第5話 先輩と後輩
「百瀬先輩。どこまで出来ました?」
「あとは微調整と装飾くらいかな。綿谷さんは?」
「実は…。」
ここは私の職場。アトリエのようなものだ。
と言っても、芸術家のアトリエとは程遠い、布と糸が散乱している床。
昨日徹夜したであろう、仮眠をとっている先輩や、あたふたと動き回っている後輩と、なかなかカオスな空間だ。
隣の部屋からデザイナーの「良いデザインが思いついた!私天才!」「天才はいいですからさっさと手を動かしてください!」なんていう声をBGMにしながら、作業に集中をするパタンナー部屋に私はいる。
「実は…って何かあったのかな?綿谷さん。」
綿谷さんは私の後輩だ。
作業自体はゆっくりなタイプだけれど、丁寧だし仕事を頼んだら手抜きなく仕上げてくれる安心できるいい子なんだけど、その綿谷さんが眉をハの字にしている。明らかに困っている。
「もしかして衣装汚したりしちゃった?」
「いえ、違います。衣装自体はほぼ仕上がったんですけど…その、デザイナーさんから要望が追加されまして…。その修正をかけようとしたら納期に間に合いそうになくて。」
綿谷さんの作業机の上には何度もパターンを引き直したあとがある。
「その衣装って納期3日後とかじゃなかった?」
「そうなんです。百瀬先輩もいっぱい衣装を抱えてますし、ご迷惑おかけしたくなかったんですけど。ちょっと間に合うか怪しくて。」
確かにいつもの綿谷さんのペースでやっていたら、きっと終わらないだろう。
「とりあえず、その修正されたデザイン見せてもらってもいいかな?」
「はい。」
綿谷さんは何度もすみません、と頭を下げながらデザインを見せてくれた。
頭を下げることなんてないのに。どちらかといえば、問題は納期ギリギリになって変更をかけてきたデザイナーの方なんだけど……。こんなことするデザイナーはなんとなく心当たりがある。
「なるほど。そういう修正ね。」
修正自体はまあ出来なくもないけれど、少しややこしいパターン調整になる。私は時計と、壁にかけてある納期がびっしりと書かれているカレンダーを見た。
綿谷さんが今から手掛けたら多分間に合わない。
「綿谷さん。私の担当衣装の装飾頼んでも良いかな?その間に私がこのデザインをなんとかするから。」
「いいんですか?」
「うん。任せて。そうと決まったら時間はあまりないからね!急ぎましょう。」
「はい!」
私たちは作業に取り掛かった。
「百瀬先輩って本当に作業が早いですよね。」
「そうかな?私も最初は遅くてよく先輩に怒られてたよ。」
「早くて正確で丁寧で、百瀬先輩は私の憧れです。」
「綿谷さん嬉しいこと言ってくれるねー。」
あはは、と軽い話を挟みつつも手を緩めることはなくスッスとパターンを引いていく。
それから時計が何周したかわからない。
気がつけば、どっぷり日が暮れていた。
綿谷さんは机に突っ伏してスースーと寝息を立てている。
午前中は仮眠をとっていた先輩はいつの間にかいなくなっている。
ふと自分の作業机に目をやると、栄養ドリンクと、お菓子。そして『程々に休憩するように。私は仕上がった衣装を届けてきます。』とメモが添えられていた。
あ、これ先輩の字だ。
そして先輩は外出中なのか。
私は綿谷さんの背中に軽く膝掛けをかける。よく見れば目元にクマがある。
まだまだ若い後輩なのに頑張らせすぎちゃってるな。先輩として申し訳ない。
「ごめんね、綿谷さん。」
んん、と小さく綿谷さんは寝息を立てた。
「さて、私は作業の続き。」
もう少しでなんとか納期までに仕上がる目処はつきそうだ。ギシッと音を立てて椅子に座り直すと、私は再び作業を再開した。
「桃子、朝よ。起きろー。」
「んん…っ。」
いけない。あれからうっかり私も眠っていたようだ。
「はっ、衣装!」
「大丈夫。あとは仕上げと微調整くらいだから、明日綿谷さんに任せるよ。あなたは帰って寝なさい。」
顔を上げると、目の前にいたのは先輩だった。
作りかけだった衣装は、ほぼ完成している。あれ、私昨日の晩ここまで進めたっけ?もう最後の方は無心で手を動かしていたから記憶が曖昧だ。
「ぼーっとしてるけど、桃子大丈夫?コーヒーいれようか?」
「先輩の手を煩わせるわけには!って痛っ!!!!」
私が立ち上がったと同時に落ちていたまち針を踏んだ。地味に痛い。
「あんたは座ってなさい。大人しく。いいね?」
「はい。」
いつの間にか私の机の上も綺麗に片付いている。
そういえば綿谷さんは。私は彼女のテーブルを見ると、彼女の姿はなかった。
「綿谷なら帰らせたよ。本人は嫌がってたけど、休むのも仕事のうちだって言ったら、渋々帰ったよ。顔色もよくなかったからね。」
「すみません。私、後輩に無理させて先輩失格です。」
「それを言ったら私も桃子という後輩を無理させて先輩失格なんだけど?というわけで、桃子もコーヒー飲んだら一旦帰宅しなさい。先輩命令よ。」
そういうわけにはいかない。
私には綿谷さん以外にも自分の抱えている仕事もあるのだ。
「でも私の抱えている仕事もあるので。」
「衣装の装飾なら綿谷がちゃん仕上げてたわよ。あの子前に比べて仕事早くなったじゃない。」
綿谷さんの机のそばのトルソーには、私が頼んだ装飾をしっかりと仕上げた状態で衣装が飾られていた。きっと必死になって仕上げてくれたんだろう。
「そうですね。」
思わず笑みが溢れた。
「今度綿谷さんにお礼をしないとですね。」
「綿谷も帰り際に同じこと言ってたよ。今度百瀬先輩にお礼をしないと!って。」
ふふッと笑みを浮かべて、先輩は私の机にコーヒーを置いた。
そして先輩も自分の分のコーヒーを口に含んだ。
「そういうわけだからあとは私に任せて桃子も帰りなさい。」
「はい。先輩、ありがとうございます。」
私は深々と頭を下げて、コーヒーを飲んだ。
仕事場をでた時点で、すでに空は明るくなっていて、時刻はもう昼前だった。
私はゆっくり歩きながら駅に向かう。そういえば、あの公園に冨貴さんはいるかな。でもこんなド平日の午前中には流石にいないか。
冨貴さんだって、大道芸以外にも本業があるのかもしれないし。
なんて思いつつも、足はあの時の公園、冨貴さんと出会ったあの場所へ向かっていた。
いるわけないよなあ、なんて思いつつも心のどこかでは期待をして。
「あれ?桃子さんおはようございます。今日はお仕事じゃないんですか?」
公園で、冨貴さんは相変わらずポンポンと器用にボールを投げていた。
手はボールを投げているのに、視線は私に合わせているという器用なことをして。
「冨貴さん?」
「はい、冨貴さんですよ。」
ニッコリと冨貴さんは笑った。
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