day20 摩天楼(お兄ちゃんはわかってくれる)

 その言葉は、朝恵ともえが観たある映像作品のパッケージで見かけたものだった。


『摩天楼』


 ……難しい、言葉だ。真ん中の漢字を「てん」と読むこと以外、何もわからない。


「ねえ、おとうさん、おかあさん。これはなんてよむの?」

「これ? この字は『まてんろう』って読むのよ、朝恵」

「……まてんろう。それは、どういうもの?」

「摩天楼か? うーん……この辺りには無いものだな、朝恵」


 また『この辺りには無いもの』だ。朝恵のわからないものについて、両親はそういう言い方をすることが度々ある。――そのたび、朝恵は満たされない気持ちになるのだが。この辺りに有るか無いかではなく、どういうものなのかを、朝恵は尋ねているのに。


 ――お兄ちゃんに、質問してみよう。お兄ちゃんならきっと、朝恵の尋ねていることの意図を全部、わかってくれるから。


 これ以上両親のことは煩わせないでおこう。朝恵は寝る支度をするべく、自分の部屋に向かったのだった。





 翌日もよく晴れた一日であった。

 無事、一学期の終業式を終えた朝恵は、軽い足取りでミヤコ屋に向かっていた。これから八月の末までは、夏休みなのだ。


「――今日は随分と帰りが早いな?」

「おにいちゃん!」


 清遊堂せいゆうどうの裏――真雅しんがの家の玄関前で何やらしていた真雅と、ミヤコ屋の裏口前でばったり出会った。真雅はこの暑い日でも七分袖のヘンリーネックのシャツを着ていた。半袖でなくて暑くないのだろうか? 今度聞いてみよう。


「きょうはね。しゅうぎょうしきだったの」

「終業式か。つまりは、これから夏休みだな。――朝恵ちゃんは夏休み、何をするんだ?」

「うーん……しゅくだいをして……あとは本をたくさんよむよ。じをいっぱいおぼえるの」

「それは良いことだ。――また気が向いたら、いつでも俺様のとこなら遊びに来ていいんだぜ」

「ほんとう、おにいちゃん?」

「ああ。いつでも待ってるぜ」


 真雅と目が合うと、その鋭い瞳を細めて真雅は笑ってくれた。黄色い瞳が、今日もとても鮮やかで綺麗だ。


「あのね、おにいちゃん。――わたし、おにいちゃんにききたいことがあるの」

「そうか。今日は何だ?」

「まてんろうって、どういうものなの?」

「摩天楼か? そうだな――簡単に言うと、とても高い建物のことを指す言葉だぜ」


 建物だったのか、摩天楼は。朝恵は次々と、真雅に質問を続けていく。


「とてもたかいって、どのくらいなの?」

「その辺で見かけるビルよりもずっと高い建物だぞ。摩天楼というのは、天――空をこすりそうなほどに高い建物、って意味の言葉だからな」


 真雅は朝恵が尋ねる前に、言葉の意味まで教えてくれた。空をこすりそうなほどに高い建物。ものすごく高い建物を、摩天楼というようだ。


「ほんとに、とってもたかいたてものなんだね。――このあたりには、まてんろうはない?」

「無い――と俺様は思うな。俺様、今までに摩天楼と呼んでも良いくらい高い建物には一応、お目にかかったことがあるが、それはこの国じゃないところだからなあ」

「おにいちゃんは、かいがいにもいったことがあるの?」


 朝恵は少し大きな声を出してしまった。真雅は、海外にも行ったことがあったなんて。朝恵はテレビの中でしか見たことのない世界だ。


「ああ、あるぜ。ドイツには長いこと滞在したことがあるし、イタリアもあるし――随分とあちこち行ってきたぞ」


 真雅は指折り、今までに行ってきた国を教えてくれた。真雅の訪れた国は多岐にわたり、だから何でも真雅は知っているのかと朝恵は結論づけた。――お兄ちゃんは、本当にすごい。


「おにいちゃんの見たまてんろうのはなし、わたしがきいてもいい?」

「勿論だ。――でもここで立ち話は暑いからな。また後で店に来てくれ。何でも話してやるぜ?」

「ほんとう? おにいちゃんのおしごとのじゃまにならないなら、わたしいくね」

「俺様の仕事のことは気にしなくていいから、遠慮無く来たらいいぞ」

「じゃあ、またあとでね、おにいちゃん」


 朝恵はランドセルを背負い直すと、ミヤコ屋の裏口から店に入っていった。

 ――お兄ちゃんはやっぱりわたしの聞きたいことを全部わかってくれた。そう、思いながら。

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