殺される思いをし、産んだ娘も(人生とか)狂ってしまう。そうならないためにも、殺すなら殺し、捧げるなら捧げるために、堕胎したら胞衣桶に入れて、そのまま死ぬことを願う」という、この地域独特の子おろし、中絶のやり方だと想像する。
そう考えると女性の民俗学者が邑南郡南部の散居村を訪ねて話を聞きに行ったとき、神職の家系の男は、この女は男遊びをしたこともないのかと思い、これから入り用になるだろうからと「エノケ」を渡したのではないか。
また、記者が佐山先生に「『えなちゃんが春に根に帰る』とは?」と尋ねたとき、「先ほどと変わらない口調で、しかしどこか不気味さを感じる笑顔で話した。『わかりません』」と答えたのも同じ。
この記者は、えなちゃんも知らないほど女遊びをしたことがないのか、と佐山先生は思ったのだろう。だから最後「かわいそうに」とつぶやいたのではないか。
タイトルが、ずっと気になっていた。
読んでいくと「エナちゃん」とは、胞衣桶のことだとわかってくる。胞衣桶は、昔の風習で胎盤を入れて土中に埋めるための桶なのだけれども、ちゃん付けをする必要はなにか。
ただ、可愛い響きのタイトルをつけたかっただけなのか。
そうではなく、産まれた子供は赤ちゃんと呼べるけど、生まれなかった子供は呼べない。だから、「エナちゃん」と呼んでいるのだと、考えに至った。
はじめは、読み終えてもよくわからなかったけれど、一つの考えにたどり着いたとき、ある意味、恐ろしいなと思った。
地方の因習や神話を背景にした独特のホラーで、読者を引き込む力が強く、「エノケ」や「あの神」といった謎めいた要素が物語に深みを与え、最後まで緊張感があり、作者の描写力と物語る力が光る作品だった。なんてものを書くのだろう、この作者は。
※私はこう読んだだけであって、正しいかどうかはわかりません。
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