第4話 竜也君がなんと竜也牧師になっていた奇蹟
もともと読書好きの梨奈は、興味津々で竜也君の本を読み始めた。
梨奈曰く
「少年院や刑務所出身の人は、よく本を読むというわね。
実は私、日記風小説を書いている最中なの。
自分が主人公になったつもりになると、自分のなかで別人格が芽生え始めるのがありありと実感できるわ」
私るりの体験上、確かに小説を書くと日常を忘れ、別世界の主人公になったみたいな快進撃を味わえる。
もうゲームなど比べものにならないくらい、やみつきになってしまうところがだいご味である。
また登場人物の心情を忖度することができたことで、他者への思いやりの心がわき、人間の幅が広がることさえもある。
すると新しい世界が私の目の前に広がる。
今までは嫌な奴、とんでもない嫌味な奴だと思っていた人でも、
「この人はそういった世界のなかで、そういった教育を受け、それにどっぷりと浸かって生きてきたんだな」
そう思うと、この人はまわりの環境の被害者なんだなと思うこともある。
憎まれるべき人よりも、可哀そうな人なんだ。
もし私がその人と同じ環境に置かれていたら、私のその人のように、いやその人以上に嫌な奴になっていたかもしれない。
竜也の本には、聖書の御言葉が書いてあった。
「神とあなたの隣人を愛せよ」(聖書)
しかし、隣人だから愛せないこともある。
音、匂い、生活習慣の食い違いなど、違和感を感じることもある。
愛というのは、愛しやすい人を好きになることではない。
むしろそうでない人を、理解するように努めることである。
どんな嫌な奴でも、いいところを見つけ出していくと、少しずつ愛のしずくが芽生えることもある。
竜也は、反社社会に入り、組長代行まで務めたが、麻薬中毒になり、刑務所から出た途端に破門になってしまった。
しかし、クリスチャン女性から聖書を差し入れられた。
聖書の御言葉には
「しかし、たとえ罪を犯した者であっても、自分の犯した罪を離れ、私のすべての律法を守り、公正と正義を行うなら、死ぬことはなく、必ず生きる。
彼が犯した過去の罪はすべては忘れられ、正しい生活によって生きるようになる。
主である神は仰せられる。
私は、たとい罪を犯した者であっても、その人が死ぬことを喜ぶだろうか。
彼が悔い改めて、生きるようになることを喜ぶ」
(エゼキエル18:21-23現代訳聖書)
が記してあった。
竜也にあるもの、刺青、前科、麻薬歴、
ないもの、学歴、職歴、右手の小指
普通の人にあって当然のものが、竜也にはなく、逆にあってはならないものが、竜也にはある。
反社社会に生きてきた人間は、反社社会でしか生きられない。
一般社会では生きていくことは不可能である。
反省は一人でもできるが、更生は一人ではできないという。
しかし、竜也には母親とイエスキリストがいる。
ある有名アウトロー曰く
「反社を辞めた人間は、刑務所の中で死を迎えるか、野垂れ死にしかない。
必死で這い上がろうとする現場を見て来たが、やはりダメだ。
反社時代の性質がでてしまい、どの職業も長続きはしない。
しかし、イエスキリストと共にいる人間は、不思議とやり直しに成功している」
まさに、現代の竜也がやり直し成功者であろう。
「私の古い自我は、キリストがゴルゴタの丘の上に立てられた十字架で死なれたとき、キリストと一緒に死んでしまった。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのである。
今私が肉体を持ってここに生きているのは、私を愛し、私のためにご自分のすべてを捧げて下さった神の御子を信じることによって、生かされているのである。
私はこの神の驚くべき救いの恵みを決して無駄にはしない。
もしも律法を守ることによって救われるというのであれば、キリストは犬死をされたことになってしまう」(ガラテヤ2:20-21現代訳聖書)
竜也は、この御言葉を実行しながら生きている。
刑務所を出所してからは、いわゆる肉体労働をしながら、牧師になるための神学校に通い始め、自ら教会を設立した。
教会の名前は「罪人寄り添い イエスキリスト教会」である。
