day16 窓越しの(それだけで、元気一杯)

 髪の毛というものは、気がつくと伸びているものだ。


朝恵ともえ。前髪が伸びすぎていないかしら?」


「だいじょうぶだよ、おかあさん」


 本当はほんの少し、前髪が鬱陶しくなってきているのだが、それには気付かないふりをした。――それもそのはず。朝恵は美容院が苦手だったのだ。終わるまでずっと椅子でじっとしていないといけないのが、どうにも慣れなくて。


「大丈夫じゃないでしょう。朝恵、宿題はもう終わったんでしょう? 今から美容院に行ってらっしゃい」


 有無を言わせず、朝恵の母は小銭入れにお金を入れると朝恵に手渡した。


「朝恵が美容院に行きたくないことくらい、わかっているのよ。綺麗にしていらっしゃい」


「……はーい……」


 ――どうやら、諦めて行くしかなさそうだ。

 朝恵は小銭入れを握りしめると、人で賑わう商店街に出て、歩き出した。





 美容院の『ミスギ』は彩花商店街あやはなしょうてんがいの四番街にあった。


「あら、ミヤコ屋のお嬢さん。いらっしゃい。今日はどうしましょうか?」


 店舗に入った瞬間、この店の美容師でもあるお姉さんに出迎えられた。――さあ、もう逃げられない。朝恵は美容院の大きな椅子に座らされた。


「かみのけを、ととのえてください」


「そうね。前髪と――あとは後ろ髪も少し整えた方が良さそうね。大丈夫、お下げ髪は出来る長さにするからね」


 お姉さんはそう請け負ってくれた。いろんな形のハサミやドライヤー、髪につける薬剤などが横に用意されて、いよいよ開始だ。


 早く、終わらないかなあ。

 朝恵は鏡の中の自分を見つめる。同級生よりは少し小さな身体に、栗色の髪。少し大きめの黒い瞳に小さな唇といった、見慣れた顔を。

 後ろ髪にチョキチョキと、ハサミが入る。丁寧に毛先を揃えていくから、なかなかカットは終わらない。――この時間は、やっぱり苦手だ。


 だんだん眠たくなってきた、そのときだった。窓越し――といっても、朝恵が見ている窓は鏡に映っている窓だが――に、真雅しんがの姿を見つけたのは。


 窓越しに見ても、真雅は綺麗だった。ウェーブのかかった長い黒髪に、鋭い黄色の瞳。少し痩せ型だがすらりとした長身に、すっと通った鼻筋と形の良い唇。普段通りにヘンリーネックの七分袖のシャツに、スキニーパンツといった格好の真雅は、どこかに行くところなのだろうか。周囲に目をくれることもなく、雑踏の中を歩いていた。


 おにいちゃん――呼びかけたくとも、呼びかけられない。第一、呼んだところでここでは朝恵の声は真雅に聞こえないはずだ。鏡の中の窓越しに、真雅の姿を見送っていたそのときだった。


 真雅が、足を止めた。


 足を止めたかと思うと、美容院の方へと、真っ直ぐに歩いてくる。


(おにいちゃん……?)


 そして、窓越しだが――確かに視線が、合った。


 真雅は、その鋭い瞳を少し和らげて、微笑んだ。――間違いなく、朝恵の方を見つめて。

 頑張れよ、朝恵ちゃん。唇がそう動いたかと思うと、軽く手を上げて真雅は歩み去って行った。


 おにいちゃん、わたしのことを窓越しにでも見つけてくれたんだ――。そう思うと、胸がいっぱいになってきた。


 真雅が頑張れと言ってくれるなら、苦手の美容院も頑張れる。その応援だけで、わたしはもう、元気一杯だから。気付けば眠気も、すっかり吹き飛んでいた。


 これが終わったら、お兄ちゃんにありがとうを言いに行こう。お兄ちゃんのおかげで、頑張れたのだと。

 鏡の中を真っ直ぐ見つめながら、朝恵は自然と笑顔になっていたのであった。

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