day22 雨女(一度降ったくらいでは)
その日は、学校でプールが開かれる予定であった。
暑い夏に、無償で入れるプールということで、
だが……。
学校に向かっているときから、空は重たい色。
そして学校に到着する頃には、ぽつぽつと降り出す始末であった。
――この分ではプールは中止になると思っていたら、案の定そうなった。やって来た先生が中止の決定をすると、生徒達からは一斉に残念そうな声が上がる。
「プール、ちゅうしになっちゃったね」
「そうだね。もしかしてともえちゃん、あめおんなじゃない?」
「え?」
学校の友人に、初めて聞く言葉をぶつけられた。朝恵はきょとんとして、友人を見つめる。
「だって、あたしははれおんなだもん。パパもママもそういってるし。それなら、ともえちゃんがあめおんななんだよ」
「あめおんな? ……それなに?」
「しらないの、ともえちゃん? あめおんなってね、よていがあるとあめばかりになる人なんだよ。プールとかえんそくみたいな、たのしいよていもぜんぶ、あめでだめになっちゃうんだよ」
――そうだったんだ。思わぬ言葉をかけられて、朝恵の胸はちくりと痛んだが、学校の友人は全くそのことに気付いていない。
友人と別れて一人で歩き始めても、朝恵の足取りは重くなるばかり。――まるでこの、雨を降らせる黒い雲のように。
わたしは雨女で、だから楽しい予定も駄目になっちゃうんだ――その言葉ばかりが、頭の中をぐるぐると巡る。
「どうした、朝恵ちゃん? 随分と足取りが重いし、傘はどうした?」
とぼとぼと歩く朝恵の頭上に、傘が差し掛けられた。顔を上げると、そこには
「――おにいちゃん……!」
真雅の顔を見たら、ずっとこらえていたものが堰を切ったように流れ始めた。
激しく雨の降り続く中、朝恵は真雅に縋って、大きな声を上げてわんわん泣きじゃくったのであった。
あったかいな……。
朝恵は湯船に浸かりながら、ほっとしていた。
ここは何と、真雅の家の風呂場である。びしょ濡れになっていた朝恵を連れて帰った真雅は、問答無用で「ひとまず、身体を温めてくるんだ」と風呂を準備して朝恵を放り込んだのだ。
そこは、こざっぱりと片付いた空間であった。タイルにも汚れひとつない。どうやら真雅は、かなり綺麗好きのようである。
風呂から上がると、脱衣所にきっちり真新しいタオルが用意されていた。ふわふわのタオルで水滴を拭き取ってから服に手を伸ばした瞬間、朝恵は目を丸くする。――濡れていたはずの服は、全て乾いていたのだ。どういうことなのだろうか?
乾いた服に袖を通して、濡れている髪はどうしようかと悩んだ結果、括らずおろしたままにすることにした。
「――しっかり温まれたか?」
「うん。……ありがとう、おにいちゃん」
外に出ると、キッチンと思われる場所から真雅が顔を覗かせた。
「そっちに、テレビのある部屋があるから、そこにいてくれ」
真雅が指差した方に向かうと、確かにテレビのある部屋があった。――全部、初めて入る場所だ。――思わぬことで、真雅の家の奥まで入ることになってしまった。朝恵は自然と胸がどきどきしてくるのを抑えられずにいた。
「待たせたな。――何だ、座っていれば良かったんだぞ、朝恵ちゃん」
そこに座ってくれ、と低いテーブルのところに置かれた座布団を真雅は指す。朝恵の家には座布団が無いので、これには初めて座ると思いながらも、きちんと正座して座った。
「朝恵ちゃんは行儀が良いな。――これでも飲むと良い」
真雅は朝恵の前に、マグカップを置いてくれた。ふわりとミルクココアの甘い香りが漂ってくる。
「……ありがとう、おにいちゃん。――いただきます」
一口、ココアをすすると、優しい甘さが口いっぱいに広がった。冷茶と同様、とても丁寧に作られた味だ。
しばらく、二人は口を開かずにいた。静かな空間に、商店街にかかる音楽だけが、遠く響く。
「……聞かないと何もわからないから、聞くぞ。――何があったんだ、朝恵ちゃん?」