どのような罪人であっても、イエスキリストを信じている限りは、まっとうに生きていける。
いや、たとえ誘惑に負けて道を踏み外しても、不思議とイエスキリストが元に戻してくれる。
竜也の著書は、話題を呼んでマスメディアに紹介され、竜也が牧会している罪人寄り添い イエスキリスト教会は、テレビ番組にも報道されるようになった。
竜也とは、少年鑑別所から出所してからは、交流を持つことがなかった。
しかしもう一度、会うことができたら。
その思いを込めて、私は竜也の牧会している「罪人寄り添い イエスキリスト教会」を訪れることにした。
礼拝はごく普通の教会と同じものだった。
パンフレットを渡されたが、讃美歌を歌い、聖書の話をして、お祈りで終わる。
ただし、信者はバラエティーに富んでいた。
みるからに強面の男性もいれば、茶髪の子を連れた憂鬱顔のお母さん、もちろん、私のように平凡な主婦もいた。
しかし、なぜか明るい陽光に包まれているようだった。
竜也の説教が始まった。
講壇に立った竜也は、新約聖書を片手に
「神様は分け隔てなく、信仰するすべての人を愛して下さいます。
「あなたがたは皆、キリストイエスを信じて神の子供とされている。
キリストを信じ、キリストに結びつけられたことを表すバプテスマを受けたあなたがたは皆、キリストの聖い祝福された服を着たのである。
もはやユダヤ人もそれ以外の人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。というのは、あなたがたは皆、キリストイエスを信じて一体となったからである。
あなたがたはもうキリストのものであるのだから、アブラハムの本当の子孫であり、神の約束の相続人である」(ガラテヤ3:26-29現代訳聖書)
の御言葉を読んだ後で、
「神様は信じる人すべてを、誰一人分け隔てしません。
献金は感謝献金であり、強制でも会費でもありません。
ただし、家賃も払わないで献金することは、神様は悲しまれることです。
私の体験では、神は必要な日用の糧、いやそれ以上のものを与えて下さいます。
人によっては、なんらかの依存症で日用の糧を犠牲にして、ギャンブルや酒にのめりこむ人がいます。
しかし、神を信じれば依存症をも克服できます。
ちなみに私は、麻薬依存症から解放され、今はキリスト依存症になりました」
信者のなかには、納得したように我が事のように頷く人もいれば、呆れたようなポカン顔をする人もいた。
私はなかば、すがりつくような顔で聞いていた。
娘梨奈が、イエスキリストとやらによって救われたら、私はどんなにか嬉しいことだろう。
お祈りが終わったあと、なんと竜也が私を紹介した。
「初めての方ですね。ようこそいらっしゃいました。
あの、中学二年のときの同級生、るりさんですよね」
「はい、そうです」
私は返事をしたが、よく覚えていてくれたと感心したものだった。
竜也、いや竜也牧師は言った。
「今から、お証をします。井出ゆみかさん、どうぞ」
すると、二十歳過ぎくらいの一見大人しそうな、色白の人形のような女性が講壇に歩みでた。
人間というよりも、人形ケースからでてきた人形のような物静かな女性は、口を開いた。
「このことは、知ってる人も既にいらっしゃいますが、公の場で語るのは初めてです」
一瞬、教会堂がシーンと静まり返った。
「実は私は、麻薬中毒で、医療少年院に入院していました。
私の母は、私を出産してからすぐ離婚し、女手一つで育てられました。
しかし、転校先でいじめにあい、勉強嫌いということもあり、不登校になってしまいました。
中学も不登校になってしまい、街をぶらついているところに、反社から覚醒剤を勧められました」
いじめか。このいじめを救ってくれるのは、教師と家族しかない。
まあ、女性が一晩でも家出をすると、覚醒剤をもった反社が売春に利用しようとするのは、周知の事実である。
女子少年院も含め、医療少年院というところは、塀のなかで悪党から守られるところであるという。
逮捕されるということは、悪から離れるチャンスでもあるという。
」
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