魂削って書いたので

柑月渚乃

大声でつまんないって言ってくれ


「あーもう、つまんない! これなら私の方が上手く書ける!」

 と、小鐘先輩が言った。


 これで何回目だろう。

 この人はいつも思ったことをそのまま叫んでしまう人だった。


「突然叫ばないでください」


「もっとさ、こう……本気で魂削って一文字一文字書けや!!」


「聞こえるわけないですから」


 彼女の魂の怒号が部室全体に響き渡る。

 

 Q.先輩とそんなに離れているんですか?

 A.いいえ。机を挟んで真正面に向かい合っています。


 ここにはいない作者に向かって先輩はぶつくさ文句を言っている。まあ、いつものことだ。


「本当に最近の物語は使い回された設定にありきたりなストーリーばっか。全く魂が感じられない! 意志が死んでるよ! 幽霊しかいないの?」


「確かに最近のドラマは記憶喪失の主人公が、とかすごい多いですね。あれ、小説もですか」


「そうなの! なんなのあれ!」


 先輩のその言い方に思わずクスッと笑ってしまった。

 

 多分、先輩は至って真面目にムカついているのだろうが、先輩のこういう叫びは毎回普段怒らない人のそれで、つい笑ってしまう。

 いや、真面目にムカつくってなんだ。


「ほら、この本に向かって言ってやんな! スバルくんも」


「いや、僕は特に」


「作者の魂の声を聞きてえんだよー! バカー! 商業主義がー!」


「……いや、商業主義が悪なわけでもないでしょ」


 こんな幼稚な言動をしていても一応先輩はこの文芸部の部長だ。

 先輩は三年だから今年で成人。これが今年大人になる人とはちょっと信じたくないけど。


「スバルくんは味方してよー」


「そもそも僕はちゃんと小説を書いたことがないので、批判とかできる立場じゃないです」


「でも思わない? 万人ウケする話なんかより一人に深く刺さる話を書けよ! って」


「……まあ、でも先輩もこの前のコンクール賞逃したんですよね? ちゃんと賞とれてからじゃないですか? そういうの言えるの」


「なっ……あ、あれはそんな大きな賞じゃなかったし! ……なかったから」


 蚊の鳴くような消え入りそうな声で彼女は反論する。どうやら思っていたよりも刺さったらしい。

 ちょっと言い過ぎただろうか。まあ、あのまま止まらないよりはマシだろう。


「ていうか、なら何で僕なんか無理矢理文芸部に入れたんですか。もっと世に駄作が増えますよ」


「本当じゃん。ハッとされられたわ」


 はあ。この無理矢理肩を組んできたかと思えば急に梯子を外す意地の悪い返し方、実に小鐘先輩らしい。


「いや、そこは駄作ってとこ否定して下さいよ」


「私、スバルくんの作品アイデア好きだよ。初心者なりのパワーがあって、ロックって感じで! でもさ、全力で書き切ってくれたことないから」


「まず、書き方がわからないんだからしょうがないじゃないですか。あと、文芸にロックってそれ褒め言葉です?」


「実際スバルくんのみたいな作品を書ける人の方がのびしろあるしね。私はそういうの書けないし。一番つまんないのはありふれてたり妥協ばかりの作品だから、挑戦的な駄作つくんのはいいことだよ!」


 本当にそれでいいのか?と少し思う。


 僕みたいな作品を小鐘先輩は書けない。僕はその言葉を適当に受け取っておいた。心の底ではどうせ建前だろ、とでも思っていたのかもしれない。

 

「じゃあ、もっと教えて下さいよ。書き方」


「んー、じゃあ情景描写を学ぶところから始めよっか! なんかとりあえず書いてみて!」


「はい? 流石にいきなりは無理ですよ。何について書いて、とか、先にお手本とかないんですか?」


「あー、なるほどね。確かに。ならインプットからにするか! それじゃあ……『銀河鉄道の夜』を読んでみるっていうのはどう? 読んだことは?」


「ないです。名前を聞いたことがあるくらい」


「そう、良かった! じゃあ、こっから学んでみよう! ちなみに『銀河鉄道の夜』はね、私が一番好きな小説だから。列車はね、概念的なのも含めて色んなものを乗せるものなんだよー。これ、メモね」



 

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 普通校舎の三階。階段を上がって他の教室とは逆方面に位置するその部屋は、長らく文芸部の部室として使われているらしい。


 元は授業にも使われていたようだが、今では多くの本棚と大きな長机が置かれ、その面影を感じるのは黒板くらいだ。

 

 そこは初夏の爽やかさなどとは無縁な場所だった。空気はエアコンに乗っ取られ、本特有の匂いで満たされた空間は、心地良い息苦しさを感じさせる。

 

「クソつまんないなー」


 今日も先輩は退屈そうに決められたセリフ呟く。


「先輩、言葉が汚いですよ」


 僕がそう言うと、それから文字に想いが乗ってないだなんだのと先輩は話し始めた。

 僕はそれをダル絡みしてくる酔っ払いかな、と思いながら適当に聞き流していた。

 

