第1話

 真夏だと言うのに、セミは鳴いていない日のことだった。


「──学校生活、面白くないの?」


 隣の席の男子が、その澄んだ声で唯に小声で話しかける。唯の席は窓際最後尾であり、今は自習時間。先生がいないのをいいことに、ちらほらと雑談をしている生徒もいる。そのため、この男子の言葉には誰も気づかなかっただろう。


 唯は視線を自習ノートに留めたまま、手を止めることもなく適当に聞き返す。


「……急にどうしたんですか?」


 唯も当然小声で返したが、不信感の抱いてる雰囲気には気付かれただろう。


 いや、急に学校生活おもしろくないのかと聞かれて、不信感を抱かない生徒などいないはずである。そういう意味では正しい感情と言えるだろう。


 今のは、その"そういう意味"には当てはまらないが。


 たしかに中学の頃の反省から目立たないように動いているため、唯は『唯』を隠していると言える。自分を隠して生活している唯に、「面白いか」と聞かれたら、答えはNOだろう。


 だが、それでも。人に悟られるほど感情をあらわにはしていないはずだ。


 実際、今こうして聞かれるまでの高校生活の1年半、誰からも疑われていなかった。


 しかも、隣の席の男子──涼風すずかぜなぎは、今年から唯と初めて同じクラスになったので、まだたった半年の関わりしか無い。


「あー、ごめん。さすがに言い方悪かったね。なんか普段から真面目に授業受けてるし、ノートの取り方もめちゃくちゃ綺麗だから、なんていうか……もう少し成績よくてもなぁって」


 凪は、唯のノートを覗き込んでくる。唯の視界が凪の髪に覆われる。唯は邪魔そうに椅子を少し後ろに引く。


「……うん、ごめん。自分でも笑っちゃうくらい失礼だよね……」


 先程の自分の言葉を思い出し、しゅんとなった様子で頭をどかす。


 どうやら、凪が疑ったのは勉強面に関してだったようだ。もしかすると、普段の学校生活も疑われてるのかもしれないが。


 とは言われつつも、別に唯だってそこまで頭が悪いわけではない。学年順位は毎回30位以内には入っている。ちなみに凪は毎回10位以内に入っている。


 つまり、凪が言いたいのは、ただバカにしているのではなく、ある種の心配なのだろうと唯は推測する。


「……別に、いつも普通です」


 そう言ってすぐに、言葉の選択を間違えたと後悔する。


「全力、ではないんだ?」


 それに気づいた凪は、さらに踏み込んだことを聞いてくる。それを煩わしく感じた唯は、ようやく視線をノートからそらし、凪に向ける。


 心配そうな視線を唯に向けていた。とても、踏み込んだ質問をしてきた人とは思えないものだった。


「だってそれは……」


 だから、だろうか。つい漏れてしまった声は、しっかりと凪にも届いたはずだ。


 唯は、ハッとした様子ですぐに口を閉じる。凪がしてくるであろう質問にどうやって返すかを考える。


 しかし、唯が想定した質問は、凪から発せられることはなかった。


「……そっか」


 それだけ言って、凪は自習に戻る。


 しかし、その言葉と共に唯に見せた凪の優しい光は、唯の心をじんわりとあたためていた。


 わずかに聞こえてくるすずめの鳴き声が、唯の耳にしっかりと届いてくる。




 次の日、唯は微熱を出してしまった。


 休む必要もないほどのものだったが、少し体調を崩しただけでも、人は普段の調子を保てないものだ。


 それが、唯にとっては致命的であった。


 しかし、高い成績を維持できない以上、出席で稼ぐ必要がある唯にとって、体調面は1番気をつけていたものだ。


 それを崩してしまったのは、昨日の一件が関係する──というのは考えすぎであろうか。


 ベッドの上からふと視線を窓に向けると、そこから覗く空は泣いていた。まるで、唯のこの判断が間違っている、とでも言っているようである。


 唯はいい加減にカーテンを閉める。


 唯だって、少しは勘づいているのだ。だというのに無視していることを、天は言いたいのだろうか。


 そんな自問自答を繰り返すことに、なんの意味もないということは、唯が1番分かっている。


 ──凪こそが、自分を檻から出してくれる存在であるかもしれないことなんて、唯が1番分かっているのだ。


 唯が少し口を滑らしてしまったこともあるだろうが、おそらく凪は薄々勘づいていたのではないだろうか。


 唯はこの生活から抜け出したい、だなんて思ってないはずだ。そうだというのに、唯はそんな光に当たろうと、すがろうとしている。


 たった一度話しただけで維がそう思ってしまうほどに、凪の話し方や雰囲気が維に寄り添ったものだった。今思いだすと、その事実をさらに実感する。


 布団に再度寝転んだ唯は、頭を含む全身に掛け布団をかける。


「……もういいです。寝てしまいましょう。微熱で少しおかしくなっているだけなんですから……」


 そう声に出して自分に言い聞かせ、目をつむる。


 が、タイミング悪く、インターホンが来客を知らせてくる。


 一人暮らしを今までで一番恨みながら起き上がり、来客に応答する。


「……はい」

『──あ、よかった。出てくれなかったらどうしようかと思ったよ』


 ドキン、と心臓が鳴るのを唯自身も感じる。


(……違います。今だけは会いたくなかっただけ、ですから)


 何を否定したのか自分でも分かっていないのに、心の中でそう自分に言い聞かせ、平然を振る舞いながら返事をする。


「どうしたんですか?」

『学校の手紙、届けに来たよ』

「……そういえば、家近いんでしたね。ありがとうございます。ポストに入れておいてもらえますか?」

『? 今渡した方が良くない? っていうか、元気そうか確認しておきたいんだけど……』

「……いえ、風邪がうつってしまったら大変ですから」


 それも当然理由の1つだが、今は顔を合わせたくない、という理由の方が強い。彼にすがろうという、おかしな判断をしてしまいそうになっていたところだったのだから。


 今顔を合わせたら、絶対に目を合わせられないし、顔も赤くなってしまう。


『そう? ならいいけど……お大事にね』


 凪はそう言って、離れていった。


 インターホン越しからだけでなく覗き穴からも帰ったことを入念に確認してから、恐る恐る玄関を開く。


 凪どころか小鳥の鳴き声すらもなく、ただ空が泣いているだけだった。気のせいだか、先程よりも強くなっているようにも感じる。


 玄関の外に取り付けられたポストに暗証番号を入力して、チラシと凪が入れてくれた手紙を取り出し、すぐに家の中へと帰った。


 また布団に潜ろうと廊下を歩いていると、1枚のプリントが落ちてしまう。


 そのプリントを拾い上げる。


 『一条さんへ』と書かれていた。この綺麗な字の感じから、おそらく凪が書いたものであろう。


 そのことを理解したうえで、唯はなぜだか一切の迷いなく内容に目を通す。先程まであんなに否定していたのに、いざ直面するとそんな覚悟はすぐに崩れてしまった。


 やはり、唯は凪という光に当たろうとしているのだろう。


『何か困ったことがあったら、いつでも僕を頼ってほしい。凪』


「……ばか」


 唯は丁寧に手紙を折り、枕のすぐそばに置いてから、再び眠りについた。


 いつの間にか雨はやんでおり、小鳥のせせらぎが聞こえていた。

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