俺様でいいなら、話してみればいい。真雅は気遣わしげな瞳で、朝恵を見つめた。
「折り畳み傘を持っているのにさしていないし、ずっと落ち込んでいるし。――そんな様子では、気がかりでな」
――雨女の話を、してみてもいいだろうか。真雅は、朝恵が雨女でも、変な顔をしないだろうか? それが気になりはしたが、一人で抱えているのは、もっとしんどかった。
「……あのね、おにいちゃん」
「どうした?」
「わたしね。あめおんななんだって。――たのしいよていも、ぜんぶあめでだめになっちゃうんだって……」
「――雨女? それは、誰が言ったんだ?」
「学校のおともだち。きょうのプールがあめでだめになっちゃったの。……それで、わたしがあめおんなだって……」
またその瞳に、止まったと思っていたものが溢れそうになってきた。真雅の様子を窺うと、その鋭い瞳に厳しい光をたたえて、黙り込んでいる。――今まで見たことがない目だ。怒らせてしまったのだろうか。
「――馬鹿馬鹿しい」
「……え?」
一言、吐き捨てた真雅の声も、どこか冷たくて。やはり、真雅を怒らせてしまったのだろうかと、朝恵は恐る恐る、顔を上げた。顔を上げた瞬間、その大きな瞳から零れ落ちるものがある。真雅はハンカチを取り出すと、朝恵の目元を驚くほど繊細な手つきで、拭き取った。
「――そんな理由で朝恵ちゃんが雨女? ふざけるのも大概にしろと、俺様がいたらその場でその子に言ってやってるぞ。――それはただの八つ当たりだ。朝恵ちゃんが気に病む必要は、どこにも無い」
「……ほんとうに? おにいちゃん、おこってない?」
「俺様が怒っているように見えるとしたら、その子に怒っているんだ。朝恵ちゃんを、その子の勝手な気持ちのはけ口にされたんだからな」
真雅は朝恵と視線を合わせると、静かに口を開いた。
「雨女とか、晴女とか俗に言うが――まあ、俗説だな。たまたま降ったり晴れたりということが、予定があるときに重なった。それを雨女とか晴女って称しているだけだ。男なら、雨男に晴男という。――楽しい予定が雨でなくなってしまったのは、今回が初めてだろう?」
「うん……」
「それならなおのこと、それだけで雨女とは言わない。たった一度、降ったくらいではな。雨が降って予定が流れても、それで朝恵ちゃんが悪いなんてことは無いんだ」
わたしは、悪くなかったのか。――雨女でも、なかったのか。真雅の言葉を聞いているうちに、少しずつ、重かったものが解れていくようだ。
「朝恵ちゃんは何も気にしなくていい。だから――そんな顔を、もうしないでくれるか?」
そんな顔。――そんなに酷い顔をしていたのだろうか? もう大丈夫、というのを示すように、朝恵はひとつ、頷いてみせた。
「それなら良かった。――第一、雨女って、悪いことばかりでは無いんだぞ?」
「そうなの、おにいちゃん?」
「ああ。俺様、暑いのが苦手だからな。この季節は晴れすぎるよりも、適度に曇ってくれた方が良い。だから晴女とか雨女というものが本当に存在するのなら、出掛ける相手は雨女の方が有難い――と、こんな考えの人もいるんだ。雨女を有難がる人もあると知れば、少しは気持ちも軽くなるだろう?」
朝恵は大きく頷いた。――もし本当に、朝恵が雨女だったとしても、真雅はその方がいいというのだから。
「よし。雨がもう少し落ち着くまで、ここにいるか。――帰るのは、もう少し気持ちが晴れてからの方が良いだろうからな。朝恵ちゃんは何がしたい?」
「……おにいちゃん、おみせはだいじょうぶなの?」
「ああ。店に人が来たら、気付くようにしてあるからな」
「それならね。――わたし、おにいちゃんのおはなしがききたい」
「俺様の話? お安い御用だが――何を話そう?」
真雅の話なら朝恵は何でも楽しいのだが、きっと何でもいいとは答えてはいけないのだろう。
二人がいろいろと話し込んでいるうちに、雨は次第に、遠ざかっていったのであった。
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