 今日も文芸部は幽霊部員ばかりだ。

 部室には僕ら二人しかいないし、先輩はもう大人のチケットを握りしめた三年生。文芸部もこの代で終わりだろう。


「エモの押しつけだよ、この作品。学生はエモくないといけないわけ? これだから大人は」


「普通にそういうエモい小説のほうが需要あるんじゃないですか。別にそれもいいじゃないですか」


「私には青春なんてなかったからむかつく!」


「ただの嫉妬でしたか」


 外からは運動部の大きな声。青く晴れた空から強い日差しが降り注ぐ、外はまさに、青春って感じだ。

 僕はその光景を空調の効いた部屋の中から眺める。


「にしても最近は、途端にエモに走る作品が多すぎる。……これはある人からの受け売りだけどさスバルくん、安易なエモには走るなよ」


「それ、いつも言ってますね」


「最近の、共感性を追い求めるばかりで芸術性に手を抜いている作品は本当に気に食わない!」


「まあ、合う合わないの話では?」


「いや、そうではあるんだけどさ。でも、それでもさ、型にはめてるだけで想いが乗ってないのは嫌じゃん!」


 先輩のその発言に不意に一理あるなと僕は思ってしまった。


「まあ……それはそうかもです」


「エモはもう戻れないからエモなんだよ。鮮明に描写できてしまったらもうそれはエモじゃないの」


「それもいつも言ってますね」


 これも先輩の口癖か何かなのか、よく先輩の口から聞く言葉。誰かからの受け売りらしいが、結局何が言いたいのかよく分からない。



 

「あっ、そうそう! ねぇ、スバルくん。合作しようよ」


「……はい? 合作? 急に部活らしいこと言いますね」


「そうでしょー。たまにはこういうのもね! 読書して、一人で作品書いて、だけだとつまんないと思うからさ」


「ですね。ただ、先輩とやるにはまだ実力が全然足りてないと思うんですけど」


「ふふん。実はそういうと思って、ちょっと考えてきました!」


「はい?」


「合作といっても今回は少し違って。まず、私の既にある作品の中からオチを省いたものをスバルくんに渡します」


「はい」


「そしたらスバルくんにはその作品のオチを書いてもらいます。元のオチと一緒でもいいからスバルくんの言葉で。ね? 普通の合作よりは簡単でしょ?」


「いや……鬼ですか? 初心者にオチ全部任せるって正気ですか?」


「オチは大切! どんな最低な映画でもオチが最高に面白ければ文句なく星五つ付ける人も多いからね」


「いやいや何でハードル上げるんですか。やりませんよ」


「ハードル上げてるんじゃなくて、大事だからこそ鍛えてあげようと思ってね!」


「そんなに言うなら、手本見せて下さいよ」


「んっ……まあ、小説は全体の雰囲気が一番大事だよね」


「逃げたな」


 僕は敬語を外し、そんな少し調子に乗った言葉を口にした。


 だが結局、僕は先輩には逆らえなかった。


 その後僕は、強引な言葉の連打にひるんだ隙を突かれ、先輩の提案を渋々受け入れることになった。

 

 もちろん、初心者の僕が簡単に面白いオチをつけられるわけもなく、一部はほんの少しだけ褒められたものの、出来上がった小説のほとんどは僕のオチのせいで台無しになった。そりゃそうだ。

 

 そんな僕に対し小鐘先輩は、安易な着地せずにオチで全てをめちゃくちゃにするっていうのもそれはそれで良いと思うよ、と謎のフォローをしてくれていたが、安易な着地の仕方も分からない相手に言うのはフォローになってないよな、と僕はちょっと思っていた。




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 先輩は夏を過ぎても週に二回ほど、顔を出しに来ていた。


 僕も部活に段々慣れてきて、先輩から勧められたのもあり、最近は暇な時に本を読む習慣もついてきている。

 

 静かでゆったりと他の部にはない時間の流れ方をする部室。

 そんな部屋の真ん中に置かれたテーブルの一席に座り、僕は本を盾のように扱っていた。


 本を読む習慣がついたとはいっても今、持っている本の内容は全く頭に入ってない。前にいた、キーボードを叩いている先輩の顔を、僕は視界の端でじっと見ていた。

 この前耳にした話だが、先輩は推薦で都会の大学に進学するつもりらしい。


「あっ、そうだ。スバルくん、言われた通りスマホで読んだよ。この前の課題のデータ。送ってくれたやつ」


 体が一瞬ビクッと震える。

 僕は、へぇーそうなんですか、と一度興味なさそうな感じで受け答えしてみた。


 ――嘘だ。興味ないはずがない。

 

 課題のデータとは僕が初めて全力で書いた小説のことだ。

 小説ともいえない文字数だが、それでも勇気を振り絞って書いてみたもののことだ。

 

