第五章
5-1
見渡す限りの水面である。
陸は一切見えない。
バイクは水面を走っている。
バイクを運転している僕と後ろに座っている小雀。
水の香りがとても良い。
この水の香りは僕にしか感じられないらしい。誰かに分かって欲しくて、冷たいような、濡れているような、何かが蒸発しているような香りがする、と言ったこともあるが伝わったことはない。
エンジン音が静かにそして低く響いて後ろへと流れていく。音は残らない。
天気は晴れで雲はほんの少しだけ漂っている。顔を右へと向けると入道雲が見え、その下が黒く淀んでいるのが分かる。雨合羽も傘も持っていないので降られることだけは避けたいものだ。
「おい見ろよ、後ろでイルカが飛んだぜ。すげぇな」
「イルカなら、今バイクの下を泳いでいますよ」
「うおお、マジだ。めっちゃ可愛い」
イルカってそんなに可愛いだろうか。どことなくエイリアン的ではないか。人間を身動きの取れない状態にして頭から足に向かって水流の生まれている濃硫酸に漬けておいたらこんな形状になるのではないかと考えてしまう。
前輪の右斜め下あたりをイルカがこちらと競うように泳いでいる。水面を反射する光によって微妙にゆがんだ形のイルカと、その下に見えるピンクや黄色のサンゴ礁が美しかった。目をこらすとイルカの下には魚の群れや、ゆっくりと泳ぐ大きな亀がいたりする。
「でも、よかったよなぁ。お前と幼馴染のあのクソコックがミルスペンサー社のバイクを持ってるなんてよ」
「そもそも七番が持っているということを知っていたので、この紅区画に手ぶらで来たのです」
「じゃあ、行き当たりばったりじゃねぇんだ」
「当たり前です。ある程度花を持たせればこれくらいのものは貸してくれるだろうと踏んでいました」
遠くで魚が跳ねたのが見えた。次の瞬間、何匹もの大きな魚が口を開けて水面から顔をのぞかせた。飛び跳ねた魚がまた水中へと戻れたのかは分からない。
また静かになる。
イルカは水面から顔を出すと僕の足を鼻先で触って水の中へと戻っていった。目で追ったが直ぐに分からなくなってしまった。
「景色、最高だな」
「全くです」
視界の隅を何かが通り過ぎていく。
砕かれたサンゴ礁のようにも見えたし色鮮やかな魚の背びれにも見える。
けれど、あれにも見えた。
カーネーション。
思い出そうとすればするほど、確信は濃くなっていく。
皮膚の内側で脈を打つかのような赤色のカーネーション。
正面の空と海が少しばかり黒く濁りだしたことに気が付く。
そこはかとなく、臭い。なんというか油ぎった臭いが漂ってくる。
現れたのは、水平線を覆いつくすほどの台数で横並びになって向かってくるハーレーの大群であった。
収集員たちである。
狙いは僕たちがここまで集めたオーパーツだろう。
僕はブレーキをかけて、ハーレーたちにバイクの側面を見せるようにして止まるとホバーのボタンを押した。水面に細かい泡が生まれ、その振動とともにバイクは倒れないように自動的にバランスをとる。
「やべぇ収集員だ。逃げようぜ」
「いや逃げても追いつかれるでしょう」
「どうすんだよ」
「本当にどうしましょうか」
「クリスタルの羽を使ってまた飛ぼうぜ」
「大変申し訳ないのですが条件を満たしていないせいか羽は出てきませんね」
「このバイクってなんかすげぇ機能ねぇのかよ」
「空を飛ぶ機能のついたバイクはあると思いますが、これは水面を走るだけの一般的なバイクです」
「しけてるな」
「どうでしょう。ここは観念して収集員と交渉をするというのは」
「例えば」
「ほかの区画にあるオーパーツの情報を教えるので、僕たちが持っているオーパーツは奪わないでほしいと懇願するとか」
「その交渉が通ると思うか」
「思いませんよ」
「でもまぁ、どっちにしたって交渉以外にあたしらに生きる道はねぇからな」
重たい指で小刻みに木製のテーブルを叩くような低くて太いエンジン音が群れとなって聞こえてくる。
良いアイデアが出てこない。
そうそう出てこないから良いアイデアであるわけで、これはしょうがない。
距離は約三十メートル。
正面のハーレーに、黒いガスマスクを被り赤い上下のスーツを着た収集員が乗っていた。同じくホバリング状態にしてから後ろに積んでいた荷物に手をかけた。
拡声器であった。
「いいかね、そこにいるお二人。私は、そして私たちは収集員だ」
大丈夫。知ってる知ってる。
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