オレンジ

オレンジ

作者 朱音

https://kakuyomu.jp/works/16818093082791314469


 中平は、下北沢でビラ配りをしていた堀井と出会い、日曜日はに何度も会う曖昧な関係を一年過ごす。結婚して三年した現在、彼のいない下北沢を歩いては彼との思い出を懐かしむ話。


 誤字脱字等は気にしない。

 私小説、現代ドラマ。

 日常の中にある小さな変化や感情の動きを丁寧に描きながら、情景がリアルに伝わってくる魅力的な作品。

 大人な作品。これを高校生が書いたのね。凄いな。


 主人公は、中平、女性。一人称、私で書かれた文体。自分語りの実況中継で綴られている。


 それぞれの人物の想いを知りながら結ばれない状況にもどかしさを感じることで共感するタイプの中心軌道に沿って書かれている。

 主人公の女性(中平)は、日常に飽き飽きしていたある日、下北沢でビラ配りをしている青年(堀井)と出会う。彼の誘いで彼の家に行き、猫と触れ合う時間を過ごす。彼らは日曜日に何度も会うようになり、曖昧な関係が一年続く。しかし、結婚して三年経った現在、彼女は夫との関係に不満を抱きながらも、堀井との思い出を懐かしむ。堀井のいない下北沢を今日も歩いて、毎週楽しみにしていた日曜は今日で終わろうとしていた。よく知る匂いに包まれながら、一度も観ていない演劇のチラシを眺めるのだった。


 次のような構造で書かれている。

・導入 主人公が青年と出会い、劇場のビラを受け取ろうとするが、青年から猫の話を持ちかけられる。

・展開 主人公が青年の家を訪れる。青年の家と、猫との出会い

・発展 主人公と青年が何度も会い、二人の関係が徐々に深まる。

・葛藤と現実 主人公の結婚生活。内面的な葛藤や、結婚生活の現実、青年との関係が終わりを迎えた様子が描かれる。

・結末 主人公が過去を振り返り、現在の生活を見つめ直す。青年との思い出が美化され、寂しさが漂う。


 ジメジメとした湿気を含んだ暑さの謎と、主人公に起こる様々な出来事の謎が、どう関わり、どんな結末に至るか気になる。

 きっかけとなる書き出し。

 遠景で、暑さを描き、近景で服装を示しながら体を起こし、心情で、せっかくの日曜だから出かけようと先週と同じ服装に着替える。

「ジメジメとした湿気を含む暑さ」を感じたときにした行動が、のちに、おなじ暑さを体感することで思い出す作りになっている。

 ジメジメした暑さは不快なので、嫌な気持ちが伝わってくる。

 そんな日は、外に出かけて気分転換しようとする気持ちが伝わり、共感していく。

 

 長い文。十行以上で改行する文章の塊。句点を使わない一文が目立つ。本作はエンタメではなく私小説なので、書き方は適していると考える。長い一文にしても、主人公の性格や気分、落ち着きや重みを感じさせている。青年は二十二歳だが、主人公は当時二十九歳と年上。そのあたりの雰囲気も、文章から感じられるところが良い。

 ところどころ口語的、読みやすい。登場人物の性格を感じられる会話文。会話が多く、登場人物の心情がよく描かれている。

 日常の中にある小さな変化や感情の動きを捉えているところが実にいい。

 五感の描写が豊富で、情景をリアルに想像させてくれている。

 視覚は、下北沢の劇場街、古びたアパート、散らかった部屋、ビラ配りの青年の姿。嗅覚はパジャマが肌に張り付く感覚、エアコンの冷気、柑橘類の芳香剤の匂い。触覚は猫の毛の感触、汗が首や背中を伝う感覚。聴覚は青年の軽い言葉遣い、トースターの弱々しい音。味覚は適当な朝ごはんがでてくるが、どんな味かまではわからない。

 視覚描写が多いのは普通として、本作では嗅覚描写が多い印象がある。意図的に描かれており、歩行剤の匂いは、タイトルにも通じている。


 主人公の弱みは、日常に飽き飽きしていること。

 ジメジメとした湿気を含む暑さが、さらに助長させて、下北沢の駅前へと繰り出させたのだ。

 そこで出会った俳優の卵に、猫を出汁に家へと招かれる。

「一貫して続けるオネーサン呼びが鼻につくが、変わらない日常に飽き飽きしていた私は馬鹿なフリをしてみることにした」

 よほど、飽き飽きしていたのがわかる。

 彼は嘘つきではなく、猫を飼っていた。

 演劇のチラシ配りをしていて、俳優の卵なのに、主人公に声をかけて家につれてこんでも良かったのかしらん。

 彼との日々が、実に楽しげに、淡々と描かれているのがいい。

「お互いに好きな本を交換した。お互いの好きな古着屋に行った。大学生の波に釣られて夜は居酒屋に行った。高校時代の恋愛話、上司のポンコツさ、これからの日本はだなんて壮大な話もした。アホらしい話を沢山した。そんな日曜日が、大好きだった。使いまわされていた無難な服は新調され、彼が本を借りに来た時はうんと部屋を掃除した。私はこの一年間恋をしていたのだと思う。でもそれは決して純情な恋愛では無かった」

 そんな楽しい日々を過ごしておいてから、主人公は別の男性と結婚し三年。しかも結婚生活に不満を抱いている。

 だから、過去の思い出に囚われている。

「決定的な不倫はできない、私の生ぬるい真面目さがどうも気持ちが悪い。最後に彼に、堀井君に会ったのはいつだろう。気づけば彼は日曜の下北沢から姿を消してしまった」

 彼と一緒に過ごした三年の間に結婚したのか、結婚したからつき合いが終わったのか。あるいは、彼が下北沢からいなくなったから結婚したのかもしれない。


「堀井君のいない下北沢を今日も歩いて、私が毎週楽しみにしていた日曜は今日で終わろうとしていた」とある。

 つまり主人公は、「日曜は本社に行かなくてはならないと伝えて」毎日早起きしては、彼のいない下北沢を毎日曜日、ぶらぶら歩いていたのだろう。

 それを、今日で最後にするというのだ。

 

 部屋の芳香剤を、青年が使っていたものに変えて、夫は気づかないことに安心しながら、「私は今日も一度も観ていない演劇のチラシを眺めていた」と締めくくられている。

 つまり、チラシには青年が載っているのかもしれない。

 下北沢にはいなくなっても、有名になって続けていて、共に過ごした青年の匂いの象徴であるオレンジの芳香剤をかぎながら、思い出にふけっているということかしらん。

 それとも、彼が昔演劇をしていたときの古いチラシを眺めている可能性も考えられる。

 わかりにくいけれども、読み応えのある作品である。


 読後、タイトルの「オレンジ」が象徴的で良かった。

 芳香剤の匂いであり、主人公が青年の家で感じた柑橘類の香りであり、彼との思い出や感情が結びついていて、ラストでも香りを感じながら過去を振り返るシーンが描かれ、青年との関係が主人公にとって大切なものであったことが強調されている。実に上手い。

 オレンジが特に良かった。

 柑橘系の匂いは爽やかであり、二十二歳という青年の若さをも感じられる。甘くてほろ苦い感じもある。

 青春、恋の思い出の味だ。

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