 本気で書いたからこそ、他人からの評価を聞くのは恐ろしい。

 あの先輩のことだ、全部本音で来るだろう……と、決まったはずの覚悟はやっぱり揺らいでしまっていた。


 そんなことを考えている間に先輩がゆっくり息を吸い始める。


「まずね、描写する力がやっぱり弱いね。少しずつ描写力も付けていってほしい。えー、で、多分一番足りないのはわかりやすさかな。正直一回じゃ分からなくて、もう一度読んでようやく分かったと思ったくらい。スバルくんの不器用なとこがめちゃくちゃ出てるね。表現が遠回し。私はそれでもいいと思うけど、最近は消費する感覚で読む人が増えているからね。それとね、やりたいことをやろうとしているのは分かるけど、結構人を選びそう。ここは正直悪いことでもないけどって感じかな。あと、そう。構造を工夫してるのは伝わる。ただ他の工夫の仕方もレパートリーとして覚えておいた方がいい。銀河鉄道の夜とか読んだでしょ? それをオマージュするって方法もあってね。例えばさ……」


 先輩は一度も止まることなく、出だしからそのままの勢いで講評を語る。

 息をする間さえない。まったく恐ろしい。それは僕からしたら悪夢でしかなかった。


 正直言えばこの作品に自信がなかったわけでもない。なんなら、面白いって結構そう思い込んでいた。

 でも、評価される場にいざ立つと急に作品の粗が目立ち始める。自分の書いた作品はそんな面白くないってそこでやっと気づき始める。今はそれがとんでもなく恥ずかしかった。

 自分はなんてものを読ませてしまったんだ、ってそう逃げ出したくなりながら僕はそれを聞いていた。

 

 そして。講評される内に段々自分がとても情けなく感じた。





 

 入学してすぐの頃、僕は部活に入る気もなくただ廊下をふらついていた。

 そんな生気のない僕を、先輩が半ば強引に文芸部へ連れてきたこと、今でもはっきり覚えている。

 

 そんな先輩に対し当時の僕は、変に自信がある人なんだな、なんて失礼なことを思っていた。正直今でもその印象は変わっていない。


 でも同時に、きっと寂しいんだな、とも思った。

 先輩は小説には全く興味がないと冷たくあしらうように言った僕に、あたふたしながら小説の良さを全力で語っていた。こんなガチなら逆に入りにくいと思わせるほどに。



 

 文芸部は、その頃から幽霊部員ばかりだった。

 先輩は僕、たった一人に向かって一生懸命語っていた。


 別に狭くもない教室。物がそこまで多くないせいか広すぎるようにも感じる。

 そこに彼女の声だけが響いていた。


 文芸なんて一切興味のなかった僕だけど、先輩のそんな姿を見て僕はすぐに理解した。

 文芸部は他の部活と少し違う性質がある、と。


 それは他人を必要としないことだ。

 

 競う相手もいなければ、チームメイトなんていうのもいない。一人孤独に自分の見えた世界を文字の世界に体現するだけ。

 きっと、それの良いところも勿論あるだろうが、そんなのあまりにも……。

 

 棚の上に置かれた賞みたいな何かが、きらりと光を反射した。

 そこには目の前にいる人と同じ名前が書いてある。


 僕は先輩の語る言葉に耳を傾けながらも、部室を隅から隅まで眺めていた。

 万年筆。ジャンルごとに並べられた本棚。どんでん返しという、微妙にそれ言っていいのかと思わせる区分もあった。

 本棚には本以外にもファイルにまとめられた何らかの紙の資料、原稿用紙。

 

 全て綺麗に整頓されていた。

 掃除は随分と行き届いているようで床にはゴミの一つも落ちていない。


 だが特に急に片付けられた形跡もない。

 ――それはずっと誰かを待っていたようで。


 その間もずっと先輩は話し続けていた。知らないうちに専門用語が出てくるレベルの話にまで進んでいたらしい。まったく、今考えても初心者にする話じゃない。

 

 それを見て僕は、この人の好きを同じくらいまで理解することはきっとできないだろう、とそう思った。


 ただ。それでも話を聞く相手くらいにはなれるか、とも思った。

 どうせ、無駄に時間だけはあるのだ。


 観念したように、小説の知識は全くないですけどそれでもいいんですか、と僕が言うと、先輩はとんでもなく目を輝かせて頷いていた。

 あれ以上輝いた目を僕は見たことがない。




 


 だからこそ、本当に情けない。期待に応えられるような後輩じゃなくて、本当に。ずっと全力で書かなかったのもそのせいかもしれない。

 無意識のうちに、失望されるのを避けていたのかもしれない。


 ――言葉という海の波が荒れ始めたのを感じる。

 その上を走る僕の列車が、沈んでしまいそうなほどに。



 

「でも……うん。すごくいいね! センスあるし、文章に魂がこもってる!」


 言葉の荒波の中、一つ、その言葉が急にきらりと輝いて聞こえてきた。


 ──えっ……?


