第1話 吉田 義弘の場合
ここ最近、頻繁にこの市役所に訪ねてくる人がいる。名前は吉田義弘、この近くの老人ホームに入居している男性の老人だ。吉田さんは思ったらすぐに行動に移してしまう性格らしく、昼夜問わずホームを抜け出して役所に訪れ、その度に職員が連れ戻しに来ている。
そして、ここに来ては「死んだ妻に合わせてくれ」と言う。
しかし、職員から聞いた話によると、吉田さんは認知症を患っているらしく、今の状態で申請し、天国の階段で亡き妻と会ったとしてもすぐに忘れてしまう可能性があるので、今は申請させないようにしているそうだ。
そんな日が続く中、突如、吉田さん一人ではなく老人ホームの職員もついてきた。
最近の行動から見て、なぜここに来たのかは大体察しが付く。ついに、天国の階段での面会を申請するのだろう。それが吉田さんのためを思ってか、職員たちのためなのかは知ろうとは思わない。
「こんにちは、今日はどうなさったんですか?」私は職員に話しかけた。
「いつもお世話になっております。以前から考えていた天国の階段の件なんですけども…」
歯切れの悪い物言いだった。やはり、何か葛藤するところもあるのだろう。忘れてしまうかもしれないのに職員の都合で階段を使わせるのだ。加えて、亡き妻に会ったとしても認知症が軽減しなかったら無駄骨だ。どの道苦しいなら、申請して、吉田さんが絶対的に諦める状況を作るしかないと踏んだようだ。それが分っていても私は意地の悪い質問をした。
「以前は吉田さんが忘れてしまっては可哀想だからと仰っていましたが、よろしいのしょうか?」
「私もそう思いましたが、仕方がないことなんです。」
職員の言葉が私の肩を重くした。だが、これも仕事だと割り切っていくしかない。
「かしこまりました。では、こちらの監督者としての契約書に印鑑をお願いいたします。」
書類の手続きが終わり、天国から呼び出すために必要な死者番号と氏名、死亡年月日を聞き、天国と連絡を取った。ここから実際に死者と会うには、天国側の準備に一時間ほどかかる。その間に私は吉田さんへの検査が一頻り終わり、妻の吉田文子さんの話を聞くことにした。
「奥さんはどのような方だったんですか?」
「家内はまるで蒲団のような人物だった。」
蒲団とはどのような表現なのか、やけに難しい表現が気になったので深く尋ねてみた。
「蒲団というのはどういうところがそう思われたのですか?」
吉田さんは言葉を少し詰まらせて答えた。
「私を温かく包み込んでくれて、いつも味方でいてくれた。どれほど文子に助けられたかわからない。たまに言い合いになるときもあったが、すぐに謝ってくれた。私もそれに続いて謝って、二人で仲直りさ。」
吉田さんが抱える文子さんへの深い愛情が伺えた。やはり昔気質なとこもあるが、この話や、普段から市役所に通い詰めていたことからも意地にも近い何かを感じた。
「吉田さんは奥さんと会ったら何を聞くおつもりですか?」
「特に聞きたいと思うことはないな、なんで私を置いて行ってしまったんだと問いただすぐらいかな、あはは。」
「あまり奥さんを責めないでくださいよ、楽しい話をして、一分一秒でも記憶に残してくださいね。」
天国からの準備完了の連絡を受け取り、私は階段を警備する同僚に吉野さんを託した。
翌日、吉野さんは息を引き取った。亡くなった時は布団に包まれた状態だったらしい。最初は職員が禁忌を犯してしまったと頭をよぎった。しかし、吉野さんの死亡を報告に来た職員も突然の訃報に驚いていた。やはり、偶然の急病によるものであると自分の中で結論を出した。私は背中に僅かな悲しみを背負ったまま、昨日吉野さんを託した同僚に話を聞きに行った。同僚の様子は少しばかりの恐怖が混じりながら困惑していた。なにを恐れているのだろうか。
「昨日、階段でなにかあったのか。」
「吉田さん、階段から出てきたときにはもう震えてたんだよ。なんかごめんとかよくわかんないことをずっと言ってた。だから、死んだ奥さんの祟りだとか思っちゃったりして怖いんだよ。」
生前の文子さんは義弘さんの性格を受け入れていたのではなく、受け入れざるを得なかったのだろう。そこで怒りが募ったまま亡くなった。呪いの類は信じてはいないが、吉田さんが昨日の階段で責められるなどして、気を病んでしまったのか。私には分からない。だが、この件は天国の階段は利点だけではないことを知る機会となった。吉田さんは奥さんに何と言われたのだろう。
「お前は私を殺した」
文子は義弘にそう告げて、階段を上って消えた。
「私が殺した…覚えていない、分からない。思い出せない。どうしたらいい。すまない。許してくれ。」
義弘はそこから懺悔の言葉だけを口にしながら、自室で死んだ。
天国の階段 あしたてんき @asamogami
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