第二章

2-1

 三ツ星区画の東には花街(はなまち)区画がある。

 二十八の線路が並んでいる踏切が、三ツ星区画と花街区画を繋いでいる唯一の道である。大体一時間に一度だけ通れるようになるが、何時何分なのかは日によって変わるため、待つほかない。

 黒いアスファルトと地面との間にはシロツメグサとカーネーションが咲いていて風に揺れている。地面に体を半分だけ埋めた煙草の空き箱や、空き缶。降りている踏切のバーに引っかかっているビニール袋の中には赤いゴミが入っていた。風がビニールの中に迷い込むと、中のゴミが揺れて乾いた音が聞こえてくる。

 空はまだ青い。

 三ツ星スクエアからここまで移動した体感時間では、夕焼けが見えていてもおかしくないと思っていた。

 結局、僕は三ツ星区画の中でしか生活をしてこなかったということなのだ。区画の境界線まで近づいたこともないし、大きな移動もしたことがない。

 不意に、自分の中の感覚が鈍いことをこの久十字路町のせいにしていると思った。性格が悪いのかもしれない。

 降りているバーの黄色と黒の塗料が剥げかけており、指で触ると枯葉のように地面に落ちた。バーの機構がむき出しになっている所を見ると、子どもが指を突っ込んで怪我をしてしまうのではないかと不安になる。

 黄色と黒は危険な色だ。近づきたくない。

 ひっきりなしに通る電車によって向こう側の景色も見えない。赤い列車と青い列車と黒の列車とピンクの列車。それらが線路を揺らし、地面を揺らし、外光を反射して、視界から消える。

 僕は、このバーを乗り越えるだけで絶対に死ぬのだ。

「なあ、花街区画に行くんだろ」

「もちろんですよ。完全なる球体がないなら、他のオーパーツから集めていくというだけです」

「あぁ、そうだな。それに他のやつを探しているうちに見つかるかもしれないからな」

「全くです」

「あたしさ、元々、この三ツ星区画出身じゃねぇんだよ」

「そうなんですか」

「花街区画出身なんだ」

 花街区画は治安の良いところではない。交通網は壊滅的、資源はほぼない。法律なども独自のものを作り上げてしまっている。他の区画の人間がやってきて、その中で生活することは難しいだろう。その逆もしかり。

 だからこそ、僕は驚いた。

 花街区画から、三ツ星区画に移り住んで上手くやっているということが信じられない。

「前にも話したけどさ、あたしのお父さんは娼夫だった」

「確か、お母様は」

「生まれた時にはいなかった」

「変なことを聞いてしまってすみません」

「別に、こっちこそごめんな。ただ、あたしはやっぱり花街区画にはいい思い出がねぇんだよ。全部、捨ててこっちに来たし、それこそ自分の影に追いつかれないように生きてきたし」

「花街区画に行くのをやめましょうか」

「いや、お前がオーパーツを集めるならついて行くよ。これもきっかけなのかもしれねぇしさ。なんとか過去に向き合ってみようかと思うよ」

 その瞬間、強く風が吹いた。

 特急電車がバーの向こう側を、しかし目の前を通っていく。

 髪の毛が揺れる。服の裾が揺れる。

 僅かに電車と電車の切れ間から、二十八の線路の向こうにあるもう一つのバーが見える。

 その奥に、死んだ母親が見えた。

 そんな気がした。

 また電車が通り過ぎて何もかも見えなくなる。掻き消える景色は情緒ではない。

 合わせ鏡である。

 僕のことか。

「お前、今、何か変なことを考えてただろ」

「いえ、別に」

「いや、何か考えてたって。お前と一緒にいる時間、めっちゃ長いんだから分かるに決まってんだろ。舐めんなバカ野郎が」

「いえ、すみませんが何も考えていませんでした」

「嘘だね。お前がその顔をする時はめっちゃ悩んでる時だ。なぁ、そうだろ」

「さあ、どうでしょうかね」

「前にその顔をしたときに何を考えてるか聞いたら、お母さんのことを思い出してたって言ったじゃねぇかよ。もう抱えきれないって言って、お前泣いたんだぜ。ちょっとだけだったけど」

「そうですか」

「あんなやつ、もう忘れちまえよ。別にいいじゃねぇかよ。あたしなんか、お前のお母さんの顔、マジで思い出せねぇぜ」

「他人の母親の顔を思い出せないのは、普通だと思いますよ」

「まぁ、そりゃそうだけどよ」

「そちらのお父様は娼夫だったわけですよね。お父様についてはどう思っていますか」

「なんだよ、あたしがお前のお母さんの話をしたからって仕返しかよ」

「そういう意味ではないですけど」

「親父は、そうだな。まぁ、よくやった方だと思うけどな。だって、あたしを花街区画である程度育てたわけだし尊敬はしてるよ。そりゃ、お前くらいにしか恥ずかしくてこの話はできないけどさ」

「父親の仕事が恥ずかしいということですか」

「そうだな。そんでもって、それを恥ずかしいと思ってる自分のことも恥ずかしいと思ってる。正直な話、ぜんぶ恥ずかしい。生き恥を晒しているのが自分単体の責任だってところがモロに」

「なるほど」

「クソ程モロに恥ずかしい」

「今、お父様は何をされているんですか」

「知らない。金だけ口座に入って来る。めっちゃ大金。やべぇ仕事じゃなきゃいいけど」

「大金を稼いでヤバくない仕事というのは難しいですね」

「あぁ、あたしもそう思う。きっと、あたしのためにどこかで血を吐いて生きてるんだろうなぁって思う。別にそこまで金が欲しいわけじゃないし、あたしだってバイトしてるから大丈夫なのに」

「大切なんでしょうね」

「あたしにとっても大切だよ」

 何故か夕ご飯の香りがした。絶対にそんなわけがないのだが、それは右から漂ってきた。電車の動きであるとか、そんなものに影響はされない。漂ってきて色濃く残ってどこにも行こうとしないのだ。

 不思議なものである。

 電車が通り過ぎると、その香りもどこかへと消えてしまう。

 バーが上がる。

「前向かねぇと転ぶぞ」

「分かってます」

「分かってるだけじゃ転ぶぞ」

「分かってます」

 遠くに水田が見える。

 青と緑が綺麗である。

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