「磨いてないから不恰好だけどさ」

 

 突然、雲の裂け目から光がトランペットの音のように強く差し込んで、波は穏やかになった。

 敵意を剥き出しにしていたように感じた海はどこに行ったのか、いつのまにか海は本来の青さを取り戻している。


 車両が小さく、揺れる。


 ――その瞬間、僕には分かった気がした。

 車窓の先で文字という魚たちが嬉しそうに泳いでいる。そうか、これか。


 ちょっと褒められただけ。先輩に言えば何でこんだけで、なんてきっと笑われてしまうだろう。

 でも、そのちょっとが大きかった。そのほんのちょっとがその時確かに僕の世界を変えたんだ。


 それは、確かに、僕が創作にハマった瞬間だった。


 


「なら良かったです」


 それ以上、声は出なかった。シャイな幼稚園児のように僕は先輩にわざと冷たい態度をとる。

 喉から出たいと言っている言葉は沢山あったけれど、ぐっとそれは腹の中に押し戻した。それを簡単に出してしまうのは勿体無い。ただそう思った。


 そして、僕はその言葉たちを心のどこかに閉まっておいて、自分の気持ちを隠すように適当な違う話題ヘと……逃げた。


「先輩の夢って……やっぱり作家ですか?」


 僕は雑にそう話を振る。


 すると先輩は少し眉根にしわを寄せながらゆっくり上を向いた。

 そして次の瞬間。一瞬、素に戻ったような顔をした。


 ――え?



 

「……んー、どうだろうね」


 浮かれた僕の耳に届いたのはそんな声だった。

 会話に対し義務的に返事をするような、冷たくてどこか大人な雰囲気。

 

 体が、固まった。


 驚いた。肯定の言葉が返ってくるか、適当にはぐらかされるだろうと勝手にそう思っていた。

 もっと創作に対して熱量のある人だと思い、込んでいた。


 かなり動揺した。自分が逃げるために振った適当な話題のはずだったのに、その予想外の先輩の態度に焦って僕はすぐさま聞き返す。


「大学では文芸やらないんですか?」


「……まあ、普通に会社員やるつもりだしね」


「そう……ですか……」


 ――なんか、先輩らしくない。


 言いたいことやりたいことを素直に言葉にする小鐘先輩らしくない、じゃないですか。

 先輩は本当は何かもっとやりたいことがあるんじゃないですか、そんな普通にとか言う人じゃないでしょ先輩は、本当は、本当は……!



 

 ――いや。僕が口出しするようなことじゃない。他人の人生に口出す権利は誰にもない。


 ……でも、でも、そう思ってしまう何かが彼女の表情にあった気がしたんだ。上手く言葉にはできないけど、どこか諦めのようで心残りがあるような何かがその時その瞬間きっと――あった。


「なんか言いたそうだね?」


「いや……別に」


「なんか別にってわけでもなさそうじゃん! 言ってよー」


 先輩はからかうように僕の目をじーっと見つめてくる。少し照れ臭くなって僕は目線を避けた。

 

 本当に、言っていいのだろうか。


 そんな想いがグルグル頭の中を忙しなく回り続ける。後悔しない方を選べ、と心の奥の僕が言う。

 でも、取り返しのつかないことになるかもしれない。そのくらいなら言わない方が、いいかもしれない。でも。


 しばらく待って、考えて、考えて、考えて、考えて、考えた結果。

 僕は、そのスイッチを――強く押した。


 


「なら、言いますけど……それが大人になるってことですか?」


 瞬間、部屋がしんとなった。

 僕は結局、その日そう言ってしまったことをずっと後悔することになった。


 自分の中ではかなり遠回しに言ったつもりだったんだ。

 でも。先輩は言われた瞬間、その意味の全てを理解したようで。

 

 先輩は僕のそれを聞くと一瞬目を見開いて僕の顔を真っ直ぐ見たのち、目線を下げて、何か言おうとこっちを見て、やめて、顔を伏せて、口を閉ざした。


 下校のチャイムが鳴るまでずっとだ。

 静まり返った教室には気まずい空気が流れた。



 

 そして帰りの放送が流れた後、一刻も早くその場から離れようと荷物を背負う僕に、先輩は一緒に帰らないかなんて誘ってきた。

 だが、あの静寂をなんとか耐えていた僕は流石にその日、先輩と帰る勇気なんてなかった。


 やってしまった、言葉選びを間違えた、言うべきじゃなかったなんて帰り道ぐずぐすと後悔して帰るくらいなら先輩と話して帰った方がずっとマシだったのに。

 

 先輩に褒められたことも僕はすっかり忘れて、その帰り道、僕の足は鉛のように重かった。



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 あの日は確か文化祭が終わってすぐ、終わった次の週あたりだった。

 部室の鍵を手に持って、チャキチャキ鳴らしながら部室に向かっていると、何故か部室の扉が既に少し空いていて。それに違和感を覚えながら部室に入った、というのを覚えている。


「あれ……?」


 入ると席に一人先客が座っていた。だが、それは小鐘先輩ではない。

 と言うのも、その頃、先輩は水曜は来れなくなると宣言していたのだ。今日は水曜、だから違う。

 

 そこに鎮座していたのは部活の顧問だった。


 何故か当たり前のようにそこに座っていたが、うちの顧問は普段ほとんど部室に姿を現さない。


 聞くところによると生徒会とか他にも色々仕事を掛け持ちしているらしい。

 まあ、それのせいで文芸部が困っている、なんてことはないから、僕らは気にしていないが。


 ──今日は何か用事でもあるのだろうか。


「お、スバルくん。お邪魔してるよ」


 ──なんでこの人もスバルくん呼びなんだ?


 体の重み全てを机に預けたような姿勢で、彼女は入ってきた僕に言葉をかける。


 先生は今日も平常運転だった。何と言うか、こういう雑なところ。僕の周りの女性はこういう人ばっかだ。

 雑な生徒イジリに、ガサツな性格。本当は色々大変だろうに、それを感じさせないこういう立ち振る舞いが、この先生は妙に上手い。


「やっぱ上手いなー。この描写力。こう描写力が高いと何でもエモく感じられるもんなー」


 彼女がそう言いながら左右にゴロゴロと体を揺らす。

 先生は小鐘先輩の小説を読んでいた。着た服の清潔さには似合わないだらしない体勢で、彼女はそれを読んでいた。


 はあ、と少しため息を漏らしそうになったのを抑えて僕も席に着く。


「……顧問なので勝手に居てもらっていいですけど、今日は何しに来たんですか?」


 座ってから少し待ってみたが、目の前に僕が座っても相手は用件を話す素振りを見せない。そんな相手に痺れを切らして、僕はそう尋ねた。


「本当は小鐘に用があったんだけど、なかなか来なくてさ」


 紙をめくりながら、作品を読みながら、で返事は返ってきた。

 

「それなら今日は多分来ませんよ。水曜は来なくなるって──」


 


「やっぱりそうか。……まあいいや、スバルくん部活は楽しいか? 最近一人が多いだろう」


 急に先生と目が合った。

 ……何か勘繰るような言い方。この先生のこういうところが僕は好きじゃない。


「まあ、静かなのも好きなので。先輩もずっとこんなんだったんだろうなと思って過ごしています」


 実際そうだ。きっとこの野球部の大きな声を聞きながら先輩も……なんて思いながら、僕は一人の部活の時間を過ごすことが多かった。


「そうだな……御船がいた頃はもっと賑やかだったんだけどな」


 そう言いながら先生の上半身がゆっくりと起き上がる。


「ん? ミフネ?」


「あれ、小鐘から聞いてないか?」


「誰ですか、それ」


「……昔から文芸部はたまにしか来ない部員ばっかの部活だったけどな、それでも毎日部室に顔出す二人組がいてさ。それが小鐘と、小鐘と同時期に入った御船だ。何というか、二人は熱意もそうだし、レベルが違ってたな。小鐘は上手い、御船は面白いって感じで。御船はとにかく、刺さる話を書くやつだった」


 御船、なんていう先輩は聞いたことがなかった。あまり記憶力に自信はないが、それだけははっきりと言えた。

 というか、今の今まで深く考えたこともなかった。小鐘先輩以外の部員のこと。


「本当に聞いたことないか?」


「はい、全く」


「そうか。一年前とか、その二人で一年生を沢山入れようと頑張ってたんだよ。実際入ったし」


 一年前。なんか不思議な感覚だ。

 よく知っていると思っていた文芸部。だが、当たり前のように僕の知らない時代がある。


「へぇー」


「特に御船は人を惹きつける才みたいのがあってな。率先して文芸部を存続させようと息巻いてた。……でもアイツ、ある日を機にパタリと学校に来なくなってな。小鐘に訊いても『何も聞いてない』って。それから御船が自分の小説を書く時間を犠牲にして教えていた一年生も、アイツが来なくなってから続々と顔出す回数が少なくなってさ」


「……そんなことが」


 いや、よく考えれば、そうだ。


 さっき、当時一年生、つまり今の二年生が沢山文芸部に入ったなんて言っていたが、僕が知っているのは三年の小鐘先輩だけ。

 その時入った部員たちとは現在幽霊部員となっている人たちのことだ。


 幽霊部員ばかりの部。僕が文芸部に入った当初から聞いていたその言葉と先生の言ったエピソードが今、一本の線で繋がった。


 にしても、小鐘先輩はその時どんな思いだったのだろうか。突然、同士が消えていくなんて……辛すぎないか。


「私はお前もすぐ来なくなるかと思ったよ。私からすれば今の小鐘は御船の真似をしているような気がする。その割に不器用なところは変わってないが」


 先生はただ真っ直ぐ僕の目を見てそう言う。


「つまり御船先輩の時のように、小鐘先輩が来なくなったら僕も来なくなると?」


「いや、すまん私の勝手な想像だ」


 先生が、目を逸らした。


 ……数ラリー前に言っていた先生の言葉が今になって僕の心を突き刺した。


『自分の小説を書く時間を犠牲にして──』


 確かに、そうだ。僕もその時の一年生も、先輩の貴重な時間を奪っている。

 存在しているだけで奪っている。天才たちの時間を、無意識のうちに。


 だから……それを無駄にするなんて、僕は、したくない。


「──まあ、恐らくそんなことにはならないですよ」


「……そうか。なら良かった」


 先生がフンと鼻で笑った。よくわからないが、なんか機嫌を良くすることでもあったらしい。


「……まあ、これも勝手な想像になるんだが、小鐘はアイツをどうにか引き戻そうと必死だったよ。去年賞をとった作品なんてまさにそんな感じだった。御船と合作する予定だった話を少し軌道を変え、完璧な形で一から一人で書いてきてさ。今、文芸部の存続してるのもその功績おかげだ」


「…………」


 随分と、皮肉めいている。

 御船先輩の目標は結局小鐘先輩一人の力で達成できてしまった。ただ、形として部活は続いても、あの時存続させたかった部活はもうない。小鐘先輩がしたかったのもそういうことじゃないだろう。


 去年、賞を取った小鐘先輩の作品。確かに内容はあまり先輩らしくない話だった。描写力こそ他の作品と変わらない巧さだったが。


 確か、あれはタイタニックを題材とした話。タイムトラベラーの主人公が過去に戻ってタイタニック号を救うって、そういう話。

 御船。帰ってこない船……タイタニック。なるほど、そういうことか。


 


「小鐘は良い先輩だな」


 御船先輩は結局戻ってこなかった、ということだろうか。

 

 ──でも。


 小鐘先輩はそれでも書き続けてくれた。部活を、僕が入るまで続けてくれた。別にそれだけでいいだろう。先輩はバトンを僕に届けてくれた。

 僕は本当に、先輩に感謝している。


「本当に天才ですよ、あの人は」


「天才、か。それには心の底から同意するよ。──多分一生書き続けるんだろうな、ああいう人間は」


 突然、すんと外の部活の声が止んだ。言葉が胸に重く、響いた。


 そう、そうだよな。僕もそう思った。

 いや、だって、誰だって思うだろう。ああいう天才は死ぬまでずっと、書き続けているんだろうって、そう。


「……いや。先輩はもう辞めるらしいです」


 ただ言葉を否定しただけなのに。それだけなのに、自傷行為をするくらい胸が痛かった。


「そう、なのか。……言ってたよ。その後、御船は。何で辞めるんだって私が聞くと『つまんなくなった。それに別に続ける理由もないから』ってさ。もしかしたら小鐘も一緒なのかもな」


 言葉を噛み締めるように先生はゆっくり言葉を吐き出す。

 続ける理由もないから、か。


「……でも、そうか、残念だな」


「はい」


、なんて言えないしな」


 下に落としていた目線が勝手に先生の方へ向いた。先生はそれを、窓の外を見つめて言っていた。

 遠くグラウンドを走っている生徒を見ながら、夕方の空の深さを測りながら、言っていた。


 ──また、勘繰られている。

 まったく、この先生のこういうところが好きじゃない。


「でも、孤独なのかな」


「……どういう意味ですか?」


「スポーツとか芸術の世界はそれだけ厳しいって話。誰もが行ける道じゃないから、周りの流れに逆らわないといけないだろ?」


「…………」


 

 ――線路は、複数に分岐している。複雑に分かれている。ほんと、人生みたいだ。

 そして乗客のほとんどが誰かと同じ路線に乗り、誰かと同じ駅を目指す。


 たまに目指す駅が周りと違うのもいる。でも、そんなやつにも同じレール上を行く仲間がいる。同じ駅行きじゃなくても同じレールを行く仲間が。

 ただそれにも例外はいる。同じレール上を行く仲間すらいない場合も存在する。レールを自分で敷かないといけないことも、ある。


 それはほぼ全員が避ける道。そして同時に、ほぼ全員が行きたくても行けない道。


「でも思っちまうな。……才能あるならずっとやっておけよ、って」


 静かな校舎に遠くから、野球部の大きな声が窓を貫通して聞こえてくる。


「……です」


 その場にはその鼻で笑う音だけが一つ残留した。



(また列車の後には線路だけが残る)


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 十月のとある日の放課後、委員会の仕事を終えた僕はスマホを教室に忘れたことに気がついた。

 もちろんバッグのどこを探しても見つからない。――仕方ない。そう思い、気怠い気持ちを振り切って階段を上る。


 校舎はいつもとは違う一面を見せていた。生徒の通りが少ない。

 日常の風景のすべてが非日常に見えた。廊下を吹き抜ける風すらドラマチック。階段を上る足音の輪郭が今日はハッキリとしている、というのは流石に小説の一文として弱いか。

 

 そんな無駄なことを考えながら一組二組を通り過ぎ、自分のクラスの扉の前まで来たところで――急に足が止まった。

 

 あと扉を開けて忘れ物を回収すればそれで終わりだというのに。


 目に映ったその光景にすべての動きが止まってしまった。

 

 教室には真っ当に高校生してる二人の男女がいた。

 相手の髪に触れる手。片方がもう片方を腕でぎゅっと包み込んでいた。爽やかな風が窓から彼らを祝福するように吹いている。

 

 僕は思わず扉の前で彼らに背を向ける。


 これが、高校生ってやつか。

 と、僕は随分平凡な反応をしてしまった。


 スマホを取るのは諦めた。

 邪魔するわけにもいかないから仕方ない、そう言い聞かせて。


 それはあまりにも、あまりにも眩しかった。真っ直ぐ差してくる眩い光に瞳孔が縮んだ。

 

 僕は見てないふりをして、教室を後にする。上手く言葉にできそうもない感情が胸にモヤモヤと残り続けながら。

 でも、もし。もし、それをあえて言葉に起こすなら、そう。


 青春を独占された気がした。


 さっき来た道を戻って、今度は部室へと歩く。

 

 二人はクラスの中でも中心的な人物だった。特に彼は気のいい奴でカッコいいし野球がすごい上手いからモテると前から聞いていた。

 実際、話していると、この性格にこの顔でモテないはずないよなとも思う。

 

 彼は主人公、らしかった。カッコよくて人間味があって、誰もが望む主人公像。

 あの時、確かにあの教室は映画のワンシーンのようだった。


 エモかった。


 やはり、青春といえば普通恋愛なのだろうか。記憶喪失のドラマと同じで、あれが皆が求める形。

 みんなが期待している青春っていうのはいつだってああいうのだ。エモくて儚くて、それでいて甘酸っぱい恋愛。


 僕も多分、それを期待されている。


 でも。僕には僕なりの青春の形があるんだ。

 きっと全員が同じ線路を行く必要はない。

 

 ――いや、そうだ。そうさ。僕は、僕なりに全力でやれればそれでいいじゃないか。どんな道を歩もうとも。


 部室の扉を開く。その日は誰もいなかった。




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 放課後を知らせる音が鳴った。

 一秒でも早く委員会の仕事を終わらせようと僕は階段を駆け下りる。


 結局、少し長くなってしまったが仕事が終わると急いで僕は部室に向かって走った。

 今日はあの人がいる。そう、知っている。



 

 ほんのり冷たい金属のノブを強く捻り、扉を開くと、やはり明かりが先についていた。

 でも、僕が入っても部屋は時が止まったように静かなまま。この空気感が本当に心地良い。

 

 荷物を、長い机の上で整理し本だけ出して、読書の邪魔をしないよう静かにバッグを下ろす。

 そして僕は机に置いた小説を栞を挟んだところから一つ戻して読み始めた。


 前からそうだ。この互いに存在を認め合いながらも自分の世界に入る、そんな時間が僕は何よりも好きだった。体が溶けそうになる。


 先輩はここ数日、連続して部室に来ていた。


 ページをめくる。




 いつしか淡い光が空からカーテンの繊維の隙間を縫って、に浸っている彼女の元へ届いた。


 黒く艶のある髪に、長い睫毛まつげ。優しく差し込む光によって先輩は随分儚げに演出されていた。

 永遠にあるようで、いつか寿命を迎える星のように。流石に言い過ぎだろうか。


 何故だか過ぎ去った季節を思い返す。何度も同じ角度で見てきた先輩の姿が、目の前にある姿と重なる。

 本棚に詰められた先輩の小説が目に映る。


 ──先輩はすごい人だな。


 そんなことを今更ながらに思った。読んでいる小説のせいだろうか。感傷的になってしまうのは。

 また文字を見失った。少し戻って追い直さないと。



 

 一定周期で鳴る本をめくる音が、メトロノームのように二人の空間を組み立てる。


 僕がまた集中し始めてからどのくらい経っただろうか。



 

「……そういえば先輩、賞とったんですよね」


 溶けている先輩に対し、僕はついにその話を切り出してみる。

 

「そうそう。ちなみにね、大賞だよ! 賞は二年連続!」


 もちろん、言われなくても知っている。


 裏側でピースするように小鐘先輩は二と指を立ててみせた。得意そうにニヤリと笑っていた。

 でも、不思議と嫌な感じはしなかった。

 

 とんでもない先輩だ、小鐘先輩は。そう簡単なものじゃないだろうに。


 ――いつもつまんないとか言ってたくせに。結局文芸が好きなんじゃないか。


 ちょっと口角が上がったのを自覚した。先輩の笑顔を見て少し調子に乗ってしまったのだろうか。

 なんか心を通わせられた気がして、その時僕はちょっと嬉しかったんだ。


 だがその瞬間、先輩のあの顔が脳裏をよぎる。


『……んー、どうだろうね』


 ――それでも、大学では文芸をやめてしまうのだろうか。

 やめないで下さいね、なんて言葉が喉の下から湧いてくる。やめろ。その言葉はダメだ。



 

「ねぇ、スバルくん。私、東京の大学に行くの」


 しばらく僕には風とカーテンレールの音だけが聞こえていた。

 そんな時、何故か急に彼女はそんなことを言い出した。

 さっきの僕みたいについに口にしてしまった、みたいな感じで。


 僕は前から知っていた話だが。


「そうなんですね」


 視線を本に合わせたまま僕はそっけなく返事をする。


「……もっと寂しがるとかないわけ?」


「まあ、卒業式に泣くタイプでもないんで」


 僕が普段通りそう言うと、彼女はただ、そっか、そっか……と呟いていた。僕の視線はその間もずっと手の内の本にあった。

 

 どういうことだ?先輩は僕に何を期待していたんだ?


 そう自分がちょっと焦っていることを自覚しながらも、僕は誤魔化すようにページをめくり続ける。



 

「それでさ、今日で文芸部に来るのも最後になるんだ」


「えっ」


 思わずそれは声として出た。

 本にあったはずの視線が僕の言うことも聞かずに先輩の顔へいった。

 

 胸が、ドキッとする。

 先輩は、先輩は。――ずっと本なんて読んでなかった。


 僕の方をただ真っ直ぐ向いていた。




 もう最終下校時刻が近づいていた。時計の時を刻む音が強く胸に刺さる。

 

 なんで、なんでもっと早く言わなかったんだ、ほとんどそう言いそうになっていた。

 だが寸前のところで頭の中からその言葉を消す。それは……違う。


 思えば時間は随分前から限られていたんだ。合作の提案なんて突然してきたのも、最後に書いておきたかったからとかだろう。

 ずっと前からこうなることは決まっていたんだ。そうだ、先輩の中ではきっと部活に来る最後の日の日付も──。


 靴の紐が解けていくように緩やかに、僕は胸が苦しくなった。



 

 そうして僕が何も言わない間も時計の針は進んでいく。

 静まり返った部屋にスピーカーからドヴォルザークの新世界より第二楽章が響いた。


 下校の、時間だ。


「スバルくん、一緒に帰ってくれる?」


「まあ、今日くらいは」


 やけに湿っぽくなってしまいそうな僕を先輩は察してくれたのか、それとも元からこんな人だったか、先輩はいつも通りの動きで鞄を肩に乗せ、そう誘ってきた。

 

 椅子を引いて戻して僕も一緒に文芸部の部室を去る。明かりを、消した。

 部室は幽霊が住んでいそうな部屋になった。



 

 先輩は家がすごく近いから本当は駅と真反対のはずだ。でも、それを黙って今日は駅まで付いてきていた。

 

 別に今日じゃなくても出来そうな話を僕はずっとする。

 少しでも時間を引き延ばすように。

 

 でも、それもここまでだ。


 踏切を越えようとした辺りで先輩は足を止めた。


「じゃあ私、こっちだから」


「そっか……」


 僕が言葉を発そうとしたのと同時に世界を分断する音が鳴り始める。急いで僕は反対方面へ渡った。

 

 踏切が、下りる。──そろそろだ。

 列車がやってくる。先輩をここに置いたまま僕を連れ去りに。

 

 向こう側で必死に手を振る先輩の姿が見えた。

 でもなんだかその日は、それが大人に見えた。僕は小さく手を振り返す。



 

「ねぇ、スバルくん! 私がいなくなっても作品は部室に残してあるから」


 先輩は青春小説のワンシーンを再現しているかのように大きな声でそう言った。


「なんですか……それ。安易なエモに走らないで下さいよ」


 それに対し、呟く僕の声は踏切の音に掻き消されて届かない。

 

「ねぇ、スバルくんならどうする? この列車を、――どう描く?」


「それは……」


 最後見た彼女の顔は複雑そうに笑っていた。そんな表情しないでほしかった。

 僕の隣の席にカンパネルラはもういない。


 まだ話したいことは沢山あった。もう少し文芸部にいて欲しかったって、そう素直に言えば良かった。

 ――大学でも文芸続けてほしいってもし一度でも言っておけば……。きっとそんな後悔は意味がない。



 

 夕日が僕らをどこかさみしい面持ちで迎えていた。蠍火さそりびのような冷たい――。


 ……いや。違うだろ。この気持ちと景色は美化すべきじゃない。

 美化するくらいならいっそ、僕は、僕は……!



 

 僕らの青春を安易にエモくしてやるものか。




==ガタンゴトン=🚂=ガタンゴトン===




 

 

 先輩がいなくなってから季節は過ぎて、僕は二年生になった。

 文芸部は一年生が結構入ってくれたおかげで、まだなんとか続いている。まあ僕の頑張りもちょっとはある。


 僕は無駄に真面目なせいで部長になってしまった。

 前の部長のような大賞をとれる先輩じゃない僕が、部長なんてやっていいのかというのは日々思っている。


 表現技法を後輩に教えたり、作品にアドバイスするなんて事、僕には向いていない。

 教える時は結局、先輩の真似事になっている気がする。




 ただ、そんな僕も去年の冬からずっと書いていた作品をこの春、やっと書き終えることができた。

 タイトルは『大声でつまんないって言ってくれ』。

 

 最初に読ませる人は書き始めた当初から決まっている。

 僕が唯一尊敬している小説家のあの人に、と。


 きっと、あの人のことだ。分かりやすさが足りないとか、一息でつらつらとこの文章の欠けているところを的確に指摘してくるかもしれない。

 それとも脚色しすぎとか内容の文句を言われるだろうか。――ちゃんと最後まで読んでくれるだろうか。


 まあ何にせよ、最初に見せるのはあの人。それ以外は選択肢にない。




 僕は、生きる意味を見つけた。


 したいことも何もなくて廊下をふらついていたあの頃と比べ、僕は大きく変わっていた。

 読んでくれる人のために魂削って小説を書く、これって最高のの形じゃないか。


 今は本当の意味で生きている心地がする。誰のせいでこうなったかは言うまでもないだろう。




 ねぇ、先輩。


 どんな駄作にもその価値を分かってくれる人が必ずいるって僕はそう信じています。

 安っぽい言葉に聞こえるかもしれませんが、僕はただあなたに、これが刺さってくれればそれでいいんです。

 

 ……でも。ずっと駄作を書く気もありません。

 この作品が名作だとは言えませんが、いつか名作を書くために僕はまだまだ成長していきます。




 だから、だから、この作品の価値がどんなものであっても――。


 大声でつまんないって言ってくれ。



 

 

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魂削って書いたので 柑月渚乃 @_nano_

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